仕事なんで、まぁしょうがないといえばしょうがないことなのですが。海外と共同で進行しているプロジェクトで、こちら側とあちら側との間で意見が対立してちょっとした揉め事になりそうな状況になりました。離れている人と正面からケンカになることはプロジェクト全体の生産性を落とす上に、こちらは語学力に明らかにハンデがあるし、さらにこちら側は少しだけ前言撤回をしなければならない後ろめたさもある状況なので。とりあえず軽く謝って譲歩しつつも落としどころを探していくようなやり方にしてはどうかと僕は提案してみたのですが。こちら側(全員日本人。僕以外は海外に住んだ経験ナシ。純粋な語学力は僕とさほど変わらないけど、英語で喋るとだいたいこんな感じになる。)の日本人達が言ってることは、まぁこんな感じです。
・口頭の議論ではこちらが言いたいことを十分に言えなくて不利なのでメールの往復にしよう
・あちら側に空気読まずに言いたいこと言ってくるメンドクサい奴がいるから、リーダーの奴とだけ話をしよう
・譲ったり謝ったりしたら負けだ、とにかくまずはこちら側に都合の良い事を一方的に主張しよう
言い換えると、「語学力のハンデによる不利益を最小限に抑えつつもこちらの意図している方向に少しでも向かうようにしようよ。相手はガイジンだろ?アイツら流のグローバルスタンダードに習って都合のいいこと主張しておけばいいんだよ。どうせ向こうは向こうで言いたいこと言って削ってくるんだからさ。ペコペコ謝るなんて日本人だけらしいぜ。そんなことしたって損するだけだろう?」といったところでしょうか。
ここまできて、さすがにちょっと違うんじゃないのかなぁ?と思ったわけです。まず彼らの発想にぼんやり伏流している「ガイジン=たぶんだいたいアメリカ人みたいな感じ」という国際感覚はいくらなんでも雑すぎるんじゃないでしょうか(ちなみに今回のあちら側は欧州人です)?アメリカ人はどうか知らないけど、少なくとも欧州人(より厳密に言えば僕が知ってるのは主にスペイン人)は日本人に比べたら確かに自己主張はするけど、譲り合う能力は日本人より高いと思います。だから日本人みたいに「議論=斬り合い」にならないのです。
逆に言うと、日本人同士なら分かり合えると彼らは思ってるみたいなんですが。彼らと日々仕事をしていると僕がいつも感じるのはこういうことで。現にこの案件に関して「我々は語学力にハンデがある=弱者」という点以外では僕と彼らの見解は全く相反しているのです。
このように我々が弱者だという点では見解が一致しているのに、そこから導き出される見解が全然違うのはどうしてだろうと考えてみたのですが。どうやら僕の2年間のスペイン生活は「語学的にハンデが有る”弱者”としてスペイン人の社会の中で生きていく」という訓練の場になっていて、以後、日本語が通じない相手と接する際にはこの「弱者」の態度を基本的なフォームとして採用しているようなのです。
そしてようやく本題になるのですが、これは内田樹氏の武道論とほとんど同じことを言ってると思うのです。氏の修行論という本の紹介文では武道をこのように位置づけています。
武道の修業、なかでも著者が長年稽古をつづけている合気道の修業を通じて開発されるべき能力とは、「生き延びるための力」である。それは「あらゆる敵と戦って、これをたおす」ことを目的とするものではなく、「自分自身の弱さのもたらす災い」を最小化し、他者と共生・同化する技術をみがく訓練の体系である。
もうこの文章に言いたいことはだいたい集約されているのですが。以下、webに散らばっている氏の武道論を引用しつつ、こちら側の日本人の何が問題か考えてみます。
■天下無敵とは敵をつくらないこと
「無傷な、完璧な状態にある自分」が存在するとした時に、そうじゃない状態(今あるような自分のこと)を「敵による干渉の結果」として説明するような方法をとる、これが敵を生みだすロジックです。
こちら側の日本人は「英語になるから言いたいことが伝わらないんだ」といった具合に、「完璧な自分」の能力が「語学の壁」という敵の干渉によって損なわれているという語法をうらめし気に使うのですが。このような考え方は内田氏の指摘の通り、あちら側を敵とみなす物の考え方に帰着する結果になっています。そんな事言っても、有り物の語学力でやりくりするしかないんですけどね。。
■居付き(ここの最初の方にだいたい書いてあります)
僕の理解した範囲で「居付き」の極端な例は、夜道でナイフを振り回して脅してくる敵のナイフに対する恐怖で体がこわばって身体運用の自由が制限されてしまうような状況です。こうなるとベストパフォーマンスを引き出すことが難しくなるので危険を回避できる可能性がより低くなってしまうわけです。こちら側の日本人の態度もこれと同じで、自分達が語学的に弱者である(=相対的に相手が強い)という恐怖が相手に対して過剰に防衛的かつ攻撃的な態度(アメリカ人のモノマネ)に出るような結果になってしまっているように見えるのです。純粋な語学力の観点からは、僕の語学力はこちら側の彼らより多少マシな程度でそんなに大差無いと思うのですが。こちら側の彼らと僕の大きな違いは、自分が語学的に弱い状況に対する経験値なんじゃないかと思いました。
■キマイラ=相手と同化する(ここの2ページ目に書いてあります)
二人の人間が対峙しているとき、その事態を『頭が二つ、体幹が二つ、手が四本、足が四本』のキマイラ(ギリシア神話に出てくる怪物)的な生物が一人いるととらえる…<中略>…私と相手を同時に含む複素的な身体がある。…<中略>…複素的身体はすでに成立しており、すでに動き始めている。その構成要素として、私と相手は事後的に分節されるばかりである。その枠組みで考えれば、私と相手の動きの先後や強弱勝敗巧拙の差は問題にならない。」(「修行論」より)
自分と相手を対立する物と考えるのではなく、相手と同化して一つのキマイラを作るんだと考えるということです。夜道でナイフを振り回して脅してくる相手(利害が100%相反する)と対峙するときでさえ瞬間的にキマイラを作れと言っているわけです。今回の例で言うと、あちら側とこちら側はプロジェクトの運営という共通の利害を持っているので、瞬間的どころか恒常的にキマイラを形成することを本来目指しているはずなのです。メンドクサい奴があちら側にいるからといって話から外すという態度は結果的にこのキマイラの成立を妨げるだけなのです。
実際のところあちら側のリーダーだって、メンドクサい彼に何もお伺いを立てずにこちら側と話をするなんて無理なので。当然そのメンドクサい彼にも意見を聞かざるを得ないわけです。結果として、こちら側がメンドクサい彼を邪魔だと思っているという事実だけが伝わるだけで、何も得るものは無いのです。
以上述べたように、大多数が語学的に弱者である我々一般の日本人が弱者なりに国際社会を生きていく上で、内田氏の提唱する武道論の方が「グローバルスタンダード」を標榜してアメリカ人のヘタなモノマネをするよりもはるかに有用なんじゃないだろうかと僕は思うのです。
2013年11月4日月曜日
2013年6月9日日曜日
初めて英語よりスペイン語で話したいと思ったとき
来週からバルセロナに出張に行ってきます。バルセロナ ああバルセロナ バルセロナ。と、バルセロナという街に対して日本的情緒で思いを馳せるのはなんか倒錯していますね。こういうとき、やっぱり日本人なんだなと思います。そういえば昔、在西暦十年以上の日本人が「日本に居たときは中島みゆきが大好きだったけど、スペインに来てしばらくしてから全く聴く気がなくなった」と言ってた話を思い出します。日本的なフォークの感性って「いつでもどこでも楽しい」スペイン人と対極にあるので、そうなるのはすごくよく分かる気がします。
さて。そんなスペインですが。3年前にスペインでの生活を開始した直後はそりゃ色々と大変だったのですよ。なにせ言葉がほとんど分からなかったので。一応スペイン語の基礎みたいなのは勉強して行ったのですが、最初は電車の中で人がカタラン語で話してるのか標準スペイン語で話してるのか、その区別さえ出来ませんでした(9ヶ月くらい経ったら「理解できなかったことはカタランだったことにする」という習慣が定着したのですが)。しかもそんな状況で家をさがしたり役所(スペインの外国人局の職員はほとんど英語なんて喋れません)をまわったりといったことをやらなければいけないので、さすがに色々しんどかったです。この時期は、カラオケ屋にいって大声で歌いたいとよく思いました。
当然この当時は、とりあえず英語で話してくれる人がすごく有り難かったです。少なくとも職場の中は全員英語ができるので最初はほとんど英語で会話していました。しかしそれも「英語で話してもらってる」という感じはどうしてあった上に、僕に気を使ってわざわざ英語で話してくれてる内容がわからなかったりすると本当に申し訳ない気分になったものです。この頃は自分のことを「もしもこの職場が悪魔超人だったら、英語さえも不自由な自分は明らかに一番弱いステカセキング」だと思ってました。
しかしながら、辛い思いをしながらもしばらく生活しているうちに少しずつスペイン語にもだんだん慣れてきまして。ある日、スウェーデンからきていたERASMUS(ヨーロッパ内での交換留学制度)の学生と英語で話しているときに「今この人とスペイン語で話したい」と初めて思ったのです。なぜかって、彼の英語が訛ってる上に流暢過ぎて何言ってるか全然わからなかったからです。で、ためしにスペイン語で話してみたらだいぶ会話しやすくなったのです。彼は短期滞在なのでそんなにスペイン語ができるわけでもなければ、そんなに熱心に勉強しているわけでもないので、僕とスペイン語のレベルがだいたい釣り合っていたのです(って言ってもそれなりに頑張ろうとしてた僕と大差ないレベルだったんですけどね)。
僕だってスウェーデン人の彼だって、絶対的な語学力はどう考えても英語の方が上なんですが。それでもスペイン語で会話した方が(すくなくとも僕には)スムーズだったということは。つまるところ、快適にコミュニケーションするには絶対的な語学力の高さよりも、お互いの語学力の相対的なレベル差が少ない事のほうが大事なのかもしれないと思ったわけです。
ではとりあえず行ってきます。たぶん思ってる以上にスペイン語がヘタになっててしょんぼりして帰ってきそうな予感がするのですが。ともあれ、パンコントマテやパタタブラバスや生ハムや…アレやコレを食べれるだけでもヨシとしましょう。
さて。そんなスペインですが。3年前にスペインでの生活を開始した直後はそりゃ色々と大変だったのですよ。なにせ言葉がほとんど分からなかったので。一応スペイン語の基礎みたいなのは勉強して行ったのですが、最初は電車の中で人がカタラン語で話してるのか標準スペイン語で話してるのか、その区別さえ出来ませんでした(9ヶ月くらい経ったら「理解できなかったことはカタランだったことにする」という習慣が定着したのですが)。しかもそんな状況で家をさがしたり役所(スペインの外国人局の職員はほとんど英語なんて喋れません)をまわったりといったことをやらなければいけないので、さすがに色々しんどかったです。この時期は、カラオケ屋にいって大声で歌いたいとよく思いました。
当然この当時は、とりあえず英語で話してくれる人がすごく有り難かったです。少なくとも職場の中は全員英語ができるので最初はほとんど英語で会話していました。しかしそれも「英語で話してもらってる」という感じはどうしてあった上に、僕に気を使ってわざわざ英語で話してくれてる内容がわからなかったりすると本当に申し訳ない気分になったものです。この頃は自分のことを「もしもこの職場が悪魔超人だったら、英語さえも不自由な自分は明らかに一番弱いステカセキング」だと思ってました。
しかしながら、辛い思いをしながらもしばらく生活しているうちに少しずつスペイン語にもだんだん慣れてきまして。ある日、スウェーデンからきていたERASMUS(ヨーロッパ内での交換留学制度)の学生と英語で話しているときに「今この人とスペイン語で話したい」と初めて思ったのです。なぜかって、彼の英語が訛ってる上に流暢過ぎて何言ってるか全然わからなかったからです。で、ためしにスペイン語で話してみたらだいぶ会話しやすくなったのです。彼は短期滞在なのでそんなにスペイン語ができるわけでもなければ、そんなに熱心に勉強しているわけでもないので、僕とスペイン語のレベルがだいたい釣り合っていたのです(って言ってもそれなりに頑張ろうとしてた僕と大差ないレベルだったんですけどね)。
僕だってスウェーデン人の彼だって、絶対的な語学力はどう考えても英語の方が上なんですが。それでもスペイン語で会話した方が(すくなくとも僕には)スムーズだったということは。つまるところ、快適にコミュニケーションするには絶対的な語学力の高さよりも、お互いの語学力の相対的なレベル差が少ない事のほうが大事なのかもしれないと思ったわけです。
ではとりあえず行ってきます。たぶん思ってる以上にスペイン語がヘタになっててしょんぼりして帰ってきそうな予感がするのですが。ともあれ、パンコントマテやパタタブラバスや生ハムや…アレやコレを食べれるだけでもヨシとしましょう。
2013年5月30日木曜日
語学とお仕事(5)
以前のエントリに書いたように、僕は(少なくとも僕より語学が出来ないと思っていた)後輩が会社から海外に送り出されるのを見たときにとても悔しい思いをして、その後紆余曲折ありながらも同じように自分が会社から海外に送り出された後に、日本に戻ってきて一年が経とうとしている。やれグローバル時代だとか言ってみたところで、田舎の製造業の我が社で理系のエンジニアが海外に行くのはまだまだ特殊事例だ。行く前と帰って来た後で僕に注がれたのは、かつて僕が後輩に向けてたのと同じで、簡単に言うと「ズル~い」というちょっと嫉妬の混ざった視線だった。確かに結果として運が良かったとは思うよ。だけど、君よりは語学をがんばったつもりなんだけどな。とか、行ったら行ったでいいことばっかりじゃなくて色々辛いことだってあるんだよ。特に最初の方はね。とか思ったりもする。まぁ、勿論そんなこと彼らには言わないけど。
ちょっと前にルース・ベネディクトというアメリカ人の書いた「菊と刀」という本を読んだらなるほどと思うことが書いてあった。この本は日本文化論の古典的名著であり、いかによくできているかはたとえば内田樹などさまざまな人がすでに言及しているのでそこはさておき。ルース・ベネディクトが言うには、アメリカという国では一代で巨万の富を得るのはアメリカンドリームの実現であり賞賛されるべきことであるが、日本では明治維新後に急に巨万の富を得た者は「成金」と呼ばれて庶民から蔑まれた。つまり、アメリカと日本では完全に反応が真逆になるんだそうな。曰く、日本は天皇から始まって武士、農民、果ては賎民まで明確な「カースト」が存在する階級社会で、それぞれの階級に与えられた特権を逸脱しようとする者は必ず罰せられ。だから成金は庶民から蔑まれたというわけだ。
僕の話に戻ると。興味深かったのは、会社の人達が僕を「階級を逸脱した特権を得た」としてやんわりではあるが攻撃的な目を向けてくる一方で、そのような処遇を与えたお上(=会社)を非難しようとはまるで思ってないことだ。もし僕が階級を逸脱した特権を得たと思うなら、僕にそれを与えたお上(=会社)も多少は非難するのが筋なんじゃないかと思うんだけど、彼らはそのようには考えない。
ちょっと前にルース・ベネディクトというアメリカ人の書いた「菊と刀」という本を読んだらなるほどと思うことが書いてあった。この本は日本文化論の古典的名著であり、いかによくできているかはたとえば内田樹などさまざまな人がすでに言及しているのでそこはさておき。ルース・ベネディクトが言うには、アメリカという国では一代で巨万の富を得るのはアメリカンドリームの実現であり賞賛されるべきことであるが、日本では明治維新後に急に巨万の富を得た者は「成金」と呼ばれて庶民から蔑まれた。つまり、アメリカと日本では完全に反応が真逆になるんだそうな。曰く、日本は天皇から始まって武士、農民、果ては賎民まで明確な「カースト」が存在する階級社会で、それぞれの階級に与えられた特権を逸脱しようとする者は必ず罰せられ。だから成金は庶民から蔑まれたというわけだ。
僕の話に戻ると。興味深かったのは、会社の人達が僕を「階級を逸脱した特権を得た」としてやんわりではあるが攻撃的な目を向けてくる一方で、そのような処遇を与えたお上(=会社)を非難しようとはまるで思ってないことだ。もし僕が階級を逸脱した特権を得たと思うなら、僕にそれを与えたお上(=会社)も多少は非難するのが筋なんじゃないかと思うんだけど、彼らはそのようには考えない。
2013年5月29日水曜日
語学とお仕事(4)
今回は、日本に帰ってきてから気付いた日本人の外国語の問題点について。これは別に上から目線での話ではなくて、自分も苦手という話なので。自戒を込めて。
日本人は「大きいところから各論へ向かう」という風に話を構成(オーガナイズ)することにあまり意識が無くて、この逆の方向(各論から結論)へ向かってたり、話があちこち飛んでたりする人が割と多いように思う。これはおそらく日本語の曖昧さとか、みんな日本語が流暢なのが当たり前な(ほぼ)単一民族文化で異文化との交流が無かったこととか、いろいろな背景があるんじゃないかとは思う。これに対して、「まず結論から話す」という欧米(この日本語大嫌いなんだけどとりあえず便宜上使うことにする)的な会話スタイルは、互いに運用能力が不十分な言語でコミュニケーションを取る必要がある場合に、少しでも自分の言いたいことを相手に伝えたり、少しでも結果を自分の望む方向にもっていくための技術として発達したのではないかと思う。
日本人が英語で喋ろうとしているときによく感じるのは、「この人は今、日本語で話したいであろうことをそのまま英語に置き換えて話そうとしているんだろうな」ということで。僕は日本人だから彼らがそうなるのはすごくよくわかるんだけど、それでも「もういいからまず結論を言ってくれ」と思ってしまう。で、こういうとき、外国人は僕よりももっと更に焦れている。やがて日本人は、焦れてる外国人の空気を感じながらもしどろもどろで頑張った挙句に、結論にたどり着く前にどこかで語学力の限界を迎えてあきらめてしまい、話が空中分解してしまう。結論だけでもまず先に言えば、最終的にどうしたいかだけでも伝わる上に、どんな結論に向けて話したいのか受け手が分かるのでそこまで焦れずにしどろもどろを見守ってもらえると思うんだけどな。
スペインで語学学校に通ってた時に、欧米(うーん。。)人はみんな話をオーガナイズする能力が当たり前のように備わっているのを強く感じた。当時グループレッスンのクラスは僕以外全員欧米人だった。彼らの語彙力や文法知識は(文法と単語ばかり偏重してしまう日本人の)僕よりも明らかに下だったけど、彼らは話の途中で空中分解することはまず無い。彼らが言い淀むのは単語が分からないとか、言い回しが分からないとか、動詞の活用が分からないとか、そういった純粋な言語の運用能力の問題であって、話そのものはちゃんとオーガナイズされているので空中分解しないし、たどたどしくても聞いてる側は焦れてきたりはしない。
「英語で話すときは日本語で考えずに英語で考える」というのはよく言われることだけど、この効用は単純に「日本語→英語」の変換によって生じる効率の問題だけではなく、自分の英語力で説明できる範囲のことだけで思考できるので空中分解しないという事や、「結論から各論へ」という話し方のスタイルにスイッチが切り替わるという側面もあるのではないかと思う。まぁ、本当に「英語で考える」ということができるのかは僕はかなり懐疑的ではあるけど。
「なるだけ結論から話す」とか「自分の語学力でできる範囲で説明する」とか、こういうことを心がけるだけで不十分な語学力でもだいぶコミュニケーションが取りやすくなると思うんだけど。でも、それができるようになる頃にはだいぶ流暢になってるんだろうなという気もする。。そして、できれば日本語で話すときからそうしてくれると有り難いんだけどなと思う局面に日本に帰ってからしょっちゅう直面する。この、日本人とのコミュニケーションにおける焦れ方や違和感を皮膚感覚として理解してもらうには、生意気な言い方になるけど外国に一度行ってもらうしかないんだろうなと思う。というわけで、職場全体をスペインに移転させよう。そうしよう。
2013年5月28日火曜日
語学とお仕事(3)
今回は語学とお仕事という話で書きたかった本題。社員の語学力向上を願うなら会社がどうすべきかについて。
なぜ上の人が僕に社員への英語教育について相談してきたかと言うと。たぶん僕が「取り立てて英語が出来るわけでもなかった日本育ちの普通の理系社員が日本にいながらTOEIC900点(これも半分たまたまなんだけど)を取るに至ったモデルケース」だからなんだろう。確かに帰国子女や留学経験者でもない普通の理系社員がそこまでたどり着いた事例はあんまりないので、二匹目や三匹目のどじょうを狙いたがるのは分かる。で、なぜそうなったかと聞かれたら、僕の場合、努力が報われなかったら会社を辞めるくらいのつもりでやっていたからだということになる。しかしそんなことをどこまで上の人に向かって言って良いのかよく分からないので困る。ついでに言うと、そんな僕の英語力もたかが知れてて、ネイティブ同士の会話は何言ってるか全然分からない事の方が多いということも分かって欲しいんだけどな。。
そもそも。我が社では語学なんて全員が出来る必要は無いので、得意な人が自分の芸風としていけばそれで十分なんじゃないかと思う。楽天みたいに商社としての色合いが強かったり、ユニクロみたいなグローバル企業なら、社員全員に英語を強制するのも意味があるかもしれない。しかし我が社はドメスティックな製造業の会社であり、そこには設計したり生産したり…いろんな役割を果たす人が必要になる。会社の仕事というのは色々な技能を持った人が集まったプロジェクトやチームが組織として機能していれば成り立つので、プロジェクトやチームの誰かが語学ができる必要はあるんだろうけど全員がそれをできることは必然では無い。語学というのはプログラムを書くとか、回路設計をするとか、生産管理をするとか、そんなのと同じで技能の中の一つにカウントされていれば十分だと思う。
僕なりに会社がどうすればいいと思うか一言で言うと。社員に対して語学を「教育」しようとするのはもうやめて、努力しようとしている人を支援することと、努力した人を公正に評価してあげることの二つだけを会社がやればいいと思う。
まずは、中途半端な語学研修プログラムを社員に提供するのはやめた方がいい。会社の語学プログラムにもいいところだってあるのかもしれなけど、「会社の研修を受けてるから自分は語学のために努力している。これでいいんだ。」という満足と免罪符を社員に与えているという負の側面が強いように思える。しかし、特に必要に迫られてもいない状況である程度のレベルまで語学ができるようになろうと思ったら、レッスンを受けてるだけでなく、ネチネチ単語を覚えるとかコツコツとシャドウイングを繰り返しすとか、そういう努力を自発的にやらないと身につくわけが無い。しかも、人によって向き不向きがあるので、どのアプローチが効果的かは人によって異なる。だから、「自分にあった方法を考えて、自分で努力してください」とはっきり宣言した方がいいだろう。
そして。改めて言うと、会社がやるべきことは語学に対する努力を支援したり、その成果を公正に評価した上でキャリア設計などに反映させていくことだけなんじゃないだろうか。「支援」という意味では、ワーホリや自主的な語学留学で外国に行ってきたいという人を一年くらい休職扱いにしてあげるというのはアリだと思う。我が社の現行の制度では青年海外協力隊に行くための休職は認められるようだけど、ワーホリや語学留学も認めれば自発的に語学を習得したい人への支援になるので、ヘタな語学研修プログラムを社員に提供するよりよっぽど効果があると思う。
「公正な評価」という意味では、海外研修や海外駐在などの機会を得るための語学力の線引きをある程度明確にするべきなんじゃないかと思う。もちろん海外研修や海外駐在の対象者を選ぶにあたって語学は一要素でしかないんだろうし、「語学ができるんだったら海外研修に出す必要なんて無い」というのは出す側の言い分としてあるのかもしれないが。かといって、ある程度ちゃんとした線引き(あんまり気は進まないけど、例えばTOEIC何点以上とか)を持たないと、昔の僕みたいに「あの程度の語学力で外国に行った奴が、帰って来たころにはペラペラになってるかと思うとバカらしくて日本で自分の時間を削ってまでチマチマ努力する気になれない」と思う人は必ず出てくると思う。上述の通り、語学力を日本に居ながら伸ばそうと思ったら本人が自発的に努力するしか方法は無い。語学への努力が給与などの形で即物的に還元されるわけでも無い以上、せめて海外研修や海外赴任の機会を得るための最低限の語学力の線引きくらいは持つべきだと思う。でないと社員も「語学をやれと言うけど、どのレベルまで達することを会社は求めているのか良く分からない」と、目標感が定まらなくなってしまうと思う。
-------------------------------------------------------------
以上ここまで書いてみて、「日本に居ながら語学という技能を習得するために、会社員は自分の時間を削って苦痛を伴う努力を強いられる」という書き方になってしまったけど、これはなんだか左翼的な感じがしてちょっと不本意だ。会社と社員という労使間の関係にフォーカスしてしまうと、語学そのものの楽しさとか、そういう話が出てこなくなってしまう。
しかしながら、家父長制度を会社組織に援用したような「年功序列、終身雇用」の風潮が未だに根強い我が社は、「社員の語学力向上を会社側は望んでいる。しかし、終身雇用を前提とした会社のルールによって社員を縛っていることによって、ワーホリや語学留学で社員が自主的に語学力を向上させる機会を社員から奪っている。一方で会社は中途半端な語学研修プログラムを日本にいる社員に提供しているが、これで会社が思い描いているような語学力を社員が得るような結果にはなっていない。」という倒錯した状況にあると僕は思う。外資や楽天みたいになるべきだとは思わないし、僕はどっちかというと我が社はまだ日本企業のいいところを残している方なのでそれは大事にしてほしいと思う。だけど、もう一段社員に自由を与えて放ったらかしてあげれば、少しでも悪循環から抜け出せるのではないかと思うんだけどな。
なぜ上の人が僕に社員への英語教育について相談してきたかと言うと。たぶん僕が「取り立てて英語が出来るわけでもなかった日本育ちの普通の理系社員が日本にいながらTOEIC900点(これも半分たまたまなんだけど)を取るに至ったモデルケース」だからなんだろう。確かに帰国子女や留学経験者でもない普通の理系社員がそこまでたどり着いた事例はあんまりないので、二匹目や三匹目のどじょうを狙いたがるのは分かる。で、なぜそうなったかと聞かれたら、僕の場合、努力が報われなかったら会社を辞めるくらいのつもりでやっていたからだということになる。しかしそんなことをどこまで上の人に向かって言って良いのかよく分からないので困る。ついでに言うと、そんな僕の英語力もたかが知れてて、ネイティブ同士の会話は何言ってるか全然分からない事の方が多いということも分かって欲しいんだけどな。。
そもそも。我が社では語学なんて全員が出来る必要は無いので、得意な人が自分の芸風としていけばそれで十分なんじゃないかと思う。楽天みたいに商社としての色合いが強かったり、ユニクロみたいなグローバル企業なら、社員全員に英語を強制するのも意味があるかもしれない。しかし我が社はドメスティックな製造業の会社であり、そこには設計したり生産したり…いろんな役割を果たす人が必要になる。会社の仕事というのは色々な技能を持った人が集まったプロジェクトやチームが組織として機能していれば成り立つので、プロジェクトやチームの誰かが語学ができる必要はあるんだろうけど全員がそれをできることは必然では無い。語学というのはプログラムを書くとか、回路設計をするとか、生産管理をするとか、そんなのと同じで技能の中の一つにカウントされていれば十分だと思う。
僕なりに会社がどうすればいいと思うか一言で言うと。社員に対して語学を「教育」しようとするのはもうやめて、努力しようとしている人を支援することと、努力した人を公正に評価してあげることの二つだけを会社がやればいいと思う。
まずは、中途半端な語学研修プログラムを社員に提供するのはやめた方がいい。会社の語学プログラムにもいいところだってあるのかもしれなけど、「会社の研修を受けてるから自分は語学のために努力している。これでいいんだ。」という満足と免罪符を社員に与えているという負の側面が強いように思える。しかし、特に必要に迫られてもいない状況である程度のレベルまで語学ができるようになろうと思ったら、レッスンを受けてるだけでなく、ネチネチ単語を覚えるとかコツコツとシャドウイングを繰り返しすとか、そういう努力を自発的にやらないと身につくわけが無い。しかも、人によって向き不向きがあるので、どのアプローチが効果的かは人によって異なる。だから、「自分にあった方法を考えて、自分で努力してください」とはっきり宣言した方がいいだろう。
そして。改めて言うと、会社がやるべきことは語学に対する努力を支援したり、その成果を公正に評価した上でキャリア設計などに反映させていくことだけなんじゃないだろうか。「支援」という意味では、ワーホリや自主的な語学留学で外国に行ってきたいという人を一年くらい休職扱いにしてあげるというのはアリだと思う。我が社の現行の制度では青年海外協力隊に行くための休職は認められるようだけど、ワーホリや語学留学も認めれば自発的に語学を習得したい人への支援になるので、ヘタな語学研修プログラムを社員に提供するよりよっぽど効果があると思う。
「公正な評価」という意味では、海外研修や海外駐在などの機会を得るための語学力の線引きをある程度明確にするべきなんじゃないかと思う。もちろん海外研修や海外駐在の対象者を選ぶにあたって語学は一要素でしかないんだろうし、「語学ができるんだったら海外研修に出す必要なんて無い」というのは出す側の言い分としてあるのかもしれないが。かといって、ある程度ちゃんとした線引き(あんまり気は進まないけど、例えばTOEIC何点以上とか)を持たないと、昔の僕みたいに「あの程度の語学力で外国に行った奴が、帰って来たころにはペラペラになってるかと思うとバカらしくて日本で自分の時間を削ってまでチマチマ努力する気になれない」と思う人は必ず出てくると思う。上述の通り、語学力を日本に居ながら伸ばそうと思ったら本人が自発的に努力するしか方法は無い。語学への努力が給与などの形で即物的に還元されるわけでも無い以上、せめて海外研修や海外赴任の機会を得るための最低限の語学力の線引きくらいは持つべきだと思う。でないと社員も「語学をやれと言うけど、どのレベルまで達することを会社は求めているのか良く分からない」と、目標感が定まらなくなってしまうと思う。
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以上ここまで書いてみて、「日本に居ながら語学という技能を習得するために、会社員は自分の時間を削って苦痛を伴う努力を強いられる」という書き方になってしまったけど、これはなんだか左翼的な感じがしてちょっと不本意だ。会社と社員という労使間の関係にフォーカスしてしまうと、語学そのものの楽しさとか、そういう話が出てこなくなってしまう。
しかしながら、家父長制度を会社組織に援用したような「年功序列、終身雇用」の風潮が未だに根強い我が社は、「社員の語学力向上を会社側は望んでいる。しかし、終身雇用を前提とした会社のルールによって社員を縛っていることによって、ワーホリや語学留学で社員が自主的に語学力を向上させる機会を社員から奪っている。一方で会社は中途半端な語学研修プログラムを日本にいる社員に提供しているが、これで会社が思い描いているような語学力を社員が得るような結果にはなっていない。」という倒錯した状況にあると僕は思う。外資や楽天みたいになるべきだとは思わないし、僕はどっちかというと我が社はまだ日本企業のいいところを残している方なのでそれは大事にしてほしいと思う。だけど、もう一段社員に自由を与えて放ったらかしてあげれば、少しでも悪循環から抜け出せるのではないかと思うんだけどな。
2013年5月25日土曜日
語学とお仕事(2)
前回のエントリで僕が語学とどう関わってきたのかについてざっくり記述してみたので、今回は僕が思う「語学への向き・不向き」について思うところを述べてみよう。
■耳がいい人
やっぱり耳が良い人は言葉を覚えるのが速いと思う。特に音楽家とか。この才能は僕にはなかった。残念。
■後先考えない迂闊さ
語学が上達しやすい状況の一つに「必要に迫られる」というのがある。この状況に追い込まれるのはなかなか辛いけど、短期間で飛躍的に語学力が向上するのにこれ以上の方法を僕は知らない。自分がフランス語を勉強したいためにフランス語を教える仕事に就いた枡添要一みたいな特殊な人は別にして、普通の人が「必要に迫られる」状況に追い込まれるには、後先考えない迂闊さが必要なんじゃないかと思う。例えば全然スペイン語できないのにスペイン人と結婚してスペインに来ちゃうような人って、その後の生活環境(毎日ずっとスペイン語漬け)もさることながら、その後先あんまり考えてない気質がそもそも語学に向いてるんじゃないかと思う。どうなるか分からないのにとりあえず外国に踏み出してみるとか、小さいところで言うと「ちゃんと説明できるか良く分からないのにとりあえず喋り始めてみる」とか、そういう後先考えない迂闊さって語学に向いてる人の素養の一つなんじゃないだろうか。逆に、慎重に考えて行動する人って必要に迫られるような状況にそもそも追い込まれにくいんじゃないかと思う。
■いらんことしい
英語で話せなくもない相手に向かってわざわざ下手なスペイン語で話してみるとか、覚えたてのフレーズを使ってみるとか、そういいうのは「いらんことしい」の素養が無いとできないと思う。自分自身を振り返っても、極度の心配性にもかかわらずそれでも外国に行きたいと思えたのは、「いらんことしい」だったからだと思う。「いつも結果として半殺しの目に遭うくせに、強い奴を見つけると戦ってみたくなるサイヤ人」みたいないらんことしい気質は語学に向いていると思う。
■よく喋る人
そりゃまぁ、沢山喋った方が身につきますから。
■論理的に言語を理解しようとする人
このタイプは「**語会話」というよりは「言語学」という学問に向いていると思う。「ここのwhen以下は副詞節だから動詞は原型で…」みたいなことを、ちゃんと論理立てて考える理知的な人。僕は明らかにこの才能には恵まれていない。僕は自分が過去に見聞きしたフレーズのストックから考えて、なんとなくの雰囲気で「たぶん正しいorなんかヘン」を判断するようなやり方でしか言語をとらえていない。
■どこか心がギャルな人
語学のための努力というのは、チマチマ単語を覚えたりするような大変地味な作業の繰り返しになる。こういった作業にエネルギーを注ぐには、大なり小なり「自分磨きOL」のようなマインドが必要とされると思う。別の言い方をすると、「心がギャル」ということになるのではないだろうか。例えば、blogやtwitterなどを頻繁に更新する人はある程度心がギャルだと僕は思う。よくある、語学を毛嫌いする超理系タイプの男性に欠けてるのはこの「ギャル気質」なんじゃないかと思う。
他にもいろいろあると思うけど、とりあえず僕が思うのはこんなところかな。もし僕に語学の才能と言うべきものがあったとしたら、それは単純に「迂闊でいらんことしいなギャル」だっただけだと思う。
■耳がいい人
やっぱり耳が良い人は言葉を覚えるのが速いと思う。特に音楽家とか。この才能は僕にはなかった。残念。
■後先考えない迂闊さ
語学が上達しやすい状況の一つに「必要に迫られる」というのがある。この状況に追い込まれるのはなかなか辛いけど、短期間で飛躍的に語学力が向上するのにこれ以上の方法を僕は知らない。自分がフランス語を勉強したいためにフランス語を教える仕事に就いた枡添要一みたいな特殊な人は別にして、普通の人が「必要に迫られる」状況に追い込まれるには、後先考えない迂闊さが必要なんじゃないかと思う。例えば全然スペイン語できないのにスペイン人と結婚してスペインに来ちゃうような人って、その後の生活環境(毎日ずっとスペイン語漬け)もさることながら、その後先あんまり考えてない気質がそもそも語学に向いてるんじゃないかと思う。どうなるか分からないのにとりあえず外国に踏み出してみるとか、小さいところで言うと「ちゃんと説明できるか良く分からないのにとりあえず喋り始めてみる」とか、そういう後先考えない迂闊さって語学に向いてる人の素養の一つなんじゃないだろうか。逆に、慎重に考えて行動する人って必要に迫られるような状況にそもそも追い込まれにくいんじゃないかと思う。
■いらんことしい
英語で話せなくもない相手に向かってわざわざ下手なスペイン語で話してみるとか、覚えたてのフレーズを使ってみるとか、そういいうのは「いらんことしい」の素養が無いとできないと思う。自分自身を振り返っても、極度の心配性にもかかわらずそれでも外国に行きたいと思えたのは、「いらんことしい」だったからだと思う。「いつも結果として半殺しの目に遭うくせに、強い奴を見つけると戦ってみたくなるサイヤ人」みたいないらんことしい気質は語学に向いていると思う。
■よく喋る人
そりゃまぁ、沢山喋った方が身につきますから。
■論理的に言語を理解しようとする人
このタイプは「**語会話」というよりは「言語学」という学問に向いていると思う。「ここのwhen以下は副詞節だから動詞は原型で…」みたいなことを、ちゃんと論理立てて考える理知的な人。僕は明らかにこの才能には恵まれていない。僕は自分が過去に見聞きしたフレーズのストックから考えて、なんとなくの雰囲気で「たぶん正しいorなんかヘン」を判断するようなやり方でしか言語をとらえていない。
■どこか心がギャルな人
語学のための努力というのは、チマチマ単語を覚えたりするような大変地味な作業の繰り返しになる。こういった作業にエネルギーを注ぐには、大なり小なり「自分磨きOL」のようなマインドが必要とされると思う。別の言い方をすると、「心がギャル」ということになるのではないだろうか。例えば、blogやtwitterなどを頻繁に更新する人はある程度心がギャルだと僕は思う。よくある、語学を毛嫌いする超理系タイプの男性に欠けてるのはこの「ギャル気質」なんじゃないかと思う。
他にもいろいろあると思うけど、とりあえず僕が思うのはこんなところかな。もし僕に語学の才能と言うべきものがあったとしたら、それは単純に「迂闊でいらんことしいなギャル」だっただけだと思う。
語学とお仕事(1)
先日。
会社の上の人から「社員への語学教育のあり方」について相談された。とりあえず、「skype英会話とかあんなのを活用して、とにかくなるだけ毎日でも喋る習慣をつけてはどうでしょうか?」と、薄っぺらい上に自分自身でも15点としか思ってない返答をしてみたものの、なんとなく言い足りない感じだけが残ってしまった。で、よくよく考えてみたら、僕はその昔「語学に関する努力を会社がちゃんと回収してくれなかったら転職しよう」と思っていたということを自分自身ですっかり忘れていたようで、たぶんこれは無意識的に抑圧されていたとか、そんいうことなんだろうな。だからこそロクな受け答えができなかったんじゃないかと思う。そこから色々考えることはあったんだけど、とりあえず今回は第一回として「語学」という観点から自分が会社に入ってから今までを振り返ってみることにする。
今をさかのぼること10年以上前。
入社当時、僕の語学力は理系の新入社員の平均よりはちょっとマシなくらいでしかなかった。新入社員研修のときに人生初めて受けたTOEICは確か525点とか、そのくらいだった気がする。この後5年くらいの間は仕事で英語を使う機会もほとんど無く、語学のための努力は会社の語学研修で週一回グループレッスンを受ける程度で、まぁつまり努力と言えるような努力はほとんど何もしてなかったに等しい。
状況が一変したのは、英語がペラペラの日本人上司と外国人二人のチームに配属されたときだった。この日を境に会社での会話やメールは基本的に英語になった。さらに、このチームの仕事は海外との共同作業を含んでいたおかげで、上司から「じゃぁ君は、明日から毎日夕方5時になったら海の向こうにいるxxx(オランダ人。当然日本語なんてできるわけない。)とチャットで進捗報告しあって」とあっさり言われてしまった。これはなかなかの無茶振りだった。チャットのための文面を半泣きで事前に作文したり、そのために英語の文法について高校の教科書から見直したりすることもあった。当時は英語で寝言を言ってたこともあるくらいなので実際辛かったんだと思う。しかし3-4ヶ月経った頃にはそれなりにゆとりを持ってチャットや職場での会話がこなせるようになっていた。この頃に試しにTOEICを受けてみたら780点取れた。一切準備せずに受けたにしてはまぁこんなもんだけど、ちゃんと準備して受けたら800点は越えそうだなと思った。ここから得られる教訓は「必要に迫られるという事は語学力の向上に寄与する」という至極当たり前の話であろう。
これ以後、上の人からは「チャンスがあれば将来は海外に行けるように考えてあげるから、そのときのために英語は頑張っておくように」なんて言われるようになったので、その気になって英語のニュース番組をpodcastで聞いたり、単語を覚えたりするのを毎日やっていたところに事件が起きた。とりたてて英語ができるわけでもない(と少なくとも僕は思ってた)職場の後輩が会社の海外留学制度で海外に行くことになったのだ。正直なところこれはすごく悔しかった。言っちゃなんだが、あの程度の語学力で外国に行かせてもらえて、帰って来たころにはそりゃペラペラになってるんだろう。って思うと、給料が上がるわけでも無い上に、本当に自分が外国に行かせてくれる確約も無いのに自分の時間を削ってまで語学のために努力してきたのがバカらしく思えてしまったのだ。
ここから得られる教訓として、会社側には「意欲を失わせないためにも会社側の公平な扱いは大事」ということ、社員側には「人の言うことを信じるというのは多大なリスクを伴う」ということになる。
さて。ここでどうしたか。結局はこう決めた。
・英語についての努力は継続することにする
・とりあえずの目標として、一度本気で勉強してTOEICを受けてみることにする
・そのTOEICでそこそこの点数取れても、会社が外国に行かせてくれなかったら転職する
ということにした。つまるところ、努力に会社が応えないならそれを評価してくれるところに自分を売り込めばいいと考えたわけだ。
この頃の僕を励ましてたのはH2のはるかちゃんのこの言葉だった:「いいじゃない。だれのためにがんばっても、がんばった自分は木根君のものよ。」
ここからは人生で最初(で、もう二度とやりたくない)の"TOEICで点数を取るための勉強"をやった。TOEIC用の問題集をやってみたり、自宅でできるTOEIC模試みたいなのを片っ端からやってみたりもした。先日久しぶりにこの当時の単語カードを見てみたけど、大半の単語を今は全く覚えてもいない。その後使う機会が全然無いような経済用語ばっかりだからまぁしょうがないのだが。この努力と、たまたま受けたときの問題が簡単だった(実際、平均点が通常よりも50点くらい高かった)ことも相まって、915点という予想をはるかに上回るスコアを取れてしまった。ちなみに今TOEICを受けたらたぶんやっと800を超えるくらいで、900はまず超えないと思う。ともあれ、いきなり900点とれちゃったので、もう今後一生TOEICのために努力なんかしないと決めた。「点数を取るための勉強」というのは本当につまらない上に、単語をほとんど忘れてることからも分かるように結局は身につかない。
これ以後、英語のために努力らしい努力をした記憶はほとんど無い。まぐれで取れてしまったとはいえ900点超えという点数はそれなりに会社に対してアピールする材料にはなったようで、結果として僕は会社から外国に行かせてもらえる事になった。めでたしめでたし。がしかし、行き先はEUでも最低の英語通用度を誇るスペインという国だった。これは全く予想してなかったことで、当初は「え~英語通じないじゃん。。」と凹んでいたものの、そんな贅沢を言ってられる余裕はなかった。まぁ、結果としてはすっかりスペインとスペイン人とスペイン語が好きになって帰って来たので良かったのだけど。
スペインとスペイン語の話は書き始めると長くなるので置いといて英語の話をすると。スペイン在住当時は語学への全ての努力をスペイン語だけに向けていたので、英語の語学力そのものはちっとも向上しなかった。むしろスペイン語という異物が入ってくる前の方が「外国語=英語」だったので迷いがなくて英語が上手だったんじゃないかと自分でも思っている。ただし、スペイン語にしても英語にしても、乏しい語学力を運用して自分の考えを伝えたりするのはスペインで生活したおかげで少し上達したので、これは英語で話すときにも活用されているのであろう。しかしながら、スペイン語ばっかりやってたおかげで英語という言語は僕にとって「他に共通言語がないときに仕方なしに話す言葉」「生きた生活の言葉と思えない」「中学生くらいからやってる割には結局ネイティブの会話は何言ってるか全然分からない言葉」というような位置づけになってしまった。今でも語彙力などの総合力では圧倒的に英語の方が上なんだけど、それでもスペイン語が通じる相手には極力スペイン語で話したいと思ってしまう。
会社の上の人から「社員への語学教育のあり方」について相談された。とりあえず、「skype英会話とかあんなのを活用して、とにかくなるだけ毎日でも喋る習慣をつけてはどうでしょうか?」と、薄っぺらい上に自分自身でも15点としか思ってない返答をしてみたものの、なんとなく言い足りない感じだけが残ってしまった。で、よくよく考えてみたら、僕はその昔「語学に関する努力を会社がちゃんと回収してくれなかったら転職しよう」と思っていたということを自分自身ですっかり忘れていたようで、たぶんこれは無意識的に抑圧されていたとか、そんいうことなんだろうな。だからこそロクな受け答えができなかったんじゃないかと思う。そこから色々考えることはあったんだけど、とりあえず今回は第一回として「語学」という観点から自分が会社に入ってから今までを振り返ってみることにする。
今をさかのぼること10年以上前。
入社当時、僕の語学力は理系の新入社員の平均よりはちょっとマシなくらいでしかなかった。新入社員研修のときに人生初めて受けたTOEICは確か525点とか、そのくらいだった気がする。この後5年くらいの間は仕事で英語を使う機会もほとんど無く、語学のための努力は会社の語学研修で週一回グループレッスンを受ける程度で、まぁつまり努力と言えるような努力はほとんど何もしてなかったに等しい。
状況が一変したのは、英語がペラペラの日本人上司と外国人二人のチームに配属されたときだった。この日を境に会社での会話やメールは基本的に英語になった。さらに、このチームの仕事は海外との共同作業を含んでいたおかげで、上司から「じゃぁ君は、明日から毎日夕方5時になったら海の向こうにいるxxx(オランダ人。当然日本語なんてできるわけない。)とチャットで進捗報告しあって」とあっさり言われてしまった。これはなかなかの無茶振りだった。チャットのための文面を半泣きで事前に作文したり、そのために英語の文法について高校の教科書から見直したりすることもあった。当時は英語で寝言を言ってたこともあるくらいなので実際辛かったんだと思う。しかし3-4ヶ月経った頃にはそれなりにゆとりを持ってチャットや職場での会話がこなせるようになっていた。この頃に試しにTOEICを受けてみたら780点取れた。一切準備せずに受けたにしてはまぁこんなもんだけど、ちゃんと準備して受けたら800点は越えそうだなと思った。ここから得られる教訓は「必要に迫られるという事は語学力の向上に寄与する」という至極当たり前の話であろう。
これ以後、上の人からは「チャンスがあれば将来は海外に行けるように考えてあげるから、そのときのために英語は頑張っておくように」なんて言われるようになったので、その気になって英語のニュース番組をpodcastで聞いたり、単語を覚えたりするのを毎日やっていたところに事件が起きた。とりたてて英語ができるわけでもない(と少なくとも僕は思ってた)職場の後輩が会社の海外留学制度で海外に行くことになったのだ。正直なところこれはすごく悔しかった。言っちゃなんだが、あの程度の語学力で外国に行かせてもらえて、帰って来たころにはそりゃペラペラになってるんだろう。って思うと、給料が上がるわけでも無い上に、本当に自分が外国に行かせてくれる確約も無いのに自分の時間を削ってまで語学のために努力してきたのがバカらしく思えてしまったのだ。
ここから得られる教訓として、会社側には「意欲を失わせないためにも会社側の公平な扱いは大事」ということ、社員側には「人の言うことを信じるというのは多大なリスクを伴う」ということになる。
さて。ここでどうしたか。結局はこう決めた。
・英語についての努力は継続することにする
・とりあえずの目標として、一度本気で勉強してTOEICを受けてみることにする
・そのTOEICでそこそこの点数取れても、会社が外国に行かせてくれなかったら転職する
ということにした。つまるところ、努力に会社が応えないならそれを評価してくれるところに自分を売り込めばいいと考えたわけだ。
この頃の僕を励ましてたのはH2のはるかちゃんのこの言葉だった:「いいじゃない。だれのためにがんばっても、がんばった自分は木根君のものよ。」
ここからは人生で最初(で、もう二度とやりたくない)の"TOEICで点数を取るための勉強"をやった。TOEIC用の問題集をやってみたり、自宅でできるTOEIC模試みたいなのを片っ端からやってみたりもした。先日久しぶりにこの当時の単語カードを見てみたけど、大半の単語を今は全く覚えてもいない。その後使う機会が全然無いような経済用語ばっかりだからまぁしょうがないのだが。この努力と、たまたま受けたときの問題が簡単だった(実際、平均点が通常よりも50点くらい高かった)ことも相まって、915点という予想をはるかに上回るスコアを取れてしまった。ちなみに今TOEICを受けたらたぶんやっと800を超えるくらいで、900はまず超えないと思う。ともあれ、いきなり900点とれちゃったので、もう今後一生TOEICのために努力なんかしないと決めた。「点数を取るための勉強」というのは本当につまらない上に、単語をほとんど忘れてることからも分かるように結局は身につかない。
これ以後、英語のために努力らしい努力をした記憶はほとんど無い。まぐれで取れてしまったとはいえ900点超えという点数はそれなりに会社に対してアピールする材料にはなったようで、結果として僕は会社から外国に行かせてもらえる事になった。めでたしめでたし。がしかし、行き先はEUでも最低の英語通用度を誇るスペインという国だった。これは全く予想してなかったことで、当初は「え~英語通じないじゃん。。」と凹んでいたものの、そんな贅沢を言ってられる余裕はなかった。まぁ、結果としてはすっかりスペインとスペイン人とスペイン語が好きになって帰って来たので良かったのだけど。
スペインとスペイン語の話は書き始めると長くなるので置いといて英語の話をすると。スペイン在住当時は語学への全ての努力をスペイン語だけに向けていたので、英語の語学力そのものはちっとも向上しなかった。むしろスペイン語という異物が入ってくる前の方が「外国語=英語」だったので迷いがなくて英語が上手だったんじゃないかと自分でも思っている。ただし、スペイン語にしても英語にしても、乏しい語学力を運用して自分の考えを伝えたりするのはスペインで生活したおかげで少し上達したので、これは英語で話すときにも活用されているのであろう。しかしながら、スペイン語ばっかりやってたおかげで英語という言語は僕にとって「他に共通言語がないときに仕方なしに話す言葉」「生きた生活の言葉と思えない」「中学生くらいからやってる割には結局ネイティブの会話は何言ってるか全然分からない言葉」というような位置づけになってしまった。今でも語彙力などの総合力では圧倒的に英語の方が上なんだけど、それでもスペイン語が通じる相手には極力スペイン語で話したいと思ってしまう。
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