2020年1月27日月曜日

「誤解を与える表現」という言葉は絶対に謝罪につかうべきではない

日本のそこそこの大きさの会社でサラリーマンをやってると、どうしても組織間の利害調整というのは避けて通れない問題になります。だから管理職という仕事が必要になったりするのですが。まぁ、下々の立場から見ると社内の利害調整や政治ごっこでエネルギーを消耗しているのは会社の内部損失でしかなくて、管理職なんていうものは必要悪でしかないように思えるのですが。それを当の管理職をやってる方々の前で言うと烈火のごとく怒りだすので、20代ならまだしも、さすがに40代ともなると表立ってはそういうことを言えなくなってきます。
世界が上手く回らないからお金をもらえるという意味では、セロテープの台やクリップなどを作ってる人と日本の管理職は同じような仕事のように思えるのです。もし世界中の文房具がちゃんと循環すればおそらくセロテープの台やクリップは新しく作る必要なんてないですよね?もしも僕が総理大臣になったら、こういう風に「世の中が上手く回らないことで利益を得ている人」の給与は生産的な活動に寄与している労働者より安く設定したいです。

さておき。40代ともなると、一口に会社員といっても立場は色々です。入社同期の間でも管理職になって出世街道まっしぐらの人もいれば、この先一生ヒラ社員がほぼ確定している人まで、会社員人生はそれなりに明暗が分かれています。そんな中、同期でも出世街道まっしぐらの二人の管理職の同期が、先の見えない目下ヒラ社員の僕に仕事を頼みたいと言ってきました。同期がそれなりに会社を動かせるいい時代になってきたので、その中で一緒にいい仕事ができるならと思って、彼らの話は前向きに聞いていたのですが。

ある日呼ばれて会議室に行ってみると、要するにこういうことを言われました。
・技術的な実現可能性を度外視した「ドラえもんの道具のような技術」を実現してほしい
・これを来年のいついつまでに実現できなかったら今進めてる企画がストップする
・スペック的に君しかやれる人がいない
・でも僕の上司に話をしたら、その仕事は部門としては受けられないと言う
・だからこっそりやってくれないか

これはさすがに引き受けられるわけがないです。第一に、サラリーマンとしては上長の知らないところで勝手に何かをやるのは極めてリスクが高いのです。もし仮に彼らの無理難題を実現できたとしてもそれは「勝手にやってた」扱いになって、成果を正当に評価してもらえない可能性が高くなりますし、これで失敗したときなんてもっと不利な立場に追い込まれるでしょう。

更に、彼らの要求は技術的観点からは「僕に頼むよりドラえもんを探した方がよっぽど建設的な努力だと思うよ」と言った方が妥当なレベルなことが含まれていました。言ってることの全部が実現できないと本当に困るとは彼らも思って無いのかもしれないけど、自分が要求していることの実現可能性について自分の頭で考える責任を放棄して好き放題言ってくるような素人とは一緒に仕事できないです。こっちだってまがりなりにもプロなので。まだ「素人レベルの思い付きですいませんが、こんなことできないかな…って考えているんですけど…」くらいの言い方だったら相手にできるんですけどね。

そんなこんなで、結局同期の彼らには「ちゃんと筋を通して表口からちゃんと頼んでこないんであれば、君たちの相手はできない。それにしても君達の言ってることはあまりに自分たちの都合だけ一方的に主張してるように見えるんだが。本当に仕事頼みたいなら同期とはいえ最低限の礼は尽くすべきだろ?」という内容の返事しました。それに対して同期の彼らは各論について「アレとコレについては事実誤認だ」などの言い訳をしてきたんですが、その中で「誤解を与える表現があったのは認めますし、それについては謝罪します」という一文があったのです。この言い方、本当に気分が悪いです。

まず、「誤解」という言葉を使ってる時点で「オレの思ってることが正しいのに、お前の理解が間違っている」と言ってるように見えます。しかも「与える」という言い方が上から目線で気分が悪い。正しく意図を伝えられなかったのは完全にそちらのミスなので、素直に「私の言い方が悪かったです。すいません。」と誤った方がはるかに誠意が伝わると思うのですけどね。

つまり、「誤解を与える表現」という言い方は、「謝罪」という意図そのものに対して再帰的に「誤解を与える表現」になってしまうのです。人に謝るときにわざわざこんな言い方をするのは「オレは形だけ謝ってるけど本当は自分が悪いなんて思っていないからな」という意図を含ませたい場合を除いて、何のメリットもありません。実際にこの「誤解を与える表現」というワーディングは自民党の政治家の常套句になってきましたが、彼らはみんな判で押したように「形だけ謝っている」のです(最近では、もはや謝るのもやめて「謝らなければ責任は問われない」という意味不明の対応に出るようになってきましたが)。

このような悪意のある言葉は非常に高い感染力を持っています。「誤解を与える表現」という言葉を使って釈明してきた同期の彼も、たぶん本音では自分が悪いなんて思っていないんじゃないかと思います。そうでもなければ、わざわざこんな言い方しないでしょ。こうやって自民党の政治家のマインドを一般市民が内面化させた結果を、よりによって会社の同期から直接突き付けられててしまいました。

上司から訳のわからんファンタジックなことを言われるのより、やんわり友達や味方だと思っていた人からこういうこと言われる方がこたえるな。おじさんにはおじさんなりの辛さがあるのです。

2020年1月26日日曜日

ポテトチップスと住宅

子供がそこそこの年齢になってくると、子供が食べたがるけど食べさせたくないようなお菓子は自然と自分では買わなくなってきます。その代表例がポテトチップスなどのスナック菓子です。ビールのツマミとしては自分は時々食べたいけど、あんまり子供には食べさせたくはないのです。なので、買うとしても辛くて子供が食べれないやつになることが多いです。そんなポテトチップスなんですが、最近スーパーの店頭でまじまじとカルビーの袋入りのポテトチップスを見たら、なんか小さくなってる気がしたのです。

検索してみたらやっぱりそうでした。僕が育った80年代には90gだったのが今は60gなので、昔に比べたら2/3程度に減ってるようです。一時期はサイズを維持するために1袋が100円以上だった時期もあったような気がしますが、紆余曲折の末に100円で買えるサイズに落ち着いたのでしょう。
ポテトチップスがこういう変遷をたどる理由の一つはおそらく、輸入しにくいということなのでしょう。あんなに空間効率が悪くて割れやすいものは輸入しにくいので、日本で作るしかない。だから、どうしても高くなってしまうのではないでしょうか。

住宅についても全く同じような傾向を感じています。最近中古で家を買うことを考え始めているのですが、最近の住宅は自分が子供の頃の家に比べたら明らかに小さいです。しかも、家としての質もピンからキリまで色々あって、安い建売りの住宅については作りが明らかにチャチなものが多いです。住宅も海外から建材を輸入したりするには限界がある上に建設に携わる人の人件費は当然日本で発生するので、ポテトチップスと同様に「現実的な価格を維持するためには大きさや質をダウンするしかない」のだろうと思います。

YouTubeで僕が子供の頃の80年代のアニメの動画を見てたら、全体的に作りが丁寧なんです。オープニングやエンディングの歌も、「これアニメの主題歌にしては随分よくできてるな」と思ってよく見てみたら、羽田健太郎、久石譲、大野雄二なんかが作曲や編曲に携わっていたりします。これなんて作曲がタケカワユキヒで編曲が久石譲です。また、当時は今みたいにPCでなんでもできる時代ではなかったので、アニメの歌の伴奏も弦楽器、管楽器など含めて色々な楽器の生演奏が使われています。まだこの時代は今ほどアニメの地位は高くなかったのですが、それでも「テレビで放送される物に要求される最低限のクオリティ」の水準が今より断然高かったのだと思います。

これらの事例は、日本という国が衰退局面にあることを示しているように思います。僕は経済についてはもちろん素人なのですが、直感的には日本全体が貧しくなっていくので「安かろう、悪かろう」しか選べないことがだんだん増えていってるんだと思います。そんな中でもそれなりに楽しみながら生きていく方法を見つけることが、これから先の日本を生きていく上で必要なんだろうなと思います。

2020年1月8日水曜日

「怒りの獣神」ライガーの引退によせて

僕が子供だった80年代にはまだゴールデンタイムにプロレスの放送があって、プロレスはそれなりに人気コンテンツでした。でも、残念なことに僕の母はプロレスを嫌悪していて、家ではプロレスを全く見れませんでした。その恨みの反動か、大学生になったあたりで突然プロレスに目覚めて、それ以降はそれなりにプロレス好きになってしまいました。

でもライガーは正直あんまり好きではなかったのです。なぜ好きじゃないか。を説明すると、
A. イチローのように「表面的なストイックさの向こうに幼稚な自己愛が透けて見える」 
B. 「怒りの獣神」の名の通り、「怒り」のような負の力で駆動され(ようとし)ているから
こんなところでしょうか。

Bは橋本真也にも通じるところもあるのですが、橋本真也の場合は「怒り」とは言っても、昭和のヒーローアニメにおける「正義」と直結したような、もっと幼稚で楽天的なものです。ここで、永井豪を経由してライガーと橋本は繋がる(橋本真也はお風呂にマジンガーZの人形を持ち込んで「ぎゅーーん」とか言いながら遊んでいたんだそうです)のですが、それと同時に永井豪という視点から見ると両者は隔てられます。

橋本真也の「勧善懲悪的な正義の怒り」に比べると、ライガーの背負ってる「怒り」というのは、例えば三島由紀夫が大絶賛したという総長賭博のように、義理とか世間とかいろいろな要素に挟まれている大人の怒りです。これまでこのblogで言及してきた言い方をすると、日本人の内的自己のような側面とも言えるでしょう。

この「内的自己=怒り」こそが欧米のプロレスと日本のプロレスを隔てる最も大きな要素であったのではないでしょうか。しかし、昨今のプロレスには良くも悪くもライガーのように「怒り」によって駆動されているレスラーがいないのです。もし僕の言ってることが正しければ、日本のプロレスはこの先「内的自己=怒り」と決別して、欧米のプロレスに漸近することになるはずですが、さて、どうでしょうかね。

ライガーは最後まで「怒りの獣神」でありつづけました。これを30年も続けるのはそりゃたいへんでしょう。別に自分が怒りたくなくても怒り続けてることを自らに課してきたわけですから。ライガーの引退によって、我々日本人はまた一歩昭和から解放されましたが、それと同時に昭和がまた一歩遠のいたような気がします。しかし、一番解放されたのは誰よりもライガー本人だったのではないでしょうか?

こんな風にライガーの引退を機に色々と考えていたら、僕自身も「ライガー=昭和の怒り=内的自己」から少し自由になれたような気がしました。今まであんまり好きじゃなかったけど、永らくお疲れ様でした。

2020年1月1日水曜日

カルロス・ゴーンは「日本の小ささ」を突き付けて去っていったのではないだろうか?

あけましておめでとうございます。これを書いている現在は2020年です。

なのですが、昨日、つまり昨年末の話をします。年の瀬も迫った大晦日、なんで今頃かいうタイミングで突然降ってきた「カルロス・ゴーン極秘出国」のニュースは、「フジモン離婚」と並んで「しかし、なんでそのタイミングかなー?」という形で2019年に何とも言えない後味を残していったのではないでしょうか。

この件についての日本の報道は「妻が出国の段取りを整えた」とか「楽器のケースに入って出国した」といった表面的な話を取り上げているだけで、本質的な問題については切り込んでいるようには見えません。その姿勢には、うっすらと「都合が悪くなったら結局逃げ出したガイジン」というメッセージが裏書されているような空気だけはあります。

一方で、ネットに目を向けていると、本件については賛否両論に分かれるのですが。この賛否両論の両陣営が全くと言ってよいほど噛み合っていないのです。噛み合ってないというか、左寄りの僕から見ると、右側の論調が結局「日本の入管とか、(彼らの言うところの)パヨクとか、いずれにせよゴーン氏ではない何かを非難する」形にしかなっていないのです。

より具体的な例を挙げて説明すると。左寄りの人がこの件についてコメントすることをまとめると、
・政権に近い側の人間はレイプしようが何しようが逮捕されない
・『桜を見る会』に至っては首相が明らかに詰んでいるのに検察が逮捕に踏み切れない
・このような状況を鑑みるとこの国は、法治国家ではなく人治国家である
・ゴーン氏の逮捕も、日産をめぐる駆け引きの末の国策逮捕的な側面が否定できない
・拘留中の劣悪な待遇も含め、この国には『人権』という概念が明らかに欠けている
・以上より、逃亡は合理的な判断だと言える
だいたいまとめると、こんなところでしょうか。

一方の右側のコメントは
・人質司法というけど、今回は保釈されているんだからそれには該当しない
・入管何やってんだ、ちゃんと仕事しろ
・日本はなんだかんだで甘すぎる。なぜ保釈した?
・レバノンは超人治国家のコネ社会なので、日本政府への引き渡しなんてたぶんしない
・でも、ここでナメられると日本の沽券にかかわるのでレバノンに毅然と立ち向かえ
・それにしてもサヨクが…(本件についてのサヨクの見解に対する悪口)
とかまぁ、言ってはいるけどなんかちょっと分が悪いんじゃないかなと思います。

これらを総じて一言で言うと、カルロス・ゴーンは日本という国の「小ささ」を我々に突き付けて去っていったのではないでしょうか?わかりやすいところから言うと、15億円なんていう保釈金は僕のような庶民からしてみれば大金ですが、世界的な富豪からしてみれば自由の代償としては十分に元が取れちゃうわけですよね?その辺りの勘定があまりに庶民的過ぎたのではないでしょうか。

「レバノン=人治国家のコネ社会」については、ヨソの事をどうこう言えないくらい日本もどんどん人治国家の国になっていて、ゴーン氏の言い分によると彼が日本から逃亡するに至った理由もそこなわけですよね?でも、中東は昔から露骨に「カネとコネ」で社会が成り立っている世界なので。レバノンのヒーローで、世界的な大富豪であるゴーン氏によるレバノン政府への介入なんて、安倍政権よりもはるかにスケールが大きくてエグいんじゃないかと思います。

安倍晋三とカルロス・ゴーンは「短期的な自己利益の追求のためには悪いことだってする」「世の中はカネとコネ」という点では、同じセントラルドグマを共有していると思います。だから、安倍応援団はゴーン氏やレバノン政府を非難できないんじゃないでしょうか。彼らを攻撃することは、自分が応援している安倍晋三や、その国政運営をも否定することになってしまうわけです。結果的に、安倍応援団は本件について入管だったり彼ら言うところのパヨクだったり、そういう人達に対してどこか歯切れの悪い攻撃をするだけになってしまうのではないでしょうか?

2019年12月19日木曜日

東大王と大学入試問題

大学入試問題がいっこうに収束する気配がありません。英語民間試験の導入見送りが決まったところで話が収束するかと思いきや、今度は新共通テストにおける国語と数学の記述式問題の導入が見送りになったそうです。マスコミは安倍政権の不祥事についてかなり及び腰な報道しかしない印象があるのですが、それに比べるとこれら一連の大学入試関連の問題についてはマスコミも割と積極的に切り込んでいるように見える気がするのは、たぶん気のせいではないんだと思います。

さっきテレビ見てて、なぜそうなるのか少しだけ分かった気がしました。「東大王」などの学歴クイズ番組はある時期を境にテレビで頻繁に見るようになり、いい加減みんな飽きてもよさそうなのに結局今に至るまで結構長く続いています。たかだが18歳くらいのときのテストの点数だけで人の価値は決定づけられ、その格付けが生涯に渡って有効であるという信仰がこの国には広く共有されているわけです。だからこそ、その格付けの基準が迷走することは日本人にとっては看過できないことなのではないでしょうか。

学歴に限らず、日本人はとにかく点数をつけられて序列されるのが好きというか、そうでないと安心できないのというところがあるのではないでしょうか。例えば東大王と同じくらい、早く世の中から無くなってほしいと僕が思っている物の一つに「点数の出るカラオケの点数を競う番組」というのがあります。この手のテレビ番組も、なんだかんだでここ数年に渡って廃れずに盤石のポジションを築いていますよね?「ヘタウマ」なんて言葉もあるように、歌の上手い下手なんて機械で判断できることには限界があるのくらいみんな分かりそうなものなんですけどね。

日本の大学システムの話に戻りますが。日本の大学システムについて「今すぐこうすればよい」という分かりやすい提言はできないですが、せめてその対極にあると思われるスペインの大学の事情について少しだけ紹介しようと思います。まず。スペインでは大学というものの数が日本で言うところの国立大学くらいの頻度でしか存在しないため、大学に行くということ自体がそこそこエリートだけになります。そして何より、スペインでは大学の間に明確な序列がありません。スペインでは成績のよい人ほど学部・学科の選択の自由度が高いので、成績の良い人が特定の学部・学科に集中しやすい傾向はあるそうですが、大学単位での序列という概念がほとんどありません。

率直な感想として、日本の大学もスペインみたいな感じでいいんじゃないのかな?と思います。スペインでは大学自体がそのように学力レベルの異なる人が一緒に学ぶ場になっているわけですが、日本だって会社に入ったら学歴の観点では一流大学から三流大学まで色々な人がいるでしょう?だったら、大学そのものにも序列を作らないスペイン方式でいいんじゃないでしょうか?

2019年11月24日日曜日

大学入試にスピーキングを取り入れたくらいでは問題は解決しない

大学入試への民間試験導入問題について、大臣による「身の丈」発言の後もどんどんお粗末な利権構造だけが明るみに出てくる…という状況でこれを書いています。この件について、だいぶ今更感はありますが、思ったことをいくつかしたためてみようと思います。

 テストで点を取るための「お勉強」として取り組むから、日本人は英語ができない
「勉強=やらされるもの」という枠組みの中のアイテムの一つだからこそ日本人は「英語ができる」ようにならないのではないでしょうか。大学入試を変えれば「英語ができる人」が増えるというのは、あまりにナイーブで牧歌的だと言わざるを得ないです。問題への対策をしているようで、問題の原因を反復生産しているだけ、という日本型エリートがやりがちな話のような気がどうしてもするのです。

大学は就職予備校ではないので、大学入試では大学で必要な資質だけ問えばよい
「英語ができる人」を増やしたいのはわかった。では、なぜその解決を大学入試に求める必要があるのでしょうか?例えば数学でも物理でもそうなんですが、大学入試で問われているのは大学での研究を行う上で必要な基礎的な知識です。英語だって大学での研究を行う上で必要な基礎的な技能だけを入試で評価すればよいだけなのです。大学での研究においては、まず文献を「読む」ことが必要なわけで、スピーキングの能力なんて学部レベルでは後回しでよいのです。スピーキングの能力が要求されるのはせいぜい修士以降ではないでしょうか。本当に「英語ができる」必要があるなら、ダブルスクールなり留学なり、手段はいくらでもあります。全部大学入試に求めようとするのがそもそもおかしいです。

そもそも外国語でのコミュニケーション能力をテストで計量するには限界がある
じゃぁ逆に、スピーキングさえできれば日本人は「英語ができる」ようになるのでしょうか?「四技能」という言葉遣いの背景には「英語ができる=技能」というマインドが裏書されているように思うのですが、ここで問われている技能は例えていうならPCのタイピングソフトと一緒です。PCを道具として使いこなせる人ならタイピングソフトである程度のスコアは取れるのでしょうが、逆にタイピングソフトをだけ極めてハイスコアを出せるようになったところで、PCを創造的、生産的に使えるようにはなりません。コミュニケーションにおいては表面的な言語の運用能力よりも「何を話すかの方がはるかに重要」だと思います。
誤解の無いように言っておきますが、僕は「四技能=汎用的な能力」が不要だと言ってるのではなく、「それらの技能をどう活用できるか、そして苦手なところを他の技能でどう補えるか」に本当の価値があると思います。そしてそれはテストの点数のような数値基準に落とし込むのはそもそも無理があるのではないでしょうか。

みんなが英語ができる必要は全くない
英語について「全員が同じように努力すべき」であり、「全員を同じような基準で評価すべき」だと考えるからおかしな話になるのではないでしょうか。もし本当に「英語ができる」人を増やしたいなら、英語を大学受験から一切廃止した方がたぶん効果があると思います。日本人全体の英語の平均レベルは今より落ちるかもしれませんが、一部の語学に意欲のある人のレベルは今より上がるので、「英語ができる人」の絶対数は増えるはずです。
言語学者の鈴木孝男は「皆が英語を勉強するのはやめて、ごく少数の「防人」に英語学習と対外交渉はまかせて、あとは鎖国してしまう。国民を挙げた英語習得はうまくいったとして二流、三流のアメリカ人となるだけで、日本固有の美点長所が無くなってしまう。」という鎖国・防人モデルを提案していました。これはかなりの極論ですが、おおむね僕もこれに賛成です。村上春樹も同じようなこと言ってたような気がしますが、外国語なんてやりたい人が勝手に学べばよいのです。みんなが「英語ができる」必要なんてありません。

2019年11月23日土曜日

沢尻エリカと香港

「桜を見る会」騒動が盛り上がりを見せていた中での沢尻エリカの逮捕について、「政治スキャンダルが起きるとそれを誤魔化すために芸能人が薬物で逮捕される」という陰謀論派と、それを嘲笑しようとする安倍支持派との争いもひと段落しはじめた…という状況でこの文章を書いています。
昨日は「沢尻容疑者の尿検査『陰性』で毛髪検査の可能性に…」というウェブ上の記事をぱっと見たときに、「沢尻容疑者、尿検査、陰毛、可能性」と勝手に読んでしまいました。「陰性で毛」のところを勝手に作り替えてました。すいません。。あやうく陰謀論を勝手に話を陰毛論にすり替えてしまうところでした。

さておき、僕は陰謀論的な物の見方全般に対してはあまり与したくない方ではあるのですが、今回のマスコミの「桜を見る会」と「沢尻エリカ逮捕」の扱い方を見ていると、陰謀論にもさもありなんと言わざるを得ないと思います。禁止薬物を所持・使用してたらダメなのはそりゃ勿論わかりますよ。でも、芸能人が薬物を所持・使用していたことと、「桜を見る会」に見られるような安倍政権による政治の私物化とどっちが社会的に重要な問題であるかは誰の目にも明らかです。しかし、日本のメディアの取り扱いは完全に逆転しています。

「桜を見る会」は政治資金規正法などのいくつかの法律の観点から問題があるのは明らかで、検察がその気になれば安倍晋三に逮捕状を出すことだって十分可能なはずですが、検察はもちろんメディアからも結局ちゃんとは追及されていません。一方で沢尻エリカの薬物は法的な観点だけでなくメディアによって社会的にも攻撃されることになったわけです。同じように法に反しているにも関わらず両者の取り扱いがアンフェアすぎるのを見ると、陰謀論者の言うことにも一部の理を認めざるを得ない気分になります。

と、ここまでは誰でも言えそうなことなのですが。ここからが本題です。せっかくなので、心の師匠内田樹先生がいつもおっしゃっているように「自分くらいしか言わなさそうなこと」の話をここからしたいと思います。「桜を見る会」「沢尻エリカ」に香港情勢を加えて、「中国化」という補助線を引くとこれらがひとつながりの事象になるのではないか?というのが本稿の趣旨です。とはいっても、基本的なコンセプトは中国化する日本などの與那覇潤氏の著作からの借り物です。

「中国化する日本」という本は3.11の大震災から数カ月の頃に世に出た本ですが、この本は後の安倍政権の跳梁などの現象を「中国化」という観点からほぼ的確に予言しています。この本の後に書かれた「日本史の終わり」という著作で與那覇氏は「橋下(徹)さんは政治というものを徹底して『勝つか、負けるか』のモデルで捉えている」と評したうえで、彼を典型的に「中国的」だとして扱っています。その一方で橋下徹が攻撃するリベラル派を「西洋的」として扱っています。

「桜を見る会」の件に関する安倍応援団の反応の中でも、橋下徹はまさに中国的なコメントをしていました。「問題点を政治資金パーティー化してますねというところを追及すりゃいいけども、そこを越えて政権を倒すとかそういうレベルじゃないのは、今の世論調査見ても、このぐらいのことで政権が倒れる話じゃないってみんな国民も分かってますよ」
だそうです。この発言はどうしても「SEALDsとかあんなことやってたって世の中は何も変わらないよ。」と言っていた僕の大学の同期を思い出してしまいます。やっぱり日本という国の気質は西洋化よりも中国化がマジョリティで、3.11はその傾向を決定的に加速させる引き金になったんでしょうね。。

與那覇氏は中国ではむしろ「正しい思想」をひとつに絞ることによって、国土を統一し人々を糾合する統治術が編み出された 。これが、中華文明を多元性ではなく、単一性に基づく秩序であったと私が呼ぶことの意味であります。と言っていますが、今まさに香港で起きていることはこの中華文明の特徴を如実に物語っているのではないでしょうか?中華文明は西洋文明=多様性を許したくないのです。だから、あれだけ徹底的に人権を無視した暴力的な態度でつぶしにかかっているのだと思います。

こうやって考えると、香港市民も沢尻エリカも中華文明の犠牲者であるという点では繋がっているように思います。沢尻エリカがMDMAをキメながら香港の雨傘運動をジャンヌ・ダルクのように先導している姿をどうしても想像せずにはいられないです。