ここ最近は、日曜のお昼ご飯を「NHKのど自慢」を見ながら食べるのが我が家の定番になってきました。年齢も社会階層も違う色々な人が「歌」で繋がっているのが面白いのです。この番組は全体としては日本社会の均質性を体現している一方で、その中で出演者が無自覚のうちに放っている日本社会の微細な多様性が垣間見えるのです。毎回必ず最低一人は「この人普段何してるんだろ?」と考えてしまうような不思議な人が出てくるんですよ。
しかし、のど自慢を見ていて時々「あーあ。。」と思うことがあるのです。歌い終わった後のアナウンサーのインタビューに対して、どうでもいいことを延々喋って尺を食ってしまう人が必ず一人はいるのです。たいてい年配のおじさんで、しかも、合格じゃなかった人。アナウンサーも「さっさと会話を切り上げたい」という空気を相槌の端々に匂わせているのに、空気を読まず(読めず)そのまま尺を食ってしゃべり続けるので、見てるこっちもハラハラ、イライラすることになるのです。
これと同じような気分になるのが、会社で限られた時間枠内で複数人がプレゼンを行う機会です。月に最低1回はこういう機会があるのですが、想定されている時間配分を守ってオンタイムで進行することなんてほとんどありません。最初からできるわけないと分かっているのに「質疑応答込みで一人10分で、終わりが近づいてくるとベルを鳴らしますから、時間厳守でお願いします」とか言うだけは言うんですよ。でも、場を主催している側も言うだけは言うけど本気で守らせるつもりが無いんですよね。
特に前に立って喋るのがエラいオジさんたちばかりなのにことごとく時間超過していると、「この会社は自分の喋る尺も管理できないようなオジさんでも管理職になれる会社です。しかも、場を主催する立場の人もそこそこのポジションのくせに、オジさんたちが尺を超過することを分かっていながらなんのリスクヘッジできません。というより、しようという気がありません。」ということをわざわざ下々を集めてプレゼンしてるだけにしか見えなかったりするときもあります。
先日、まさにそんな場で自分が最後に発表する立場だったのですが。最初の人がいきなり所定の時間の1.5倍も使ってしまったために、そのフォローのために自分の発表の内容をいくつか削ったり、巻きで話すために色々とせわしなかったり…というような目に遭いました。終わった後さすがに本人から「反省しました」というメールは届いたのですが、彼がこうやって時間超過した皺寄せを受けるのは今回に限ったことではありません。
この文脈で言いたいことはこのblogの初期の投稿「遅刻に厳しいけいど終わる時間には寛容な日本人」にも通じるところがあります。日本だと始まる時間には意味不明なまでに厳格ですが、尺を管理できずに時間を超過することにはなぜか寛容です。僕から見ると、仮に遅刻したとしても残り時間に応じてプレゼンの内容を適切に再構成して時間内に終わらせられる方が、終わった後の時間は予定通り進むのでマシだと思うのですが、なぜか日本人はそうは思わないみたいです。
この話を展開した先に到達する結論を一言で言うと「プレゼンの時間が守れない人は日本型マザコンの特徴である」になるのですが、この話を始めると長くなるのでそこは置いとくとして。プレゼン時間の尺を守れない人に共通しているのは、だいたい話を聞いててもつまらないということです。いつまでも聞いてたくなるような面白い話だったら、時間超過してもらってもまだ許せなくもないのですが。残念ながらプレゼン時間を過剰に超過する人の話が面白かったという事例はほとんど記憶にありません。
なぜこうなるかというと、彼らの本質的な問題点は「自分が分かっていほしいことを話している」からなんだと思います。わざわざこうやって書くのも躊躇するくらい凡庸でつまらない一般論ですが、プレゼンの基本としては「相手が聞きたいことを話す」だと思います。ところが、時間を超過して喋り続ける彼らはこのような受け手の視点から自分の話の内容を検討することができてないように思います。だから彼らは受け手から見ると「どうでもいい話」に時間を割いてしまうのではないでしょうか?僕にはそんな彼らは「自分をそのまま受け入れてくれるママ」に向かって喋っているように見えます。
2019年6月17日月曜日
2019年5月6日月曜日
おじさんがプリキュアにハマる気持ちがわかるようになってきた
10連休。だったはずなのに今日が最終日です。GW前に引いた風邪がだいたい治ったかとおもったら、ぶり返して2日寝込んだり、車のミラーを壊してしまったり…そうこうしているうちに終わろうとしています。せめて最後になんかやった気になれるようなことの一つでもしようと思い、久しぶりにこのblogを更新しようと思い立ちました。以前も長期休暇の最終日に同じことをしたのですが、これはここから本稿で述べる「面倒くさい」病へのカウンターだと考えるのが妥当な気がします。
つまらない話で恐縮なのですが、僕もここ最近は年相応に仕事が忙しくなり始めました。しかも、40歳超えると何かしら体力的にもさらに1ランク下がってきてるのが実感できるようになりました。するとどうなるかというと、仕事以外の時間に何か「余計なことをする」ことについて考えなくなるのです。たとえば、ずっと使っている携帯をいい加減変えようと前々から思っているのですが、つい面倒くさくなって「まぁいいか」をここ1年くらいずっと続けています。もう少し若くて時間があった頃なら、次の携帯は何を買うか考えたりすることをそれなりに楽しんで検討できたと思うのですが。最近はそれよりも「面倒くさい」の方が勝ってしまうのです。
この「面倒くさい病」による「おじさん化」の進行は僕の帰宅後のささやかな楽しみの一つである「録画しといたテレビを夜な夜なビール飲みながら見る」ことにも、少しずつ影響が出てき始めています。たとえばちょっと前までやっていた「約束のネバーランド」というアニメは最初数回だけ見たら後は見なくなってしまいました。話はまぁまぁ面白かったんですけど、作品全体を覆っている空気(鬼に食べられる食糧として育てられている子供達が脱走を試みる)が重い上に、毎回脱走計画が行き詰まったりバレそうになるのが見ちゃいられないのです。
また、内容が深くてぼんやり流して見れないようなNHKの教養番組も、撮ったはいいけど見るのが面倒くさくなってHDDの中にどんどん溜まっていくようになりました。こちらはGWで暇なときにある程度見て解消できたのですが、録画した後に「ちゃんと見る」というサイクルを維持することがだんだん面倒くさくなってきてるのは実感しています。とまぁ、こんな具合に、ここまでに何回書いたかわからないですけど、とにかくいろいろなことが「面倒くさい」と思うようになってきました。
さて、ようやく本題のプリキュアなのですが。先日、会社で同僚の女性社員(女の子が一人いる)から「酸味げるさんって時々プリキュアの話してますよね?実はうちのダンナが最近プリキュアにハマり始めて、過去の作品の動画を見たり歌を覚えたりし始めて色々ヤバいんですが。。で、家で酸味げるさんの話をしたら、酸味げるさんを同志のように思い始めたみたいで、それでよかったらこれどうぞって…」と言いながら、箱買いしたプリキュアのお菓子を一つもらってしまうことがありました。
まぁ、確かにダンナちょっと大丈夫か?とは思いました。しかし同時になんとなく気持ちがわからないでもないなと思いました。プリキュアの何が素晴らしいかというと、
・最後ハッピーエンドで終わることが保証されているので安心してみれる
・敵を倒すというよりは敵の救済→共生の物語である
といったところでしょうか。別の言い方をすると、プリキュアは性善説の彼岸に位置する神話のようなものに思えるのです。そして。これが、色々なことが面倒くさくなったおじさんにはすごく効くのです。みんなそうかはさておき、少なくとも僕の場合はそうでした。
つまらない話で恐縮なのですが、僕もここ最近は年相応に仕事が忙しくなり始めました。しかも、40歳超えると何かしら体力的にもさらに1ランク下がってきてるのが実感できるようになりました。するとどうなるかというと、仕事以外の時間に何か「余計なことをする」ことについて考えなくなるのです。たとえば、ずっと使っている携帯をいい加減変えようと前々から思っているのですが、つい面倒くさくなって「まぁいいか」をここ1年くらいずっと続けています。もう少し若くて時間があった頃なら、次の携帯は何を買うか考えたりすることをそれなりに楽しんで検討できたと思うのですが。最近はそれよりも「面倒くさい」の方が勝ってしまうのです。
この「面倒くさい病」による「おじさん化」の進行は僕の帰宅後のささやかな楽しみの一つである「録画しといたテレビを夜な夜なビール飲みながら見る」ことにも、少しずつ影響が出てき始めています。たとえばちょっと前までやっていた「約束のネバーランド」というアニメは最初数回だけ見たら後は見なくなってしまいました。話はまぁまぁ面白かったんですけど、作品全体を覆っている空気(鬼に食べられる食糧として育てられている子供達が脱走を試みる)が重い上に、毎回脱走計画が行き詰まったりバレそうになるのが見ちゃいられないのです。
また、内容が深くてぼんやり流して見れないようなNHKの教養番組も、撮ったはいいけど見るのが面倒くさくなってHDDの中にどんどん溜まっていくようになりました。こちらはGWで暇なときにある程度見て解消できたのですが、録画した後に「ちゃんと見る」というサイクルを維持することがだんだん面倒くさくなってきてるのは実感しています。とまぁ、こんな具合に、ここまでに何回書いたかわからないですけど、とにかくいろいろなことが「面倒くさい」と思うようになってきました。
さて、ようやく本題のプリキュアなのですが。先日、会社で同僚の女性社員(女の子が一人いる)から「酸味げるさんって時々プリキュアの話してますよね?実はうちのダンナが最近プリキュアにハマり始めて、過去の作品の動画を見たり歌を覚えたりし始めて色々ヤバいんですが。。で、家で酸味げるさんの話をしたら、酸味げるさんを同志のように思い始めたみたいで、それでよかったらこれどうぞって…」と言いながら、箱買いしたプリキュアのお菓子を一つもらってしまうことがありました。
まぁ、確かにダンナちょっと大丈夫か?とは思いました。しかし同時になんとなく気持ちがわからないでもないなと思いました。プリキュアの何が素晴らしいかというと、
・最後ハッピーエンドで終わることが保証されているので安心してみれる
・敵を倒すというよりは敵の救済→共生の物語である
といったところでしょうか。別の言い方をすると、プリキュアは性善説の彼岸に位置する神話のようなものに思えるのです。そして。これが、色々なことが面倒くさくなったおじさんにはすごく効くのです。みんなそうかはさておき、少なくとも僕の場合はそうでした。
もしも10年以上前の「余計なことがしたい」盛りだった頃の僕がプリキュアを見たら、諸々の設定のディテールの幼稚さがいちいち気になって見ていられなかっただろうと思います。当時の僕はプリキュアよりも攻殻機動隊みたいに世界観やストーリーが大人向けに緻密に練られた作品の方にまだ関心を持てたと思います。しかし、今となっては逆に攻殻機動隊は観るのが「面倒くさい」部類に入りつつあります。細かすぎて疲れるんです。それよりは娘と一緒にプリキュア見てた方がいいかなと思います。
以上を踏まえた上での話ですが、エンターテイメントの中でプリキュアに一番近いのはたぶんプロレスなのではないかと僕は思います。ドロップキックを受けるプロレスラーを見て「あんのはやらせのショーだ」と切り捨てるのは誰でもできるのですが、そんなことよりリング上で展開される戦いに熱狂したり魅了されたりするには相応のリテラシーが要求されます。この「理屈を一旦放棄する」というリテラシーにおいて、大人になってプリキュアにハマれる人とプロレスファンはつながっているような気がします。
でも、僕はせいぜい子供と一緒に見る程度で十分なのですけどね。。
2019年3月3日日曜日
「便利」のコスト
コンビニ業界 転換点 セブン「脱24時間」実験へというニュースを見て、「とうとうこういう日が来たのか」という安堵のような気持ちと、「いずれこうなるってわかってたでしょ?」という暗澹たる気持ちが混ざったなんとも言えない気分になりました。コンビニ業界は外国人の技能実習生を店頭に立たせてまでコンビニという業態を死守しようとしていますが、そんな悪あがきをしたところでとうとう逆らいきれなくなったのでしょうね。
何度もこのblogに書いている話ですが、その昔スペインから日本に帰ってきたときの話をまたします。2年間スペインで生活して日本に帰ってきたときには、あまりにアレもコレも違い過ぎて日本人の世界に強烈な違和感を感じました。僕は6年以上経った今でもそれをずっと引きずり続けているのですが、そのうちの一つに、「夜が無駄に明るすぎる」というのがありました。都会ならまだしも、僕の住んでいるような地方都市でさえ深夜に開いてるお店がたくさんあるのです。その煌々とした光を放っているものの一つがコンビニです。
コンビニという業態はその名の通り、日本人に「便利は正義」という価値観を植えつけながら成長してきました。スーパーに比べたら値段が割高でもコンビニが成立するのは、コンビニが啓蒙してきた「便利」に対して我々日本人が合意の上で「便利税」として割高な料金を払ってきたからだと思います。その果てには「コンビニで手に入る物で生活はだいたい事足りる」というような人も結構な数いると思います。ここに至っては、日本人はコンビニの啓蒙する「便利は正義」という価値観に都合のいいように自己造形してきたとさえ言えるでしょう。
この「便利は正義」の自転車操業的な展開によって、コンビニは公共料金の払い込みやATM,コーヒーマシンに至るまであらゆるサービスを取り込んでいき、社会インフラの一翼を担うまでに至ったわけです。こうやってサービスを増やしていけばそれだけ店舗運営の労力は増えていくわけですが、それをフランチャイズ制という形で店のオーナーやその下のバイトに一方的に押し付けつづけるのにもとうとう限界がきたのでしょう。上記の東京新聞の記事にあるように、牛丼やファミレスなどの外食チェーンはもう数年前から不必要な24時間営業を見直す方向に舵を切っています。おそらく外食チェーンはフランチャイズ制ではないために不利益を押し付ける相手もいないのでコンビニより先にこうならざるを得なかったのでしょう。
日本のどこかしこも「人手不足」とは言ってるのですが、この「人手不足」には「都合よく安い給料で働いてくれる人材」という暗黙の但し書きがついているように思います。コンビニだってもっと給料払えば働きたいという人はいるはずですが、フランチャイズのオーナーにとって採算が合うような範囲では「人手不足」なのです。その窮余の策として外国人の技能実習生を店頭に立たせてなんとか凌ごうということになってしまうのだと思います。
じゃぁ今まではどうやって凌いでいたのか?と考えると、かつてそこを埋めていたのは「フリーター」だったのではないかと思います。今から20年くらい前に僕が学生だった頃は「フリーター」という業種の人が結構な数いましたが、最近はフリーターという言葉は最早死語の響きさえ帯びています。「なぜそうなったか?」の話をすると長くなるのでそこはさておき、かつてコンビニの24h営業を可能にしていたのは彼ら「フリーター」の存在に依るところが大きかったのではないでしょうか?
以上をまとめると。「便利の追及」の自転車操業によってコンビニは現在の地位を築き上げました。しかし、「便利」にするためのコストは膨らむ一方で、それを店舗オーナーやバイト(特にフリーター層)に押し付けながらここまで来ました。それがいつか破綻する日がくることはなんとなくわかっていたのですが、とうとう「便利」のコストを押し付ける先がなくなってしまったために24h営業が成立しなくなった…ということではないでしょうか。本当は「便利の追及」以上に本質的な問題として「日本の衰退」が背景にはあると思うのですが、それについて書いてたらまとまらないので、またいつかの機会にしようと思います。
これを書きながら、学生時代に毎日のように発泡酒を買いに行ってたコンビニのフリーターの店員の事を思い出しました。神田さん(仮名)という30手前くらいのフリーターの店員は、研究室からの帰り(深夜4時くらい)に行くとほぼ必ず店にいて、あんまり毎日通ってるうちに少しだけ挨拶を交わす間柄になりました。そのコンビニで昼間バイトしている大学の後輩に神田さん(仮名)について聞いたら「あの人フリーターなんですけど、あの人がいないとあの店は回らないんですよ。週6とかでシフト入ってますから。」と言っていた。神田さん(仮名)は今どこで何をやってるんだろう?たぶん年齢的には50歳に近いはずなんだけどな。。
何度もこのblogに書いている話ですが、その昔スペインから日本に帰ってきたときの話をまたします。2年間スペインで生活して日本に帰ってきたときには、あまりにアレもコレも違い過ぎて日本人の世界に強烈な違和感を感じました。僕は6年以上経った今でもそれをずっと引きずり続けているのですが、そのうちの一つに、「夜が無駄に明るすぎる」というのがありました。都会ならまだしも、僕の住んでいるような地方都市でさえ深夜に開いてるお店がたくさんあるのです。その煌々とした光を放っているものの一つがコンビニです。
コンビニという業態はその名の通り、日本人に「便利は正義」という価値観を植えつけながら成長してきました。スーパーに比べたら値段が割高でもコンビニが成立するのは、コンビニが啓蒙してきた「便利」に対して我々日本人が合意の上で「便利税」として割高な料金を払ってきたからだと思います。その果てには「コンビニで手に入る物で生活はだいたい事足りる」というような人も結構な数いると思います。ここに至っては、日本人はコンビニの啓蒙する「便利は正義」という価値観に都合のいいように自己造形してきたとさえ言えるでしょう。
この「便利は正義」の自転車操業的な展開によって、コンビニは公共料金の払い込みやATM,コーヒーマシンに至るまであらゆるサービスを取り込んでいき、社会インフラの一翼を担うまでに至ったわけです。こうやってサービスを増やしていけばそれだけ店舗運営の労力は増えていくわけですが、それをフランチャイズ制という形で店のオーナーやその下のバイトに一方的に押し付けつづけるのにもとうとう限界がきたのでしょう。上記の東京新聞の記事にあるように、牛丼やファミレスなどの外食チェーンはもう数年前から不必要な24時間営業を見直す方向に舵を切っています。おそらく外食チェーンはフランチャイズ制ではないために不利益を押し付ける相手もいないのでコンビニより先にこうならざるを得なかったのでしょう。
日本のどこかしこも「人手不足」とは言ってるのですが、この「人手不足」には「都合よく安い給料で働いてくれる人材」という暗黙の但し書きがついているように思います。コンビニだってもっと給料払えば働きたいという人はいるはずですが、フランチャイズのオーナーにとって採算が合うような範囲では「人手不足」なのです。その窮余の策として外国人の技能実習生を店頭に立たせてなんとか凌ごうということになってしまうのだと思います。
じゃぁ今まではどうやって凌いでいたのか?と考えると、かつてそこを埋めていたのは「フリーター」だったのではないかと思います。今から20年くらい前に僕が学生だった頃は「フリーター」という業種の人が結構な数いましたが、最近はフリーターという言葉は最早死語の響きさえ帯びています。「なぜそうなったか?」の話をすると長くなるのでそこはさておき、かつてコンビニの24h営業を可能にしていたのは彼ら「フリーター」の存在に依るところが大きかったのではないでしょうか?
以上をまとめると。「便利の追及」の自転車操業によってコンビニは現在の地位を築き上げました。しかし、「便利」にするためのコストは膨らむ一方で、それを店舗オーナーやバイト(特にフリーター層)に押し付けながらここまで来ました。それがいつか破綻する日がくることはなんとなくわかっていたのですが、とうとう「便利」のコストを押し付ける先がなくなってしまったために24h営業が成立しなくなった…ということではないでしょうか。本当は「便利の追及」以上に本質的な問題として「日本の衰退」が背景にはあると思うのですが、それについて書いてたらまとまらないので、またいつかの機会にしようと思います。
これを書きながら、学生時代に毎日のように発泡酒を買いに行ってたコンビニのフリーターの店員の事を思い出しました。神田さん(仮名)という30手前くらいのフリーターの店員は、研究室からの帰り(深夜4時くらい)に行くとほぼ必ず店にいて、あんまり毎日通ってるうちに少しだけ挨拶を交わす間柄になりました。そのコンビニで昼間バイトしている大学の後輩に神田さん(仮名)について聞いたら「あの人フリーターなんですけど、あの人がいないとあの店は回らないんですよ。週6とかでシフト入ってますから。」と言っていた。神田さん(仮名)は今どこで何をやってるんだろう?たぶん年齢的には50歳に近いはずなんだけどな。。
2019年1月14日月曜日
RIZAP的な詰め込みは”学び”と言えるんだろうか?
年明け以降、上司命令で東京のビジネススクールの講座に出張で通う羽目になりました。3月末までの間に数回の講座の度に新幹線に乗って出張しなければいけない上に事前に宿題が出たりと色々面倒この上ないのですが。どうしてもイヤというわけでもないので、今回は逆らわずに受けてみることにしました。新卒で入社して以来、大半の時間は社外の人とも接することなく過ごしてきたので。たまにはそういう場に出てみるのも悪くないと思ったわけです。
がしかし。1回目の講義を受けた段階で、もう既に次に行くのが正直なところ面倒になってきているのです。講義が始まる前は、隣の席におネイルがバッチリのお姉さん(仕事は超文系の総合職)が座ってたりしたので、ちょっとウキウキしていたのですが。講義が始まるなり講師の人が「皆さんで楽しく学びましょう!」と元気一杯に言い出して、そこからは乗せられた受講生が小学生のように手を挙げる…という展開が3時間続いたのです。
さすがに講師もプロですから、このあたりは手馴れたものだなと思いました。集団としての我々日本人は「互いに空気読みあって消極的になる」か、「幼稚園児みたいに従順になってはしゃぐ」の、どちらかしかできないということをつくづく思い知らされました。例えば、思春期くらいになると学校の音楽の授業ではお互いに空気を読みあってまともに誰もちゃんと唄おうとしないですよね?かたや、テレビで中高生の合唱の全国大会を見ていると、ヤバいクスリでもやってるんじゃないかと思うくらい目を見開いて恍惚の表情で歌ってる人がいますよね。我々日本人が集団として取りうる行動はこのどっちかしかないのではないかと思います。
「楽しく学ぶ」のは結構。でも、我々日本人にそれを言いっても、「うわついたりはしゃいだりせずに落ち着いて学ぶ」ということはどうしてもできないのです。このような「ハイ」な状態というのは短期的に情報を詰め込んで洗脳するに一番効率がいいのは認めるのですが、それは中長期的な「学び」を喚起するとは僕にはどうしても思えないのです。中長期的に学びを維持するためには「落ち着いて考える」ことを地道に繰り返すしかない。
本当の「学び」というのは教えられることを鵜呑みにするのではなく、「本当にそうかな?」「なぜそうなるんだろう?」と考えることの中にしか存在しないと思うのです。
これに対して、この手のセミナーは短期間で受講生の「何か学んだ・達成できたかのような気分」を最大化することだけが目的になっていて、結局やってることがRIZAPと変わらないと思うのです。講師の人の口ぶりを聞いてる限りでは、”ビジネス”という言葉さえ持ち出せば「洗脳による詰め込み」が正当化されると考えているような節があるのですが、「洗脳による詰め込み」って受講生の知性を見下してナメてるとしか僕には思えないのです。
一時的にハイになっている状態で学んだことの中に、後々臨終の間際に人生を振り返って「あれで人生変わった」と思えるようなことが含まれている事は絶望的に期待できないと思います。本来の意味での「学び」が起動すれば後はほっといても学び続けることになると思うのですが、ここで一時的にハイになってはしゃいでる人は講座が終わった後にそこから先を自ら学ぼうとはしないでしょう。せいぜい同じようにハイになって洗脳されることを「学び」だと思って自転車操業的に同じようなことを追いかけるんじゃないかと思います。
この講座の一番辛いところは、宿題として事前にやってきた課題(例えば「自分で企画書を作る」というようなものだと思ってください)を受講生同士で添削させられることなのです。なんとなく想像つくと思いますが、残念な人とペアにされると本当に苦痛な時間になってしまうのです。いきなり一回目でハズレをひきました。僕が作ってきた企画書は授業で教えられるような模範的な枠組みとはかなり違う構成になっていたのですが、残念なパートナー氏は僕がやってきた課題について何一つ褒めずに、授業で教えられたことを杓子定規に振り回して問題点だけを指摘してきました。
以下はそのとき僕が頭の中で考えてたことです。「あのさー、さっきから講義で言ってる話は『こういう風にした方がうまく行くことが多いよ』という経験則の話でしかなくて、その通りじゃないものはダメって言ってるわけじゃないはずなんだよ。どんなモデルやテンプレートにも適用可能な限界は必ずあるし、それだけが正解ではないんだよ。たぶんアンタ、自分の頭で考えてないことに自覚ないよね?あとさ、ダメ出しはしてもらって構わないんだけど、相手のいいところをいくつか見つけて褒めてバランス取るでしょ、普通?ダメ出しなんてアホでもできるんだけど、相手のいいところ見つけて褒めるほうがはるかに難しいんだよ。」
ちなみに「ビジネススクール」の講座は欧米のビジネススクールのものをそのまま教えているんだそうです。欧米人の思考様式や習慣という大前提が共有できていない日本人に表面的なテクニックとして欧米人の猿真似をやらせるからこんなことになるんだと思います。欧米人は例えばプレゼンなどに対して反対意見を述べるときでも、まずプレゼンした人の話のいいところを見つけて褒めるところから話を始めます。ビジネススクールは、まずこういうところでの「欧米人のフォーム」を教えることから始めてくれないかな。。
あと数回、先が思いやられる。。
がしかし。1回目の講義を受けた段階で、もう既に次に行くのが正直なところ面倒になってきているのです。講義が始まる前は、隣の席におネイルがバッチリのお姉さん(仕事は超文系の総合職)が座ってたりしたので、ちょっとウキウキしていたのですが。講義が始まるなり講師の人が「皆さんで楽しく学びましょう!」と元気一杯に言い出して、そこからは乗せられた受講生が小学生のように手を挙げる…という展開が3時間続いたのです。
さすがに講師もプロですから、このあたりは手馴れたものだなと思いました。集団としての我々日本人は「互いに空気読みあって消極的になる」か、「幼稚園児みたいに従順になってはしゃぐ」の、どちらかしかできないということをつくづく思い知らされました。例えば、思春期くらいになると学校の音楽の授業ではお互いに空気を読みあってまともに誰もちゃんと唄おうとしないですよね?かたや、テレビで中高生の合唱の全国大会を見ていると、ヤバいクスリでもやってるんじゃないかと思うくらい目を見開いて恍惚の表情で歌ってる人がいますよね。我々日本人が集団として取りうる行動はこのどっちかしかないのではないかと思います。
「楽しく学ぶ」のは結構。でも、我々日本人にそれを言いっても、「うわついたりはしゃいだりせずに落ち着いて学ぶ」ということはどうしてもできないのです。このような「ハイ」な状態というのは短期的に情報を詰め込んで洗脳するに一番効率がいいのは認めるのですが、それは中長期的な「学び」を喚起するとは僕にはどうしても思えないのです。中長期的に学びを維持するためには「落ち着いて考える」ことを地道に繰り返すしかない。
本当の「学び」というのは教えられることを鵜呑みにするのではなく、「本当にそうかな?」「なぜそうなるんだろう?」と考えることの中にしか存在しないと思うのです。
これに対して、この手のセミナーは短期間で受講生の「何か学んだ・達成できたかのような気分」を最大化することだけが目的になっていて、結局やってることがRIZAPと変わらないと思うのです。講師の人の口ぶりを聞いてる限りでは、”ビジネス”という言葉さえ持ち出せば「洗脳による詰め込み」が正当化されると考えているような節があるのですが、「洗脳による詰め込み」って受講生の知性を見下してナメてるとしか僕には思えないのです。
一時的にハイになっている状態で学んだことの中に、後々臨終の間際に人生を振り返って「あれで人生変わった」と思えるようなことが含まれている事は絶望的に期待できないと思います。本来の意味での「学び」が起動すれば後はほっといても学び続けることになると思うのですが、ここで一時的にハイになってはしゃいでる人は講座が終わった後にそこから先を自ら学ぼうとはしないでしょう。せいぜい同じようにハイになって洗脳されることを「学び」だと思って自転車操業的に同じようなことを追いかけるんじゃないかと思います。
この講座の一番辛いところは、宿題として事前にやってきた課題(例えば「自分で企画書を作る」というようなものだと思ってください)を受講生同士で添削させられることなのです。なんとなく想像つくと思いますが、残念な人とペアにされると本当に苦痛な時間になってしまうのです。いきなり一回目でハズレをひきました。僕が作ってきた企画書は授業で教えられるような模範的な枠組みとはかなり違う構成になっていたのですが、残念なパートナー氏は僕がやってきた課題について何一つ褒めずに、授業で教えられたことを杓子定規に振り回して問題点だけを指摘してきました。
以下はそのとき僕が頭の中で考えてたことです。「あのさー、さっきから講義で言ってる話は『こういう風にした方がうまく行くことが多いよ』という経験則の話でしかなくて、その通りじゃないものはダメって言ってるわけじゃないはずなんだよ。どんなモデルやテンプレートにも適用可能な限界は必ずあるし、それだけが正解ではないんだよ。たぶんアンタ、自分の頭で考えてないことに自覚ないよね?あとさ、ダメ出しはしてもらって構わないんだけど、相手のいいところをいくつか見つけて褒めてバランス取るでしょ、普通?ダメ出しなんてアホでもできるんだけど、相手のいいところ見つけて褒めるほうがはるかに難しいんだよ。」
ちなみに「ビジネススクール」の講座は欧米のビジネススクールのものをそのまま教えているんだそうです。欧米人の思考様式や習慣という大前提が共有できていない日本人に表面的なテクニックとして欧米人の猿真似をやらせるからこんなことになるんだと思います。欧米人は例えばプレゼンなどに対して反対意見を述べるときでも、まずプレゼンした人の話のいいところを見つけて褒めるところから話を始めます。ビジネススクールは、まずこういうところでの「欧米人のフォーム」を教えることから始めてくれないかな。。
あと数回、先が思いやられる。。
2019年1月2日水曜日
「西郷どん」から大河ドラマを経て、結局最後は西田敏行
あけましておめでとうございます。「読者」が存在するのか最早分からないまま、早幾年。このblogもとうとう6年目に突入しようとしています。これを書いている現在はお正月のお休みで、例によってこういう長期休暇でちょっと時間的に余裕があるときには日頃温めていたアレやコレについて思うところをしたためてみようかと思います。
そんなこんなで、2018年の大河ドラマ「西郷どん」なのですが。四半世紀以上前ではありますが、1990年に一度大河ドラマとして取り上げた(このときの主演は西田敏行でした)ことのある「西郷隆盛」を改めて取り上げたということには、「どうしても我々日本人は西郷隆盛のような人が好きでしょう?」というメッセージを感じます。これについては、何も反論できない。確かに我々日本人は大久保よりも西郷みたいな人が大好きです。
今回の大河ドラマを見てて気になったのは、主演の鈴木亮平が今の世相とのシンクロぶりです。西郷の年齢に合わせて段階的に太っていくなど、通常あり得ないくらいのストイックさで鈴木亮平は役作りにのめり込んでいたのだと思います。役作りのために太ったりするということ自体は、いちいちロバート・デ・ニーロを引き合いに出すまでもなく、昔からやられていることなのでこれといって特別目新しいことではないのです。しかし、鈴木亮平の取り組み方はどこか過剰で病的に見えるのです。
彼の姿には「伸びしろのないこの国で、何かを犠牲にしてでも、まだ伸びしろがあるかのように見せる」という日本の有り様がそのまま投影されているように見えてしまいました。ここまでの世相と特定の役者が繋がって見えたのは、00年代後半の佐藤隆太(どこか空虚で中身のない前向きさ)と半沢直樹をやっていた頃の堺雅人(震災後の「他人を許す能力のない日本人」)くらいなのではないかと思います。
さて、その西郷どんの次の大河ドラマは東京オリンピックなんだそうです。東京オリンピックに向けての挙国一致体制やメディアスクラムについてはもう今更くどくど申しませんが。大河ドラマというのは幕末~明治くらいまでの時代が僕にとって大河ドラマと思える限界なので、東京オリンピックという時代設定が大河ドラマとしてアリなのか?ということがどうしても気になるのです。僕が覚えている大河ドラマは「独眼竜正宗」からなのですが、そこから西郷どんに至るまで大河ドラマは幕末~明治までの、つまるところ「現代と地続きではない過去」の範囲に収まっているのです。
せっかくの機会なので調べてみました。結果としては、ほとんどの大河ドラマは幕末~明治くらいまでの時代設定で、つまり、平たく言えば時代劇なのですが。丁度僕が覚えている「独眼竜正宗」の前の三作だけはこの例外にあったようです。ここから、このバブル前夜(1984-1986)の時期の3作だけが例外だった理由をちゃんと調べずに勝手に想像してみます。この時期まで20作以上大河ドラマを作って、ひとしきり時代劇に飽きてきたので別の方向に進みたいということも一つの背景だったんだろうと思います。そして、バブル前夜という時代にまで差し掛かったところで、戦争~敗戦~復興を経てバブル前夜に至る昭和という激動の時代を総括したいという機運もあったのではないかと思います。
大河ドラマの王道は、平均的な日本人のおじさんが快哉の声を上げそうな「スケールのデカい合戦モノ」か「幕末~明治サイコー」のどっちかです。ここには司馬遼太郎の影響が垣間見える気もするのですが、日本のおじさんは「敗戦国日本」を突き付けられるのを忌避する傾向にあるように思います。これは一昔の朝の連続テレビ小説では必ず太平洋戦争がやってきて女性目線を通して「被害者としての日本」だけが描かれていたのと相補的な関係を形成していると思います。
話をバブル前夜の異色の3作に戻しますが、この3作の中でも1984年の「山河燃ゆ」は、webの情報を見た限りでは今のNHKからは想像できないくらい攻めてる気がします。この「山河燃ゆ」は太平洋戦争というトラウマに対して真正面から挑んでいるようで、当時まだ御存命だった昭和天皇まで登場します(当然本人ではなく役者が演じているのですが)。そして、この作品は準主役が西田敏行だったみたいです。。
というわけで、大河ドラマの話をしてたら、なぜか西田敏行祭になってしまいました。よくよく考えてみると西田敏行ってすごく不思議なんですよね。特に顔が整ってるわけでもないし、歌が上手いわけでもない。「西田敏行がすごく好き」という人には会ったこともないけど、「西田敏行が大嫌い」という人にも会ったことが無い。冷静に考えるとなんであんなにテレビや映画に出てくるのか謎なんですよね。お笑い芸人でいうと鶴瓶のようなポジションにいる人だと思います。
最後にこの勢いで我が家の年賀状の話を一つ。我が家のここ数年の年賀状には「酉年:火の鳥」とか「戌年:獅子丸(忍者ハットリくん)」のように干支にちなんだキャラクターを使ってきたのですが。今年の猪年については、これといって思いつくキャラクターがなかなか思い浮かびませんでした。そんな中で西郷どんの総集編を年末見てた時に、「西田敏行の猪八戒でいこう!」というアイデアがで電撃的に降ってきました。かくして本年の我が家の年賀状には西田敏行の猪八戒が全面的にフィーチャーされております。
当blogも解説当初ほどの勢いでの猪突猛進とまではいかないですが、暇を見つけては時々思うところをしたためてみようと思います。とはいっても、西田敏行と大河ドラマの話は少なくとも今年中はこれ以上出てこないと思います。だって、あの東京オリンピックの大河は見る気しないもん。いくら脚本がクドカンで音楽が大友でも。
そんなこんなで、2018年の大河ドラマ「西郷どん」なのですが。四半世紀以上前ではありますが、1990年に一度大河ドラマとして取り上げた(このときの主演は西田敏行でした)ことのある「西郷隆盛」を改めて取り上げたということには、「どうしても我々日本人は西郷隆盛のような人が好きでしょう?」というメッセージを感じます。これについては、何も反論できない。確かに我々日本人は大久保よりも西郷みたいな人が大好きです。
今回の大河ドラマを見てて気になったのは、主演の鈴木亮平が今の世相とのシンクロぶりです。西郷の年齢に合わせて段階的に太っていくなど、通常あり得ないくらいのストイックさで鈴木亮平は役作りにのめり込んでいたのだと思います。役作りのために太ったりするということ自体は、いちいちロバート・デ・ニーロを引き合いに出すまでもなく、昔からやられていることなのでこれといって特別目新しいことではないのです。しかし、鈴木亮平の取り組み方はどこか過剰で病的に見えるのです。
彼の姿には「伸びしろのないこの国で、何かを犠牲にしてでも、まだ伸びしろがあるかのように見せる」という日本の有り様がそのまま投影されているように見えてしまいました。ここまでの世相と特定の役者が繋がって見えたのは、00年代後半の佐藤隆太(どこか空虚で中身のない前向きさ)と半沢直樹をやっていた頃の堺雅人(震災後の「他人を許す能力のない日本人」)くらいなのではないかと思います。
さて、その西郷どんの次の大河ドラマは東京オリンピックなんだそうです。東京オリンピックに向けての挙国一致体制やメディアスクラムについてはもう今更くどくど申しませんが。大河ドラマというのは幕末~明治くらいまでの時代が僕にとって大河ドラマと思える限界なので、東京オリンピックという時代設定が大河ドラマとしてアリなのか?ということがどうしても気になるのです。僕が覚えている大河ドラマは「独眼竜正宗」からなのですが、そこから西郷どんに至るまで大河ドラマは幕末~明治までの、つまるところ「現代と地続きではない過去」の範囲に収まっているのです。
せっかくの機会なので調べてみました。結果としては、ほとんどの大河ドラマは幕末~明治くらいまでの時代設定で、つまり、平たく言えば時代劇なのですが。丁度僕が覚えている「独眼竜正宗」の前の三作だけはこの例外にあったようです。ここから、このバブル前夜(1984-1986)の時期の3作だけが例外だった理由をちゃんと調べずに勝手に想像してみます。この時期まで20作以上大河ドラマを作って、ひとしきり時代劇に飽きてきたので別の方向に進みたいということも一つの背景だったんだろうと思います。そして、バブル前夜という時代にまで差し掛かったところで、戦争~敗戦~復興を経てバブル前夜に至る昭和という激動の時代を総括したいという機運もあったのではないかと思います。
大河ドラマの王道は、平均的な日本人のおじさんが快哉の声を上げそうな「スケールのデカい合戦モノ」か「幕末~明治サイコー」のどっちかです。ここには司馬遼太郎の影響が垣間見える気もするのですが、日本のおじさんは「敗戦国日本」を突き付けられるのを忌避する傾向にあるように思います。これは一昔の朝の連続テレビ小説では必ず太平洋戦争がやってきて女性目線を通して「被害者としての日本」だけが描かれていたのと相補的な関係を形成していると思います。
話をバブル前夜の異色の3作に戻しますが、この3作の中でも1984年の「山河燃ゆ」は、webの情報を見た限りでは今のNHKからは想像できないくらい攻めてる気がします。この「山河燃ゆ」は太平洋戦争というトラウマに対して真正面から挑んでいるようで、当時まだ御存命だった昭和天皇まで登場します(当然本人ではなく役者が演じているのですが)。そして、この作品は準主役が西田敏行だったみたいです。。
というわけで、大河ドラマの話をしてたら、なぜか西田敏行祭になってしまいました。よくよく考えてみると西田敏行ってすごく不思議なんですよね。特に顔が整ってるわけでもないし、歌が上手いわけでもない。「西田敏行がすごく好き」という人には会ったこともないけど、「西田敏行が大嫌い」という人にも会ったことが無い。冷静に考えるとなんであんなにテレビや映画に出てくるのか謎なんですよね。お笑い芸人でいうと鶴瓶のようなポジションにいる人だと思います。
最後にこの勢いで我が家の年賀状の話を一つ。我が家のここ数年の年賀状には「酉年:火の鳥」とか「戌年:獅子丸(忍者ハットリくん)」のように干支にちなんだキャラクターを使ってきたのですが。今年の猪年については、これといって思いつくキャラクターがなかなか思い浮かびませんでした。そんな中で西郷どんの総集編を年末見てた時に、「西田敏行の猪八戒でいこう!」というアイデアがで電撃的に降ってきました。かくして本年の我が家の年賀状には西田敏行の猪八戒が全面的にフィーチャーされております。
当blogも解説当初ほどの勢いでの猪突猛進とまではいかないですが、暇を見つけては時々思うところをしたためてみようと思います。とはいっても、西田敏行と大河ドラマの話は少なくとも今年中はこれ以上出てこないと思います。だって、あの東京オリンピックの大河は見る気しないもん。いくら脚本がクドカンで音楽が大友でも。
2018年11月10日土曜日
プロ野球選手の茶髪の是非については高校野球の丸坊主とセットで議論すべきでは?
日本シリーズが終わって、日本のプロ野球はオフシーズンに入ってしまいました。「入ってしまいました」という言い回しには、「もうちょっと長引いて面白くなって欲しかった」という思いが裏書されています。今年の日本シリーズはホークスが福岡で流れをつかんで、そのままの勢いで一気に押し切ってしまった感がありました。新井が有終の美を飾るために広島に勝たせてあげたかったとか、そこまでは言わないにしても、カープが広島でもう一勝くらいして粘って欲しかった気持ちはります。
一方、優勝したホークスですが、工藤監督のインタビューにはどうしても気になる一言がありました。
就任時に「茶髪、ヒゲ、ガムなど禁止」と厳しい姿勢を打ち出したが、今年8月にはガムを解禁。茶髪、ヒゲも黙認している。だが工藤監督は「よくなかったかな。今は認めているけど、来年は締める。キャンプも厳しいものにする」と言った。
これを現役のプロ野球選手に求める理由が「ユニホームを脱いだ後の3年間で学んだ大事なこと」だからなんだそうです。つまり、現役の頃の自分が理解できなかったことを、現役のプロ野球選手に押し付けることに対して、彼は特に葛藤のようなものを感じてはいないんだろうということもこのコメントから読み取れます。
茶髪やヒゲがNGというのはスーツ着て働く人達の世界観で会って、僕みたいなエンジニアの職場ではそこまでは問題になりません。そして、そのしきたりの是非はともあれ、このルールは日本という国にローカルなものでしかありません。ヤクルトのバレンティンなんて腕にすごい刺青入ってるけど、あれはどうなんでしょうか?茶髪やヒゲよりも刺青の方がはるかに問題になりそうですが、おそらく「外国人は日本のローカルルールの適用外」というダブルスタンダードによって黙認されているんじゃないかという気がします。
海外のサッカー選手や野球選手は全身に刺青が入っているような人がたくさんいますが、海外でも一般市民であそこまで刺青が入っている人はあまり目にする機会がありません。彼らプロスポーツ選手の刺青は一般市民とはかけ離れた自由業の象徴のようなものなんだと思います。かといって彼らの刺青に対して一般市民が反感を持っているというわけでは…たぶんないんだと思います。プロスポーツ選手が「夢を与える職業=非日常の世界」なんだったら、刺青でも茶髪でもなんでもいいから好きにやっていいんじゃないかと僕も思います。
そもそも、茶髪ってひと昔前に比べて最近あまり流行らないですよね。茶髪が流行らなくなったことと日本の右傾向化は水面下で繋がっているような気がするのですが、それはさておき。なんで野球選手が茶髪にしたがるのかという理由を考えると
中島らものエッセイに、中学生くらいまで丸坊主を強制されていたことの反動で、高校生くらいになって服装や頭髪が自由化されたら途端に長髪で奇抜な服装になった…という話が時々出てきます。もしも野球選手の茶髪が問題だというのであれば、高校野球の丸坊主を見直すこととセットで議論すべきなんじゃないでしょうか?
一方、優勝したホークスですが、工藤監督のインタビューにはどうしても気になる一言がありました。
就任時に「茶髪、ヒゲ、ガムなど禁止」と厳しい姿勢を打ち出したが、今年8月にはガムを解禁。茶髪、ヒゲも黙認している。だが工藤監督は「よくなかったかな。今は認めているけど、来年は締める。キャンプも厳しいものにする」と言った。
これを現役のプロ野球選手に求める理由が「ユニホームを脱いだ後の3年間で学んだ大事なこと」だからなんだそうです。つまり、現役の頃の自分が理解できなかったことを、現役のプロ野球選手に押し付けることに対して、彼は特に葛藤のようなものを感じてはいないんだろうということもこのコメントから読み取れます。
茶髪やヒゲがNGというのはスーツ着て働く人達の世界観で会って、僕みたいなエンジニアの職場ではそこまでは問題になりません。そして、そのしきたりの是非はともあれ、このルールは日本という国にローカルなものでしかありません。ヤクルトのバレンティンなんて腕にすごい刺青入ってるけど、あれはどうなんでしょうか?茶髪やヒゲよりも刺青の方がはるかに問題になりそうですが、おそらく「外国人は日本のローカルルールの適用外」というダブルスタンダードによって黙認されているんじゃないかという気がします。
海外のサッカー選手や野球選手は全身に刺青が入っているような人がたくさんいますが、海外でも一般市民であそこまで刺青が入っている人はあまり目にする機会がありません。彼らプロスポーツ選手の刺青は一般市民とはかけ離れた自由業の象徴のようなものなんだと思います。かといって彼らの刺青に対して一般市民が反感を持っているというわけでは…たぶんないんだと思います。プロスポーツ選手が「夢を与える職業=非日常の世界」なんだったら、刺青でも茶髪でもなんでもいいから好きにやっていいんじゃないかと僕も思います。
そもそも、茶髪ってひと昔前に比べて最近あまり流行らないですよね。茶髪が流行らなくなったことと日本の右傾向化は水面下で繋がっているような気がするのですが、それはさておき。なんで野球選手が茶髪にしたがるのかという理由を考えると
- Jリーグなど他のプロスポーツへの対抗意識
- 単純にヤンキー文化だから茶髪が好き
- 高校でずっと丸坊主を強制されてきたことへの反動
中島らものエッセイに、中学生くらいまで丸坊主を強制されていたことの反動で、高校生くらいになって服装や頭髪が自由化されたら途端に長髪で奇抜な服装になった…という話が時々出てきます。もしも野球選手の茶髪が問題だというのであれば、高校野球の丸坊主を見直すこととセットで議論すべきなんじゃないでしょうか?
2018年10月28日日曜日
ハガレンの実写はコスプレ大会に見えた
我が家はWOWOWと契約しております。シングルインカムのサラリーマン家庭では、月々2500円だってバカにはできないのですが、それでも僕がリーガ・エスパニョーラを見たいので契約しているのです。そのついでと言ってはなんですが、WOWOWは映画プログラムが充実しているので、ときどき映画も録画してみています。
さて。先日、WOWOWで「鋼の錬金術師」(以下、面倒なのでハガレンと略します)の実写版の映画をやっていたのですが、今回はそれを見てて色々と思ったことをしたためてみようと思います。言いたいことを簡潔な一言にすると、タイトルにあるようにこの映画は原作の世界を踏襲した映画というより日本人によるハガレンのコスプレ大会に見えてしまいました。
まず。ハガレンの世界は西部開拓がひと段落した後のアメリカみたいな雰囲気がなんとなく漂っています。蒸気機関車は存在するけど自家用車はまだ存在しない…という世界感はあの作品の根幹を成す非常に重要な要素です。しかし、実写映画のロケ地はこの作品の世界観とかなり乖離していてかなり残念でした。ここにロケ地の情報がありましたが、欧州とアメリカの区別もぐちゃぐちゃで、「なんか欧米っぽかったらいいんでしょ?」と言ってるように見えます。
そして何よりも問題なのは、主要キャストが全部日本人だということです。これも実写にしてしまう以上仕方ないと言えば仕方ないのでしょうが、どのキャラクターも日本人が演じるとコスプレにしか見えないのです。僕が監督だったらキャストは全員外国人にして、セリフだけ全部日本語に吹き替えにすると思います。そっちの方がまだ原作の世界観に対して誠実な気がします。
つまり、ハガレンの実写化は「漫画やアニメで既に高い完成度で作品の世界観を確立しているものを、わざわざ後発で実写にすることで劣化させた」ように見えるのです。ただでさえ小説や漫画の原作が存在するものを実写やアニメなどの他のメディアに持っていくと、がっかりすることは往々にしてあります。しかし、ハガレンの場合は漫画→アニメと来た流れの後でわざわざ無理のある実写を作って大失敗しているように見えるのです。ハガレンだけ非難するのもどうかと思うので、ちゃんと見たこともないことは正直に断った上で言いますが、進撃の巨人の実写版が散々酷評されていたのもハガレンと全く同じ話だと思います。
僕が現役でアニメオタクだった1990年前後の時代には、かたや宮崎勉事件の名残がまだあり、他方ではトレンディドラマ華盛りし時代で、我ながら一番厳しい時代にアニメオタクをやっていたと思います。それでも当時の僕は「アニメだったら人が空を飛んでても何も違和感が無いけど、実写だったらどうしても違和感が出てしまう。アニメの方が実写よりも表現手段として自由度が高いはずだ。」と、思ってました。あれから四半世紀以上経ちましたが、今もこの見解は妥当であると思っています。
以前このblogでも言及したのですが、ガンダム以前のアニメはなんとなく第二次世界大戦を引きずっていました。だからガンダムより前の時代、例えばちょっとガンダムより前の長浜ロマンロボくらいまで主人公側は基本的に日本人風のキャラクターだったのです。ガンダムはロボットアニメにリアリティを持ち込んだりと色々な革命をもたらしたけど、「日本人ぽくない人が主人公側にいる」という意味でも非常に意味深い作品だったと思います(後日譚として、主人公が日本人ぽくないのはよろしくないという当時の風潮があったので、アムロは鳥取にルーツを持つ日系2世という言い訳をしていたそうです)。
以上の歴史を踏まえた上でハガレンや進撃の巨人の後発の実写版のキャストを見ると。40年前にガンダムがようやく手にした「日本人ぽくないキャラでもよい」という自由を、わざわざ後発で日本人キャストによる実写映画を作ることで台無しにしているように見えるのです。これを円環が一巡りしたんだと考えることももちろん可能ではあるんだろうけど、やっぱり僕には漫画→アニメときた後で、不用意にコスプレごっこの実写映画を作ったことには「退化」に見えてしまうのです。
さて。先日、WOWOWで「鋼の錬金術師」(以下、面倒なのでハガレンと略します)の実写版の映画をやっていたのですが、今回はそれを見てて色々と思ったことをしたためてみようと思います。言いたいことを簡潔な一言にすると、タイトルにあるようにこの映画は原作の世界を踏襲した映画というより日本人によるハガレンのコスプレ大会に見えてしまいました。
まず。ハガレンの世界は西部開拓がひと段落した後のアメリカみたいな雰囲気がなんとなく漂っています。蒸気機関車は存在するけど自家用車はまだ存在しない…という世界感はあの作品の根幹を成す非常に重要な要素です。しかし、実写映画のロケ地はこの作品の世界観とかなり乖離していてかなり残念でした。ここにロケ地の情報がありましたが、欧州とアメリカの区別もぐちゃぐちゃで、「なんか欧米っぽかったらいいんでしょ?」と言ってるように見えます。
そして何よりも問題なのは、主要キャストが全部日本人だということです。これも実写にしてしまう以上仕方ないと言えば仕方ないのでしょうが、どのキャラクターも日本人が演じるとコスプレにしか見えないのです。僕が監督だったらキャストは全員外国人にして、セリフだけ全部日本語に吹き替えにすると思います。そっちの方がまだ原作の世界観に対して誠実な気がします。
つまり、ハガレンの実写化は「漫画やアニメで既に高い完成度で作品の世界観を確立しているものを、わざわざ後発で実写にすることで劣化させた」ように見えるのです。ただでさえ小説や漫画の原作が存在するものを実写やアニメなどの他のメディアに持っていくと、がっかりすることは往々にしてあります。しかし、ハガレンの場合は漫画→アニメと来た流れの後でわざわざ無理のある実写を作って大失敗しているように見えるのです。ハガレンだけ非難するのもどうかと思うので、ちゃんと見たこともないことは正直に断った上で言いますが、進撃の巨人の実写版が散々酷評されていたのもハガレンと全く同じ話だと思います。
僕が現役でアニメオタクだった1990年前後の時代には、かたや宮崎勉事件の名残がまだあり、他方ではトレンディドラマ華盛りし時代で、我ながら一番厳しい時代にアニメオタクをやっていたと思います。それでも当時の僕は「アニメだったら人が空を飛んでても何も違和感が無いけど、実写だったらどうしても違和感が出てしまう。アニメの方が実写よりも表現手段として自由度が高いはずだ。」と、思ってました。あれから四半世紀以上経ちましたが、今もこの見解は妥当であると思っています。
以前このblogでも言及したのですが、ガンダム以前のアニメはなんとなく第二次世界大戦を引きずっていました。だからガンダムより前の時代、例えばちょっとガンダムより前の長浜ロマンロボくらいまで主人公側は基本的に日本人風のキャラクターだったのです。ガンダムはロボットアニメにリアリティを持ち込んだりと色々な革命をもたらしたけど、「日本人ぽくない人が主人公側にいる」という意味でも非常に意味深い作品だったと思います(後日譚として、主人公が日本人ぽくないのはよろしくないという当時の風潮があったので、アムロは鳥取にルーツを持つ日系2世という言い訳をしていたそうです)。
以上の歴史を踏まえた上でハガレンや進撃の巨人の後発の実写版のキャストを見ると。40年前にガンダムがようやく手にした「日本人ぽくないキャラでもよい」という自由を、わざわざ後発で日本人キャストによる実写映画を作ることで台無しにしているように見えるのです。これを円環が一巡りしたんだと考えることももちろん可能ではあるんだろうけど、やっぱり僕には漫画→アニメときた後で、不用意にコスプレごっこの実写映画を作ったことには「退化」に見えてしまうのです。
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