風邪をひいたうえに結局どこにも行かなかったGWが終わろうとしているのですが。いまだに風邪が治りきりません。GWが終わるのは仕方ないとして、せめて風邪とともに去ってほしいです。そんなこんなでぱっとしないGWなので、せめて普段このblogに書こうと思って手が付けられずにいた話を一つ書いてみようと思います。「日本のアニメ」についてはたびたびこのblogで取り上げる定番アイテムになっていますが、今日は「アニメソング」についての話です。
いつ頃からなのかは覚えていないですが、NHKでアニメソングの歌謡ショーのような番組をやっていたり、アニメソングのフェスのライブ映像を流したりしているのをたびたび見かけることが度々あります。それを見つけたからといってそんなに熱心に見るわけではないのですが、だいたいアニメソングの歌手が何人か出てきて歌って、最後は全員で「マジンガーZ」を歌って終わるようなパターンで必ず構成されているような印象があります。
これを見ていてどうもひっかかるのは、老いも若きもすべて含めて「アニメソング界」という一つのジャンルが存在することについての合意形成が成されているように見えるのです。とはいっても、日本のアニメは半世紀以上の歴史があるわけで、この半世紀にわたってずっとリアルタイムでアニメを見続けている人なんてほとんどいないでしょう。
アニメソングのイベントに集う若者の大半はマジンガーZなんてまともに見たことないだろうと思います。彼らが実際にリアルタイムで接しているのはたとえば水樹奈々みたいな最近のアニソン歌手なんだろうと思います。それでも彼らは「アニメソング」というジャンルのイベントが新旧とりまぜて紅白歌合戦みたいなラインナップになっていることに異議を唱えない。これって不思議なことだと思いませんか?
これについては色々な説明や解釈が可能だと思うのですが、僕の見解を少々述べてみます。アニメソング、というよりもアニメというメディアは「メディアそのものに対する帰属意識」によって成立しているのではないでしょうか。一口にアニメと言ったって、ラブコメ、美少女、子供向け、ロボット、戦闘、果ては将棋や囲碁まで色々なジャンルがあります。仮に自分が見ているのがロボットアニメだけだったとしても、ラブコメや将棋のアニメを見る人に対しても同胞として遇することがアニメ界の住人に要求されるわけです。
これと同じ原理を時間方向に展開して適用できるからこそ、アニメソングのイベントに集う若者は自分の世代と明らかにズレているマジンガーZの歌で一緒に盛り上がることができるんだろうと思います。かくして時間の概念を排除してジャンルとしての一体感を獲得している半面、アニメソングというジャンルは時間という概念を忌避したエバーグリーンな世界を作り上げているように思うのです。
この代償を一番引き受けているのはアニメソング界のレジェンドともいうべき老人たちなんじゃないでしょうか。例えば、アニキこと水木一郎(70)、ささきいさお(75)、堀江美都子(61)などは未だにこの手のアニメソング関連のイベントに登場しては現役で歌っています。彼らは年齢的にはもはや老人の域に達しているのですが、彼らの外見は年齢不相応に若作りなのです。彼らを見ていると、彼らはアニメソングというジャンルによって「老いる」ということを許されていないように見えて、なんだか気の毒になるのです。
アニメソングの世界がこのままいつまでも老いることを許さないままエバーグリーンな世界を維持するのか、それとも別の道へ進むのか…やや不謹慎ですが、アニメソング界のレジェンドが亡くなる頃くらいにその答えを見ることになるのではないかと思います。声優であれば、例えば山田康雄が亡くなったときに栗田貫一がモノマネでルパンを再現したように「そっくりさんがシレっと後を継ぐ」という方法もありました。しかし、歌手ともなるとそうもいかないんじゃないでしょうか。超具体的に言うと、「水木一郎が亡くなった後に代わりにマジンガーZを歌える人材は現れるのか?」という難問に直面するだろうと思います。どうするんだろ?VOCALOIDってわけにもいかないだろうしなぁ。。
2018年5月6日日曜日
2018年5月5日土曜日
イチローの「事実上の引退」は即身仏と同じに見える
風邪が治りきらないままぼんやりGWを過ごしていると、イチローの事実上の引退のニュースが入ってきました。しかし、言ってることがなんとも不可解なのです。
「イチローは引退ではない」と今後についてあらゆる可能性を否定しなかった。
少なくとも今季中はプレーしないこととなったが、同GMによれば試合前にはこれまで通りに他の選手たちと練習するという。遠征にも同行予定。前例のない形での特別アドバイザー契約になるが、球団側が何よりも重視したのはチーム内でのイチローの存在感と必要性だった。
例えば「今シーズンは怪我の影響でコンディションを落としているけど、それが治れば来シーズンはプレーできる可能性がある」といった理由が添えられていればまだ納得もできるのですけどね。しかし、この次の一行を見て急に理解できた気がしました。
「彼は我々のクラブハウスで、ダライ・ラマのような存在だ」
「クラブハウスのダライ・ラマ」という言葉はものすごいパンチがありますね。これまで聞いたことがある中でも「ナイトクラブのクセナキス」とか「群馬のシャブババア」に匹敵するくらいの破壊力があるのですが。ともあれ、言いえて妙だと思います。
この「クラブハウスのダライ・ラマ」という一行を見て僕が納得した理由は、このフレーズから仏教の即身仏を連想したからです。即身仏というのは仏教の高僧などがお経を唱えたりしながらミイラになるという、究極の修行法みたいなやつです。聞きかじりであんまり簡単に宗教を批判すべきではないのでしょうが、どうもこの即身仏というのは仏教のコンセプトと乖離しているような気がするのです。
仏教のメインテーマの一つは「いかに執着を捨てるか」ということにあると思うのですが。それに対して即身仏はどうも「修行しながら死にたい」と言ってるように見えるのです。なんだかこれって、修行によって功徳を積むという行為にいつまでも執着しているように感じるのです。しかも、自分の姿をミイラという形に残そうとするなんて、自らの肉体や生命にいつまでも執着して、死後も影響を保持したがっているようにさえ見えるのです。
話をイチローに戻します。彼は「自身のキャリアの終焉」という断裂を受け入ることを拒んで、「終焉をこれまでのキャリアの延長であるかのように偽装する」ことを選んだように見えるのです。これは上述したように僕が即身仏に対して感じる欺瞞と全く同じ構造を持っています。特に、「試合には出ないけどこれまで通りに練習はやる」という辺りは、即身仏が「死を修行という形に偽装する」のとそのまま対応しているように思います。
プロスポーツ選手の引退については、「やめないままでいること」がやめられない中山やカズとか、現役時代の四股名のまま親方になった貴乃花親方の抱える幼児性など、これまでも色々とこのblogで考察してきたトピックです。これと絡めてここから色々話を展開しようかと思ったのですが、それをやるとこの文章の収まりがどうにも悪くなって今日はここまでにします。「適切なタイミングで終焉を受け入れるべきだ」という論旨の文章の構造が論旨に反してしまうわけにはいかないので。。
「イチローは引退ではない」と今後についてあらゆる可能性を否定しなかった。
少なくとも今季中はプレーしないこととなったが、同GMによれば試合前にはこれまで通りに他の選手たちと練習するという。遠征にも同行予定。前例のない形での特別アドバイザー契約になるが、球団側が何よりも重視したのはチーム内でのイチローの存在感と必要性だった。
例えば「今シーズンは怪我の影響でコンディションを落としているけど、それが治れば来シーズンはプレーできる可能性がある」といった理由が添えられていればまだ納得もできるのですけどね。しかし、この次の一行を見て急に理解できた気がしました。
「彼は我々のクラブハウスで、ダライ・ラマのような存在だ」
「クラブハウスのダライ・ラマ」という言葉はものすごいパンチがありますね。これまで聞いたことがある中でも「ナイトクラブのクセナキス」とか「群馬のシャブババア」に匹敵するくらいの破壊力があるのですが。ともあれ、言いえて妙だと思います。
この「クラブハウスのダライ・ラマ」という一行を見て僕が納得した理由は、このフレーズから仏教の即身仏を連想したからです。即身仏というのは仏教の高僧などがお経を唱えたりしながらミイラになるという、究極の修行法みたいなやつです。聞きかじりであんまり簡単に宗教を批判すべきではないのでしょうが、どうもこの即身仏というのは仏教のコンセプトと乖離しているような気がするのです。
仏教のメインテーマの一つは「いかに執着を捨てるか」ということにあると思うのですが。それに対して即身仏はどうも「修行しながら死にたい」と言ってるように見えるのです。なんだかこれって、修行によって功徳を積むという行為にいつまでも執着しているように感じるのです。しかも、自分の姿をミイラという形に残そうとするなんて、自らの肉体や生命にいつまでも執着して、死後も影響を保持したがっているようにさえ見えるのです。
話をイチローに戻します。彼は「自身のキャリアの終焉」という断裂を受け入ることを拒んで、「終焉をこれまでのキャリアの延長であるかのように偽装する」ことを選んだように見えるのです。これは上述したように僕が即身仏に対して感じる欺瞞と全く同じ構造を持っています。特に、「試合には出ないけどこれまで通りに練習はやる」という辺りは、即身仏が「死を修行という形に偽装する」のとそのまま対応しているように思います。
プロスポーツ選手の引退については、「やめないままでいること」がやめられない中山やカズとか、現役時代の四股名のまま親方になった貴乃花親方の抱える幼児性など、これまでも色々とこのblogで考察してきたトピックです。これと絡めてここから色々話を展開しようかと思ったのですが、それをやるとこの文章の収まりがどうにも悪くなって今日はここまでにします。「適切なタイミングで終焉を受け入れるべきだ」という論旨の文章の構造が論旨に反してしまうわけにはいかないので。。
2018年5月4日金曜日
英語を「勉強」しようとするのは問題の反復生産でしかないんじゃないだろうか
GWに入りました。今年は子供を連れて車で実家に帰ろうかとも思っていたのですが、渋滞情報を調べたらエゲツないことになっていて迷いが生じたところに、さらに子供がやや風邪気味になりまして。結局、「どうせ1泊くらいなんだったら、無理してGWに帰らなくてもいいじゃん」という結論に落ち着きつつあります。
そんなこんなで、ぼんやり寝正月ならぬ寝GWをだらだらと満喫しております。どうやら僕にも風邪が感染ってしまったようで、今日はとうとう一日寝倒して終わりました。まぁ、休みのときしかできない過ごし方と言えばその通りなんですけど、なんだかちょっともったいないような気もします。
さて。そんなGWなので、せめて普段このblogに書こうと思っていたネタをいくつか書こうと思います。今回は職場の30歳くらいの後輩の話です。この人は都の西北のスーパーフリーな感じの一流大学をご卒業なさっておりまして。この人を見ていると、ゆとり世代にありがちな「自分の利益よりもとりあえず周囲との調和を最優先する」というマインドに加えて、彼の大学の卒業生に特有の「勉強熱心に見えるのはダサいから嫌=勉強した自慢より勉強しなかった自慢の方を好む」という気質がなんとなく感じられるのです。
そんな彼が最近ずっと昼休みに大学受験時代の単語帳を眺めているのです。しかも、そのとき彼は必ずイヤホンを耳に装着しているのです。そこから彼が放っているであろうメッセージは簡単に言うと「気になるかもしれないけどイジらないでください」なのですが。残念ながらその程度のメタメッセージに屈する僕ではないので当然ちょいちょい声かけてイジりにいってしまい、彼はそれにやや迷惑そうに応じてきたりするのですが。。この一連のやりとりについて思うことを書き連ねようと思います。
「今見返すと、『こんなことも忘れてたのか』という発見がいっぱいあるんですよ。」と彼は言いました。まぁ、そりゃそうなんでしょう。仕事でちょいちょいしか英語を使わないと、日常会話や政治用語なんてどんどん忘れるでしょうからね。彼が受験当時の単語帳を見直している背景には「英語を何とかしたい」という気持ちがあるんだろうし、それ自体は全然良いと思うのです。しかし、30くらいになった彼が今になって英語のために努力するにあたって、大学受験の時の単語帳を見直しているのはどうも本末転倒な気がするのです。
「英語をなんとかしたい」をもう一段掘り下げると、彼がなんとかしたいのは「英語を使ったコミュニケーション」なんじゃないでしょうか。だったら単語を覚えることよりも、もうちょっと実践的なコミュニケーションの練習(例えば職場には外国人が何人かいるので、彼らに話しかけにいってみるとか)をする方がはるかに効果的だと思います。勿論語彙力はあった方がいいに越したことはないですが、実践的なコミュニケーションにおいては知らない単語をパラフレーズ("目薬"という単語が思い出せなかったら、"a liquid for eye"みたいに言い換える)する能力の方がはるかに有用だと思います。そういえば日本人の辞書や語彙力に対する固執については似たような話を昔このblogに書いたのでした。
これは往々にして勉強ができた人が陥りがちなピットフォールだと思うのですが、彼は「勉強することで問題が解決する」という成功体験に固執しすぎなんじゃないかと思うのです。そう考えると、彼が自分の考える「英語の勉強」におけるキャリアハイである「大学受験のときの自分」にいつまでも固執しようとするのも納得がいくのです。しかし、彼が「英語をなんとかしたい」と思うに至った原因が「英語を使ったコミュニケーションは勉強では解決できない」からだと仮定すると、単語帳を眺めているということは問題に対する解決策ではなく問題の原因を反復生産しているだけなのではないでしょうか。
彼を見ていると、昔自分が楽器をやってたときのことを思い出します。僕は自分ひとりで練習してる分にはいいのですが、他の人と一緒に合わせると途端にボロボロになるのでした。合奏は相手がいて成り立つもので、せめて一人で練習するにしてもメトロノームや他のパートの録音に合わせて弾いたり、間違えても止まらずに弾くようにしないと、むやみに一人で練習しても意味が無いどころか逆効果だったりするのです。そして、最高の練習は言うまでもなく人と一緒に合奏することでした。この話は「合奏」を「外国語によるコミュニケーション」に置き換えてもそのまま同じことが言えると思います。
そんなこんなで、ぼんやり寝正月ならぬ寝GWをだらだらと満喫しております。どうやら僕にも風邪が感染ってしまったようで、今日はとうとう一日寝倒して終わりました。まぁ、休みのときしかできない過ごし方と言えばその通りなんですけど、なんだかちょっともったいないような気もします。
さて。そんなGWなので、せめて普段このblogに書こうと思っていたネタをいくつか書こうと思います。今回は職場の30歳くらいの後輩の話です。この人は都の西北のスーパーフリーな感じの一流大学をご卒業なさっておりまして。この人を見ていると、ゆとり世代にありがちな「自分の利益よりもとりあえず周囲との調和を最優先する」というマインドに加えて、彼の大学の卒業生に特有の「勉強熱心に見えるのはダサいから嫌=勉強した自慢より勉強しなかった自慢の方を好む」という気質がなんとなく感じられるのです。
そんな彼が最近ずっと昼休みに大学受験時代の単語帳を眺めているのです。しかも、そのとき彼は必ずイヤホンを耳に装着しているのです。そこから彼が放っているであろうメッセージは簡単に言うと「気になるかもしれないけどイジらないでください」なのですが。残念ながらその程度のメタメッセージに屈する僕ではないので当然ちょいちょい声かけてイジりにいってしまい、彼はそれにやや迷惑そうに応じてきたりするのですが。。この一連のやりとりについて思うことを書き連ねようと思います。
「今見返すと、『こんなことも忘れてたのか』という発見がいっぱいあるんですよ。」と彼は言いました。まぁ、そりゃそうなんでしょう。仕事でちょいちょいしか英語を使わないと、日常会話や政治用語なんてどんどん忘れるでしょうからね。彼が受験当時の単語帳を見直している背景には「英語を何とかしたい」という気持ちがあるんだろうし、それ自体は全然良いと思うのです。しかし、30くらいになった彼が今になって英語のために努力するにあたって、大学受験の時の単語帳を見直しているのはどうも本末転倒な気がするのです。
「英語をなんとかしたい」をもう一段掘り下げると、彼がなんとかしたいのは「英語を使ったコミュニケーション」なんじゃないでしょうか。だったら単語を覚えることよりも、もうちょっと実践的なコミュニケーションの練習(例えば職場には外国人が何人かいるので、彼らに話しかけにいってみるとか)をする方がはるかに効果的だと思います。勿論語彙力はあった方がいいに越したことはないですが、実践的なコミュニケーションにおいては知らない単語をパラフレーズ("目薬"という単語が思い出せなかったら、"a liquid for eye"みたいに言い換える)する能力の方がはるかに有用だと思います。そういえば日本人の辞書や語彙力に対する固執については似たような話を昔このblogに書いたのでした。
これは往々にして勉強ができた人が陥りがちなピットフォールだと思うのですが、彼は「勉強することで問題が解決する」という成功体験に固執しすぎなんじゃないかと思うのです。そう考えると、彼が自分の考える「英語の勉強」におけるキャリアハイである「大学受験のときの自分」にいつまでも固執しようとするのも納得がいくのです。しかし、彼が「英語をなんとかしたい」と思うに至った原因が「英語を使ったコミュニケーションは勉強では解決できない」からだと仮定すると、単語帳を眺めているということは問題に対する解決策ではなく問題の原因を反復生産しているだけなのではないでしょうか。
彼を見ていると、昔自分が楽器をやってたときのことを思い出します。僕は自分ひとりで練習してる分にはいいのですが、他の人と一緒に合わせると途端にボロボロになるのでした。合奏は相手がいて成り立つもので、せめて一人で練習するにしてもメトロノームや他のパートの録音に合わせて弾いたり、間違えても止まらずに弾くようにしないと、むやみに一人で練習しても意味が無いどころか逆効果だったりするのです。そして、最高の練習は言うまでもなく人と一緒に合奏することでした。この話は「合奏」を「外国語によるコミュニケーション」に置き換えてもそのまま同じことが言えると思います。
2018年3月21日水曜日
「HUGっと!プリキュア」は女の子に過大な要求を突き付けてるんじゃないだろうか?
早いもので我が家の娘も春から幼稚園に入ることになりました。ここ最近は女子向けのアニメだけでなく仮面ライダーやスーパー戦隊、ウルトラマンなどの男の子向けの特撮まで見るようになって、ますますテレビっ子ぶりに拍車がかかってる感があるのですが。幼稚園に入ったら男の子とも一緒に遊べるようになるはずだと前向きに考えることにしたいと思います。
1月が娘の誕生日だったのでその時期に誕生日プレゼントに何が欲しいのか聞いたところ、「プリキュアのマスコットのぬいぐるみ」と言われました。しかし、その時点でプリキュアは2月から新しいシリーズに入ることが分かっていたので親としては「いや、先回りして次のプリキュアのマスコット買おうよ?」と言いたかったのですが。まぁ、子供にそんなこと言って理解してもらえるわけもなく、結局その時やっていたプリキュアアラモードのマスコットをAmazonでポチっとお買い上げしました。
この時点ではまだ放映が続いていたにも拘わらずAmazonではすでに半額くらいに値引きされていたので、「あー、もう在庫を売り切るモードに入ってるんだな」と思ったのですが。今おもちゃ売り場では2月までで放映が終了した旧プリキュア(プリキュアアラモード)と旧スーパー戦隊(キュウレンジャー)のおもちゃは残酷なほどに値引きされて叩き売られています。おもちゃ業界のこのあたりのフットワークの軽さと冷酷さには驚かされますが、なんでこうなるかもよくわかりました。というのも、子供達の関心も放映終了と同時に急降下して次の作品に移ってしまうみたいなのです。
さて本題の「HUGっと!プリキュア」なのですが。「子供達にとって一番身近なお母さんこそ女の子にとっての強く、優しく、カッコいいヒロイン像を体現している」というコンセプトを掲げているそうです。その点では過去のプリキュアとは少し一線を画すことを意図しているんだろうということは見ているこちらにも伝わってきます。プリキュア達は悪の組織に狙われている謎の赤ちゃんをお世話しつつも、悪の組織と戦っているという話になっています。まぁ、ここまではいいんですよ。プリキュアとしては新機軸なんでしょうけど、セーラームーンまで遡れば未来の子供(ちびうさ)が出てくること自体は前例がありますしね。
ところがこの一方で、この作品の掲げているコピーは「なんでもできる!なんでもなれる!輝く未来を抱きしめて!」なのです。ここからうかがえるように、「キッザニア東京」のように子供に将来の職業について啓蒙することもこの作品のもう一つのテーマのようなのです。だから、プリキュア達に色々な職業体験をさせるようなシーンが多く盛り込まれていますし、エンディングの歌なんて「将来アレにもコレにもなれる」みたいなことをひたすら羅列して歌ってたりします。
以上より。「HUGっと!プリキュア」は「母性」と「労働者としてのキャリアデザイン」という二つの要素を同時に子供に啓蒙しようとしているように見えるのです。この二つは決して対立する概念ではないので両立は不可能ではないし、両立することを求められる方向に日本の社会も向かってはいるのでしょう。でも、現状ではまだまだ両立なんて難しいわけで、その二つを同時に突き付けるのはなんだか子供が気の毒なように思えてしまうのです。
ちなみに、日曜日の朝のテレビ朝日はプリキュア→仮面ライダー→スーパー戦隊という流れになっています。つまり、プリキュアの後には仮面ライダーとスーパー戦隊が控えているわけですが、これらの男の子向けの特撮番組は、プリキュアとは対照的にこれといって子供に何かを過大な要求を突き付けているようには見えないのです。
これらの特撮番組が「強くてカッコいい正義のヒーローが戦ってる姿を楽しむ」という娯楽性によって成り立っているということは僕が子供の頃とさして変わっていないように思えます。スーパー戦隊に限って言えば、「5人という縛りをやめる:キュウレンジャー」→「スーパー戦隊が怪盗側と警察側に分かれて戦う:ルパンレンジャーvsパトレンジャー」という風に、むしろ既存のフォーマットを崩して柔軟に新機軸を導入しているようにさえ見えます。
そんなわけで、「HUGっと!プリキュア」とその後の男の子向けの特撮を比較すると、なんだか女の子は色々要求されていることが多すぎて気の毒なようにどうしても思えてしまうのです。
1月が娘の誕生日だったのでその時期に誕生日プレゼントに何が欲しいのか聞いたところ、「プリキュアのマスコットのぬいぐるみ」と言われました。しかし、その時点でプリキュアは2月から新しいシリーズに入ることが分かっていたので親としては「いや、先回りして次のプリキュアのマスコット買おうよ?」と言いたかったのですが。まぁ、子供にそんなこと言って理解してもらえるわけもなく、結局その時やっていたプリキュアアラモードのマスコットをAmazonでポチっとお買い上げしました。
この時点ではまだ放映が続いていたにも拘わらずAmazonではすでに半額くらいに値引きされていたので、「あー、もう在庫を売り切るモードに入ってるんだな」と思ったのですが。今おもちゃ売り場では2月までで放映が終了した旧プリキュア(プリキュアアラモード)と旧スーパー戦隊(キュウレンジャー)のおもちゃは残酷なほどに値引きされて叩き売られています。おもちゃ業界のこのあたりのフットワークの軽さと冷酷さには驚かされますが、なんでこうなるかもよくわかりました。というのも、子供達の関心も放映終了と同時に急降下して次の作品に移ってしまうみたいなのです。
さて本題の「HUGっと!プリキュア」なのですが。「子供達にとって一番身近なお母さんこそ女の子にとっての強く、優しく、カッコいいヒロイン像を体現している」というコンセプトを掲げているそうです。その点では過去のプリキュアとは少し一線を画すことを意図しているんだろうということは見ているこちらにも伝わってきます。プリキュア達は悪の組織に狙われている謎の赤ちゃんをお世話しつつも、悪の組織と戦っているという話になっています。まぁ、ここまではいいんですよ。プリキュアとしては新機軸なんでしょうけど、セーラームーンまで遡れば未来の子供(ちびうさ)が出てくること自体は前例がありますしね。
ところがこの一方で、この作品の掲げているコピーは「なんでもできる!なんでもなれる!輝く未来を抱きしめて!」なのです。ここからうかがえるように、「キッザニア東京」のように子供に将来の職業について啓蒙することもこの作品のもう一つのテーマのようなのです。だから、プリキュア達に色々な職業体験をさせるようなシーンが多く盛り込まれていますし、エンディングの歌なんて「将来アレにもコレにもなれる」みたいなことをひたすら羅列して歌ってたりします。
以上より。「HUGっと!プリキュア」は「母性」と「労働者としてのキャリアデザイン」という二つの要素を同時に子供に啓蒙しようとしているように見えるのです。この二つは決して対立する概念ではないので両立は不可能ではないし、両立することを求められる方向に日本の社会も向かってはいるのでしょう。でも、現状ではまだまだ両立なんて難しいわけで、その二つを同時に突き付けるのはなんだか子供が気の毒なように思えてしまうのです。
ちなみに、日曜日の朝のテレビ朝日はプリキュア→仮面ライダー→スーパー戦隊という流れになっています。つまり、プリキュアの後には仮面ライダーとスーパー戦隊が控えているわけですが、これらの男の子向けの特撮番組は、プリキュアとは対照的にこれといって子供に何かを過大な要求を突き付けているようには見えないのです。
これらの特撮番組が「強くてカッコいい正義のヒーローが戦ってる姿を楽しむ」という娯楽性によって成り立っているということは僕が子供の頃とさして変わっていないように思えます。スーパー戦隊に限って言えば、「5人という縛りをやめる:キュウレンジャー」→「スーパー戦隊が怪盗側と警察側に分かれて戦う:ルパンレンジャーvsパトレンジャー」という風に、むしろ既存のフォーマットを崩して柔軟に新機軸を導入しているようにさえ見えます。
そんなわけで、「HUGっと!プリキュア」とその後の男の子向けの特撮を比較すると、なんだか女の子は色々要求されていることが多すぎて気の毒なようにどうしても思えてしまうのです。
2018年2月4日日曜日
ドライブレコーダーは「対策」ではなく原因の反復生産なのではないだろうか
ドライブレコーダーがちょっとしたヒット商品になっているそうです。背景にあるのは、昨年話題になった「あおり運転」の事件なのでしょう。「頭のおかしい輩の危険なあおり運転の被害者になる可能性は誰にでもある。だからせめてドライブレコーダーで自衛しよう。」という気持ちは分からんでもないのですが。でも僕はどうしてもあれを買って自分の車につけたいとは思えないのです。
しかし別に僕がそう思えないからといって、それで誰かが不利益を被るわけでも全然無いのです。たとえばこれが「安倍政権の在り方について」であれば、そうもいきません。実際にはそんな機会はほとんど無いものの、国の行く末を左右する案件については他人と議論する市民的義務をある程度は感じるのですが。ドライブレコーダーの是非というのは個々人の選択というレベルに還元されているので、特に議論の必要がありません。しかし、そのおかげで逆に「思ってることを誰かに言う機会が全くない」のです。だからこそ、「余計な心の機敏の掃き溜め」であるこのblogに思うところをしたためてみようと思います。
まず。「車の中の空間」は「インターネット」と並んで、「母胎内で守られた状態で外部空間と関わっている」というメタファーがこれ以上ないくらい適切に当てはまるのです。車の中にいると、実際は周りの人間からは「ある程度は見えている」にも拘わらず、あたかも誰にも見られていないかのような気分になります。だから我々は車の中では大声で歌ったりお鼻の掃除をしたり…と、他人の目がある場所ではできないことをいくらでもやってしまうわけです。
その空間にドライブレコーダーという「他人の目」が入ってくるのがどうも僕は嫌なのです。ドライブレコーダー積極導入派に言わせれば、「だからこそ『他人の目』が入ることによって運転が丁寧になるんだ」となるのでしょう。そこには一理あるのは認めるのですが、だからといって他人に監視されているような状況に常に晒されるのはやっぱりなんか嫌なんです。時々は人に聞かれたくないような青臭くて恥ずかしい歌を絶唱したいときだってあるじゃないですか。
そして、ドライブレコーダーに対するもう一つの懸念は「自分の過失も克明に記録されてしまう」ということです。僕は自分の運転技能は人並み以下だという自覚があって、いつか自分が重大な事故を起こすかもしれないと常に思いながら車に乗っています。ドライブレコーダーを買う人は「自分が過失を犯す可能性=ドライブレコーダーが自分に不利益をもたらす可能性」についてどう思って思ってるんでしょうかね?自分の運転技能の無謬を信じているんでしょうか。
やや脱線しますが、ドライブレコーダーのメリットだけを見つめて導入に踏み切れる人は、「9条を廃止して、軍備もどんどん増強すれば北朝鮮や中国に対する抑止力になるはずだ」というネトウヨの思考に近いんじゃないかと思うのです。もし日本が軍備を増強したら近隣諸国だって相応に軍備を強化してくるので軍事バランスに緊張がもたらされるのはちょっと考えれば自明なことなのですが。ネトウヨの皆さんの頭の中では外国は都合よく自分の思い通りに振る舞ってくれることにたぶんなっているのでしょう。ドライブレコーダーに都合のいいことだけ期待できるセンスはこれに極めて近いと思います。
ここ数年、特に2010年代以降、我々日本人の「他人を許す能力」は急激に低下の一途を辿ってどんどん0に漸近しています。例えば、他人の不倫にいちいち介入して断罪しようとする文春砲のようなものが市民権を得てしまっているのはその一つの表象だと思います。些細なトラブルが煽り運転に発展してしてしまうのは、相手を追い詰めたいという攻撃欲求を自制できない人が増えているということであり、これは個人の資質もさることながら「他人を許す能力が低下してしまった」時代と不可分の関係にあります。一方で、こういう人への対策としてドライブレコーダーを導入するのも、また別の形で「他人を許さない」という態度表明にしかなっていないと思います。
僕がドライブレコーダーを「なんとなく」だけど、でも「どうしても」嫌な理由は、突き詰めるとこの「他人を許す能力」の欠如が日本という国にもたらしているネガティブスパイラルの中に自分が巻き込まれたり加担したくないということなのでしょう。ドライブレコーダーを導入することは対策のように見えて、実は原因の反復生産なのではないでしょうか。
一応最後に対案らしきものを一つだけ提案しておきますが、「他人を許す能力」の涵養にはラテン国家での生活体験がベストだと思います。危険運転行為の刑罰には日本の刑務所で何年も服役させるよりもスペインへの数年の「島流し」の方がはるかに効果的だと思います。ドライブレコーダーを買う人にも同じ事が言えて、ドライブレコーダーの購入希望者はまずスペインで「研修」を受ける制度にしてみてはどうでしょうか。我ながら「面白い極論」レベルのことしか言ってない自覚はありますが、しかしそれでも僕が考えうる限りでは一番マトモな解決策なのです。
しかし別に僕がそう思えないからといって、それで誰かが不利益を被るわけでも全然無いのです。たとえばこれが「安倍政権の在り方について」であれば、そうもいきません。実際にはそんな機会はほとんど無いものの、国の行く末を左右する案件については他人と議論する市民的義務をある程度は感じるのですが。ドライブレコーダーの是非というのは個々人の選択というレベルに還元されているので、特に議論の必要がありません。しかし、そのおかげで逆に「思ってることを誰かに言う機会が全くない」のです。だからこそ、「余計な心の機敏の掃き溜め」であるこのblogに思うところをしたためてみようと思います。
まず。「車の中の空間」は「インターネット」と並んで、「母胎内で守られた状態で外部空間と関わっている」というメタファーがこれ以上ないくらい適切に当てはまるのです。車の中にいると、実際は周りの人間からは「ある程度は見えている」にも拘わらず、あたかも誰にも見られていないかのような気分になります。だから我々は車の中では大声で歌ったりお鼻の掃除をしたり…と、他人の目がある場所ではできないことをいくらでもやってしまうわけです。
その空間にドライブレコーダーという「他人の目」が入ってくるのがどうも僕は嫌なのです。ドライブレコーダー積極導入派に言わせれば、「だからこそ『他人の目』が入ることによって運転が丁寧になるんだ」となるのでしょう。そこには一理あるのは認めるのですが、だからといって他人に監視されているような状況に常に晒されるのはやっぱりなんか嫌なんです。時々は人に聞かれたくないような青臭くて恥ずかしい歌を絶唱したいときだってあるじゃないですか。
そして、ドライブレコーダーに対するもう一つの懸念は「自分の過失も克明に記録されてしまう」ということです。僕は自分の運転技能は人並み以下だという自覚があって、いつか自分が重大な事故を起こすかもしれないと常に思いながら車に乗っています。ドライブレコーダーを買う人は「自分が過失を犯す可能性=ドライブレコーダーが自分に不利益をもたらす可能性」についてどう思って思ってるんでしょうかね?自分の運転技能の無謬を信じているんでしょうか。
やや脱線しますが、ドライブレコーダーのメリットだけを見つめて導入に踏み切れる人は、「9条を廃止して、軍備もどんどん増強すれば北朝鮮や中国に対する抑止力になるはずだ」というネトウヨの思考に近いんじゃないかと思うのです。もし日本が軍備を増強したら近隣諸国だって相応に軍備を強化してくるので軍事バランスに緊張がもたらされるのはちょっと考えれば自明なことなのですが。ネトウヨの皆さんの頭の中では外国は都合よく自分の思い通りに振る舞ってくれることにたぶんなっているのでしょう。ドライブレコーダーに都合のいいことだけ期待できるセンスはこれに極めて近いと思います。
ここ数年、特に2010年代以降、我々日本人の「他人を許す能力」は急激に低下の一途を辿ってどんどん0に漸近しています。例えば、他人の不倫にいちいち介入して断罪しようとする文春砲のようなものが市民権を得てしまっているのはその一つの表象だと思います。些細なトラブルが煽り運転に発展してしてしまうのは、相手を追い詰めたいという攻撃欲求を自制できない人が増えているということであり、これは個人の資質もさることながら「他人を許す能力が低下してしまった」時代と不可分の関係にあります。一方で、こういう人への対策としてドライブレコーダーを導入するのも、また別の形で「他人を許さない」という態度表明にしかなっていないと思います。
僕がドライブレコーダーを「なんとなく」だけど、でも「どうしても」嫌な理由は、突き詰めるとこの「他人を許す能力」の欠如が日本という国にもたらしているネガティブスパイラルの中に自分が巻き込まれたり加担したくないということなのでしょう。ドライブレコーダーを導入することは対策のように見えて、実は原因の反復生産なのではないでしょうか。
一応最後に対案らしきものを一つだけ提案しておきますが、「他人を許す能力」の涵養にはラテン国家での生活体験がベストだと思います。危険運転行為の刑罰には日本の刑務所で何年も服役させるよりもスペインへの数年の「島流し」の方がはるかに効果的だと思います。ドライブレコーダーを買う人にも同じ事が言えて、ドライブレコーダーの購入希望者はまずスペインで「研修」を受ける制度にしてみてはどうでしょうか。我ながら「面白い極論」レベルのことしか言ってない自覚はありますが、しかしそれでも僕が考えうる限りでは一番マトモな解決策なのです。
2018年1月3日水曜日
MeTooは反知性主義=幼稚な男性原理へのカウンターに見える
2018年になりました。今年の正月は10連休なのですが、本日は早くもその折り返し点にあたります。これだけ長く休むとだんだん休みそのものにも飽きてくるのですが、かといって会社に行きたいかと言うとそういうわけでもない。。という正月休みを過ごしています。そんなこんなで、とりあえず長期休暇恒例の「いつか書こうと思ってたけど面倒くさそうだから二の足を踏んでいた話」を一つ書いてみようと思います。
本稿で言いたいことは、タイトルにもあるように、ここ最近盛り上がりを見せているMeTooのムーブメントは、反知性主義および幼稚な男性原理へのカウンターなのではないか?ということです。一応説明しておくと、MeTooというのはハリウッド業界人のセクハラ疑惑告発に端を発して、政治などあらゆる分野でのセクハラを告発するムーブメントです。
このMeTooというムーブメントを考えるには、発端となったアメリカという国について考える必要があると思います。我々日本人から見るとアメリカという国は「自由、平等、人権」といったことに非常に意識が高い国のように見えます。確かに表面(タテマエ)上はアメリカはそういう国だということになっているのですが、一方で実態としてのアメリカにはいまだに人種差別は根深く残っています。これは奴隷と移民によってできたアメリカという国の成り立ちと不可分で、「忘れたいけどいつまでも忘れられない」「無くしたいけど無くならない」という病のようなものなんだと思います。
人種差別と並ぶアメリカの病としてアメリカン・ミソジニー(女嫌い)というのがあって、これもアメリカという国の成り立ちと深く関係しています。曰く、西部開拓時代のアメリカはあまりに危険すぎるので男女比が極端に非対称で女性があまりに少なかったらしいのです。この時代には、女性の伴侶を得ることが無いまま死んでいった男性がたくさんいたんだそうです。このような経緯で発展した結果、アメリカは「ミソジニー(女嫌い)」文化の国となった、というわけです。
このアメリカン・ミソジニーはまさかのヒラリークリントンの落選→トランプ当選という結果を招いた一因ではないかと言われています。上記の引用記事がどこまで本当かわかりませんが、アメリカ人男性の1/4は女性が大統領になることに対して「怒りを感じる」と答えたそうです。トランプの大逆転をもたらしたのはミソジニーだけでなく不法移民への差別感情など、アメリカ人の反知性主義的な本音を肯定して見せたことなんだと思います。そして、その後のトランプの暴走ぶりは、彼に投票したアメリカ人の本音をそのまま反映したものだとも言えるのでしょう。
さてここでMeTooの話なのですが。MeTooというムーブメントはトランプに象徴される反知性主義/幼稚な男性原理に対するカウンターなのではないでしょうか?極端に言うと、もしも大統領になったのがトランプではなくヒラリーだったら、MeTooというムーブメントは起きなかったかもしれません。河合隼雄が切断する父性、包含する母性と言っていたように、世界中の争いの大半はアホな男のつまんない意地の張り合いで出来ています。北朝鮮とアメリカの対立なんてその最たる物で、アホそうな男二人のせいで人類は再び核戦争の危機に瀕しているのです。MeTooはこういった男性原理による世界の分断に対するカウンターとして世界中に飛び火したのではないでしょうか。
最後に伊藤詩織さんの件について。
MeTooのムーブメントに少し先駆けて告発を行った伊藤詩織さんの事件は、MeTooの勢いもあってかNYタイムズの1面で取り上げられるなど、再び光が当たりはじめました。日本のマスコミはこの件をお得意の忖度によって本件についてはこれまでほぼ黙殺したままですが、海外メディアがこれだけ取り上げたことによって日本のマスコミや安倍政権も無視はできなくなると願います。
伊藤詩織さんの告発も安倍政権という反知性主義的な政治姿勢に対する女性からのカウンターであり、大局的にはMeTooと同じ文脈にあると思います。このような動きが世界中で同時多発的に発生していることは偶然ではなく、こういうところからトランプ政権や安倍政権のような反知性主義=幼稚な男性原理が沈静化していくことを願います。
本稿で言いたいことは、タイトルにもあるように、ここ最近盛り上がりを見せているMeTooのムーブメントは、反知性主義および幼稚な男性原理へのカウンターなのではないか?ということです。一応説明しておくと、MeTooというのはハリウッド業界人のセクハラ疑惑告発に端を発して、政治などあらゆる分野でのセクハラを告発するムーブメントです。
このMeTooというムーブメントを考えるには、発端となったアメリカという国について考える必要があると思います。我々日本人から見るとアメリカという国は「自由、平等、人権」といったことに非常に意識が高い国のように見えます。確かに表面(タテマエ)上はアメリカはそういう国だということになっているのですが、一方で実態としてのアメリカにはいまだに人種差別は根深く残っています。これは奴隷と移民によってできたアメリカという国の成り立ちと不可分で、「忘れたいけどいつまでも忘れられない」「無くしたいけど無くならない」という病のようなものなんだと思います。
人種差別と並ぶアメリカの病としてアメリカン・ミソジニー(女嫌い)というのがあって、これもアメリカという国の成り立ちと深く関係しています。曰く、西部開拓時代のアメリカはあまりに危険すぎるので男女比が極端に非対称で女性があまりに少なかったらしいのです。この時代には、女性の伴侶を得ることが無いまま死んでいった男性がたくさんいたんだそうです。このような経緯で発展した結果、アメリカは「ミソジニー(女嫌い)」文化の国となった、というわけです。
このアメリカン・ミソジニーはまさかのヒラリークリントンの落選→トランプ当選という結果を招いた一因ではないかと言われています。上記の引用記事がどこまで本当かわかりませんが、アメリカ人男性の1/4は女性が大統領になることに対して「怒りを感じる」と答えたそうです。トランプの大逆転をもたらしたのはミソジニーだけでなく不法移民への差別感情など、アメリカ人の反知性主義的な本音を肯定して見せたことなんだと思います。そして、その後のトランプの暴走ぶりは、彼に投票したアメリカ人の本音をそのまま反映したものだとも言えるのでしょう。
さてここでMeTooの話なのですが。MeTooというムーブメントはトランプに象徴される反知性主義/幼稚な男性原理に対するカウンターなのではないでしょうか?極端に言うと、もしも大統領になったのがトランプではなくヒラリーだったら、MeTooというムーブメントは起きなかったかもしれません。河合隼雄が切断する父性、包含する母性と言っていたように、世界中の争いの大半はアホな男のつまんない意地の張り合いで出来ています。北朝鮮とアメリカの対立なんてその最たる物で、アホそうな男二人のせいで人類は再び核戦争の危機に瀕しているのです。MeTooはこういった男性原理による世界の分断に対するカウンターとして世界中に飛び火したのではないでしょうか。
最後に伊藤詩織さんの件について。
MeTooのムーブメントに少し先駆けて告発を行った伊藤詩織さんの事件は、MeTooの勢いもあってかNYタイムズの1面で取り上げられるなど、再び光が当たりはじめました。日本のマスコミはこの件をお得意の忖度によって本件についてはこれまでほぼ黙殺したままですが、海外メディアがこれだけ取り上げたことによって日本のマスコミや安倍政権も無視はできなくなると願います。
伊藤詩織さんの告発も安倍政権という反知性主義的な政治姿勢に対する女性からのカウンターであり、大局的にはMeTooと同じ文脈にあると思います。このような動きが世界中で同時多発的に発生していることは偶然ではなく、こういうところからトランプ政権や安倍政権のような反知性主義=幼稚な男性原理が沈静化していくことを願います。
2018年1月1日月曜日
ネトウヨの歴史捏造は「歴史の二次創作」なんじゃないだろうか
僕は中学生の頃はそこそこの熱量のこもったアニオタでした。なので未だにBSやWOWOWなどでやってるアニメをたまに録画しては夜な夜な家族が寝静まった後にこっそり見ています。子供が生まれて以来、時間的余裕が減ってしまいましたが、それでもクールの変わり目には新番組をチェックして面白そうな気配のする作品があればとりあえず1話だけは録画してみます。その後2話以降も継続して見る作品はほとんど無いですが、それでも薄ぼんやりとはアニメの世界との繋がりは未だに残っています。
ここ数年の日本のアニメを見ていて目につくのが「史実からキャラクターや設定だけを取り出した二次創作」が市民権を得て、一つのジャンルとして定着していることです。具体的に自分が思いつく範囲でもこれだけあります。
・艦これ:太平洋戦争当時の日本の戦艦を美少女キャラに擬人化
・クラシカロイド:登場人物のモチーフがクラシックの作曲家
・文豪ストレイドッグス:登場人物のモチーフが過去の文豪
クラシカロイドやストレイドッグスは歴史上の作曲家や文豪のキャラが出てきて、たいてい必殺技は代表作の名前だったりします。例えば、ストレイドッグスに出てくる「芥川」の必殺技は「蜘蛛の糸」です。
こういう作品が出てきた背景は、アニメ界の重鎮の発言からも読み解けると思います。
庵野秀明:「自分たちはコピー世代」
宮崎駿:「庵野より若いのはコピーのコピーだ」
押井守:「アニメのほとんどはオタクの消費財と化し、コピーのコピーのコピーで『表現』の体をなしていない」
この文脈に沿って言うと、「史実からキャラクターや設定だけを取り出した二次創作」は「コピーのコピーのコピー」のさらに先の段階のように見えるのです。既存の作品と同じような要素(萌えだったり、格闘だったり、ロボットだったり)で構成されたコピーを作るにも、そうそう斬新な設定を考えつくわけでもないので、史実そっちのけで歴史をモチーフとしてだけ利用しているように思えるのです。
更に言うと、消費財としての「コピーのコピーのコピー」のアニメが次々に乱造される背景には「無理矢理にでも新しいものを作らないといけない」という強迫観念のようなものがあるように思います。これはアニメに限った話ではなく日本全体を覆っている病のようなものです。例えばパクチーが流行ったら「パクチーチョコレート」や「パクチーハンバーグ」等々の謎の商品がスーパーの店頭に並んでたりしますよね。僕が最近のアニメをとりあえず1話だけ録画してみても、その後見続けようと思えない原因もこれと同じなんじゃないかと思います。つまり、「これわざわざ新しく作る必要あったの?」と思えてしまうので、その後わざわざ録画してまで見ようという意欲を喚起しないのです。
さてここからようやく本稿の本題なのですが。「史実からキャラクターや設定だけを取り出した二次創作アニメ」と、ネトウヨによる「南京大虐殺は中国人が作った嘘」とか「慰安婦はただの売春婦だった」といったよくある歴史捏造はほとんどやってることが同じに見えるのです。両者に共通しているのは「史実を自分の都合の良いように改造することに躊躇が無い」ということなのだろうと思います。別の言い方をすると「事実や史実がどうであったかはあんまりどうでもよくて、自分に都合のいいように断片的な情報を再構成することに特に違和感を感じていない」のではないかと想像されます。
最近のNHKの大河ドラマも割とこの傾向が強くなってきていると思います。史実を無視して荒唐無稽な展開(例えば、信長の妻が本能寺で刀を振り回して信長と一緒に戦う)を平気で導入するようになりました。アニメや大河ドラマなどの”創作”であれば特に誰かが不利益を受けないのでしょうが、これと同じことを外交の場に持ち込むとさすがに問題になってしまいます。昨今の少女像や慰安婦問題に対する安倍政権の対応が国際社会から非難を浴びているのは、「都合の悪いことはうやむやにしたい」という歴史捏造/修正の意図があからさまに透けて見えているからなのではないでしょうか。
高校生の頃、僕の友達に同人誌をせっせと描いてるような女の子が何人かいました。彼女らのうち何人かはアニメのキャラクターやミュージシャンをモチーフにして、同性愛的な架空の漫画(所謂「やおい」と称されるものです)を描いてコミケに出しているような人でした。そのうちの一人が「『こんなことあるわけないよなー』って思いながら描くのが、楽しいんだよね」と少し自嘲的に笑いながら言っていたのを今でも覚えています。まだ、CGMなんていう言葉もなければインターネットも一般的ではなかった時代の話です。
現役でこの手の同人活動をやっている人と具体的な接点が無いので何とも言えないですが、少なくとも僕の高校時代の同級生は自分のやっていることが「社会に受け入れられない非現実的なファンタジー」であることにはちゃんと自覚があったと思います。別の言い方をすれば、現実社会と自分の脳内ファンタジーとの間でいくらかの葛藤があった末に「自分の願望は非現実的なファンタジーである」ということを認めて受け入れること、そしてその痛みを共有することが、少なくとも当時の同人ネットワークという社会の成員として認められる上での必須条件だったんだと思います。この点において、僕の高校時代の同級生の女の子は現代のネトウヨよりも大人だったと僕は思います。
ここ数年の日本のアニメを見ていて目につくのが「史実からキャラクターや設定だけを取り出した二次創作」が市民権を得て、一つのジャンルとして定着していることです。具体的に自分が思いつく範囲でもこれだけあります。
・艦これ:太平洋戦争当時の日本の戦艦を美少女キャラに擬人化
・クラシカロイド:登場人物のモチーフがクラシックの作曲家
・文豪ストレイドッグス:登場人物のモチーフが過去の文豪
クラシカロイドやストレイドッグスは歴史上の作曲家や文豪のキャラが出てきて、たいてい必殺技は代表作の名前だったりします。例えば、ストレイドッグスに出てくる「芥川」の必殺技は「蜘蛛の糸」です。
こういう作品が出てきた背景は、アニメ界の重鎮の発言からも読み解けると思います。
庵野秀明:「自分たちはコピー世代」
宮崎駿:「庵野より若いのはコピーのコピーだ」
押井守:「アニメのほとんどはオタクの消費財と化し、コピーのコピーのコピーで『表現』の体をなしていない」
この文脈に沿って言うと、「史実からキャラクターや設定だけを取り出した二次創作」は「コピーのコピーのコピー」のさらに先の段階のように見えるのです。既存の作品と同じような要素(萌えだったり、格闘だったり、ロボットだったり)で構成されたコピーを作るにも、そうそう斬新な設定を考えつくわけでもないので、史実そっちのけで歴史をモチーフとしてだけ利用しているように思えるのです。
更に言うと、消費財としての「コピーのコピーのコピー」のアニメが次々に乱造される背景には「無理矢理にでも新しいものを作らないといけない」という強迫観念のようなものがあるように思います。これはアニメに限った話ではなく日本全体を覆っている病のようなものです。例えばパクチーが流行ったら「パクチーチョコレート」や「パクチーハンバーグ」等々の謎の商品がスーパーの店頭に並んでたりしますよね。僕が最近のアニメをとりあえず1話だけ録画してみても、その後見続けようと思えない原因もこれと同じなんじゃないかと思います。つまり、「これわざわざ新しく作る必要あったの?」と思えてしまうので、その後わざわざ録画してまで見ようという意欲を喚起しないのです。
さてここからようやく本稿の本題なのですが。「史実からキャラクターや設定だけを取り出した二次創作アニメ」と、ネトウヨによる「南京大虐殺は中国人が作った嘘」とか「慰安婦はただの売春婦だった」といったよくある歴史捏造はほとんどやってることが同じに見えるのです。両者に共通しているのは「史実を自分の都合の良いように改造することに躊躇が無い」ということなのだろうと思います。別の言い方をすると「事実や史実がどうであったかはあんまりどうでもよくて、自分に都合のいいように断片的な情報を再構成することに特に違和感を感じていない」のではないかと想像されます。
最近のNHKの大河ドラマも割とこの傾向が強くなってきていると思います。史実を無視して荒唐無稽な展開(例えば、信長の妻が本能寺で刀を振り回して信長と一緒に戦う)を平気で導入するようになりました。アニメや大河ドラマなどの”創作”であれば特に誰かが不利益を受けないのでしょうが、これと同じことを外交の場に持ち込むとさすがに問題になってしまいます。昨今の少女像や慰安婦問題に対する安倍政権の対応が国際社会から非難を浴びているのは、「都合の悪いことはうやむやにしたい」という歴史捏造/修正の意図があからさまに透けて見えているからなのではないでしょうか。
高校生の頃、僕の友達に同人誌をせっせと描いてるような女の子が何人かいました。彼女らのうち何人かはアニメのキャラクターやミュージシャンをモチーフにして、同性愛的な架空の漫画(所謂「やおい」と称されるものです)を描いてコミケに出しているような人でした。そのうちの一人が「『こんなことあるわけないよなー』って思いながら描くのが、楽しいんだよね」と少し自嘲的に笑いながら言っていたのを今でも覚えています。まだ、CGMなんていう言葉もなければインターネットも一般的ではなかった時代の話です。
現役でこの手の同人活動をやっている人と具体的な接点が無いので何とも言えないですが、少なくとも僕の高校時代の同級生は自分のやっていることが「社会に受け入れられない非現実的なファンタジー」であることにはちゃんと自覚があったと思います。別の言い方をすれば、現実社会と自分の脳内ファンタジーとの間でいくらかの葛藤があった末に「自分の願望は非現実的なファンタジーである」ということを認めて受け入れること、そしてその痛みを共有することが、少なくとも当時の同人ネットワークという社会の成員として認められる上での必須条件だったんだと思います。この点において、僕の高校時代の同級生の女の子は現代のネトウヨよりも大人だったと僕は思います。
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