2018年1月3日水曜日

MeTooは反知性主義=幼稚な男性原理へのカウンターに見える

2018年になりました。今年の正月は10連休なのですが、本日は早くもその折り返し点にあたります。これだけ長く休むとだんだん休みそのものにも飽きてくるのですが、かといって会社に行きたいかと言うとそういうわけでもない。。という正月休みを過ごしています。そんなこんなで、とりあえず長期休暇恒例の「いつか書こうと思ってたけど面倒くさそうだから二の足を踏んでいた話」を一つ書いてみようと思います。
本稿で言いたいことは、タイトルにもあるように、ここ最近盛り上がりを見せているMeTooのムーブメントは、反知性主義および幼稚な男性原理へのカウンターなのではないか?ということです。一応説明しておくと、MeTooというのはハリウッド業界人のセクハラ疑惑告発に端を発して、政治などあらゆる分野でのセクハラを告発するムーブメントです。

このMeTooというムーブメントを考えるには、発端となったアメリカという国について考える必要があると思います。我々日本人から見るとアメリカという国は「自由、平等、人権」といったことに非常に意識が高い国のように見えます。確かに表面(タテマエ)上はアメリカはそういう国だということになっているのですが、一方で実態としてのアメリカにはいまだに人種差別は根深く残っています。これは奴隷と移民によってできたアメリカという国の成り立ちと不可分で、「忘れたいけどいつまでも忘れられない」「無くしたいけど無くならない」という病のようなものなんだと思います。
人種差別と並ぶアメリカの病としてアメリカン・ミソジニー(女嫌い)というのがあって、これもアメリカという国の成り立ちと深く関係しています。曰く、西部開拓時代のアメリカはあまりに危険すぎるので男女比が極端に非対称で女性があまりに少なかったらしいのです。この時代には、女性の伴侶を得ることが無いまま死んでいった男性がたくさんいたんだそうです。このような経緯で発展した結果、アメリカは「ミソジニー(女嫌い)」文化の国となった、というわけです。

このアメリカン・ミソジニーはまさかのヒラリークリントンの落選→トランプ当選という結果を招いた一因ではないかと言われています。上記の引用記事がどこまで本当かわかりませんが、アメリカ人男性の1/4は女性が大統領になることに対して「怒りを感じる」と答えたそうです。トランプの大逆転をもたらしたのはミソジニーだけでなく不法移民への差別感情など、アメリカ人の反知性主義的な本音を肯定して見せたことなんだと思います。そして、その後のトランプの暴走ぶりは、彼に投票したアメリカ人の本音をそのまま反映したものだとも言えるのでしょう。
さてここでMeTooの話なのですが。MeTooというムーブメントはトランプに象徴される反知性主義/幼稚な男性原理に対するカウンターなのではないでしょうか?極端に言うと、もしも大統領になったのがトランプではなくヒラリーだったら、MeTooというムーブメントは起きなかったかもしれません。河合隼雄が切断する父性、包含する母性と言っていたように、世界中の争いの大半はアホな男のつまんない意地の張り合いで出来ています。北朝鮮とアメリカの対立なんてその最たる物で、アホそうな男二人のせいで人類は再び核戦争の危機に瀕しているのです。MeTooはこういった男性原理による世界の分断に対するカウンターとして世界中に飛び火したのではないでしょうか。

最後に伊藤詩織さんの件について。
MeTooのムーブメントに少し先駆けて告発を行った伊藤詩織さんの事件は、MeTooの勢いもあってかNYタイムズの1面で取り上げられるなど、再び光が当たりはじめました。日本のマスコミはこの件をお得意の忖度によって本件についてはこれまでほぼ黙殺したままですが、海外メディアがこれだけ取り上げたことによって日本のマスコミや安倍政権も無視はできなくなると願います。
伊藤詩織さんの告発も安倍政権という反知性主義的な政治姿勢に対する女性からのカウンターであり、大局的にはMeTooと同じ文脈にあると思います。このような動きが世界中で同時多発的に発生していることは偶然ではなく、こういうところからトランプ政権や安倍政権のような反知性主義=幼稚な男性原理が沈静化していくことを願います。


2018年1月1日月曜日

ネトウヨの歴史捏造は「歴史の二次創作」なんじゃないだろうか

僕は中学生の頃はそこそこの熱量のこもったアニオタでした。なので未だにBSやWOWOWなどでやってるアニメをたまに録画しては夜な夜な家族が寝静まった後にこっそり見ています。子供が生まれて以来、時間的余裕が減ってしまいましたが、それでもクールの変わり目には新番組をチェックして面白そうな気配のする作品があればとりあえず1話だけは録画してみます。その後2話以降も継続して見る作品はほとんど無いですが、それでも薄ぼんやりとはアニメの世界との繋がりは未だに残っています。
ここ数年の日本のアニメを見ていて目につくのが「史実からキャラクターや設定だけを取り出した二次創作」が市民権を得て、一つのジャンルとして定着していることです。具体的に自分が思いつく範囲でもこれだけあります。
・艦これ:太平洋戦争当時の日本の戦艦を美少女キャラに擬人化
・クラシカロイド:登場人物のモチーフがクラシックの作曲家
・文豪ストレイドッグス:登場人物のモチーフが過去の文豪
クラシカロイドやストレイドッグスは歴史上の作曲家や文豪のキャラが出てきて、たいてい必殺技は代表作の名前だったりします。例えば、ストレイドッグスに出てくる「芥川」の必殺技は「蜘蛛の糸」です。

こういう作品が出てきた背景は、アニメ界の重鎮の発言からも読み解けると思います。
庵野秀明:「自分たちはコピー世代」
宮崎駿:「庵野より若いのはコピーのコピーだ」
押井守:「アニメのほとんどはオタクの消費財と化し、コピーのコピーのコピーで『表現』の体をなしていない」
この文脈に沿って言うと、「史実からキャラクターや設定だけを取り出した二次創作」は「コピーのコピーのコピー」のさらに先の段階のように見えるのです。既存の作品と同じような要素(萌えだったり、格闘だったり、ロボットだったり)で構成されたコピーを作るにも、そうそう斬新な設定を考えつくわけでもないので、史実そっちのけで歴史をモチーフとしてだけ利用しているように思えるのです。
更に言うと、消費財としての「コピーのコピーのコピー」のアニメが次々に乱造される背景には「無理矢理にでも新しいものを作らないといけない」という強迫観念のようなものがあるように思います。これはアニメに限った話ではなく日本全体を覆っている病のようなものです。例えばパクチーが流行ったら「パクチーチョコレート」や「パクチーハンバーグ」等々の謎の商品がスーパーの店頭に並んでたりしますよね。僕が最近のアニメをとりあえず1話だけ録画してみても、その後見続けようと思えない原因もこれと同じなんじゃないかと思います。つまり、「これわざわざ新しく作る必要あったの?」と思えてしまうので、その後わざわざ録画してまで見ようという意欲を喚起しないのです。

さてここからようやく本稿の本題なのですが。「史実からキャラクターや設定だけを取り出した二次創作アニメ」と、ネトウヨによる「南京大虐殺は中国人が作った嘘」とか「慰安婦はただの売春婦だった」といったよくある歴史捏造はほとんどやってることが同じに見えるのです。両者に共通しているのは「史実を自分の都合の良いように改造することに躊躇が無い」ということなのだろうと思います。別の言い方をすると「事実や史実がどうであったかはあんまりどうでもよくて、自分に都合のいいように断片的な情報を再構成することに特に違和感を感じていない」のではないかと想像されます。
最近のNHKの大河ドラマも割とこの傾向が強くなってきていると思います。史実を無視して荒唐無稽な展開(例えば、信長の妻が本能寺で刀を振り回して信長と一緒に戦う)を平気で導入するようになりました。アニメや大河ドラマなどの”創作”であれば特に誰かが不利益を受けないのでしょうが、これと同じことを外交の場に持ち込むとさすがに問題になってしまいます。昨今の少女像や慰安婦問題に対する安倍政権の対応が国際社会から非難を浴びているのは、「都合の悪いことはうやむやにしたい」という歴史捏造/修正の意図があからさまに透けて見えているからなのではないでしょうか。

高校生の頃、僕の友達に同人誌をせっせと描いてるような女の子が何人かいました。彼女らのうち何人かはアニメのキャラクターやミュージシャンをモチーフにして、同性愛的な架空の漫画(所謂「やおい」と称されるものです)を描いてコミケに出しているような人でした。そのうちの一人が「『こんなことあるわけないよなー』って思いながら描くのが、楽しいんだよね」と少し自嘲的に笑いながら言っていたのを今でも覚えています。まだ、CGMなんていう言葉もなければインターネットも一般的ではなかった時代の話です。
現役でこの手の同人活動をやっている人と具体的な接点が無いので何とも言えないですが、少なくとも僕の高校時代の同級生は自分のやっていることが「社会に受け入れられない非現実的なファンタジー」であることにはちゃんと自覚があったと思います。別の言い方をすれば、現実社会と自分の脳内ファンタジーとの間でいくらかの葛藤があった末に「自分の願望は非現実的なファンタジーである」ということを認めて受け入れること、そしてその痛みを共有することが、少なくとも当時の同人ネットワークという社会の成員として認められる上での必須条件だったんだと思います。この点において、僕の高校時代の同級生の女の子は現代のネトウヨよりも大人だったと僕は思います。

2017年12月17日日曜日

2017年のノーベル賞

もう気が付けば7年くらいtwitterをやっています。twitterをやっている人はほとんど同意すると思うのですが、twitterは嗜好ないし志向が近い人同志だけを遠心分離して閉じたコミュニケーションを生成する傾向が強いツールだと思うのです。例えば、ここ数年の僕のTLを見てると選挙の前には「さすがにそろそろ安倍政権は大敗してリベラル派が盛り返すだろう」と期待してしまうのですが、実際にテレビなどの日本のメディアを通して選挙の結果を見るとtwitterとのギャップにがっかりすることになります。
今回のノーベル賞に対する反応も日本のテレビメディアと僕のTLではものすごい温度差がありました。これを書いている現在は、2017年のノーベル賞の授賞式典が終わった後です。この記事が読まれるのが何年も後になる可能性も考慮して一応説明しておきますと、この年のノーベル平和賞にICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)、ノーベル文学賞にカズオ・イシグロが選ばれました。この両者のノーベル賞受賞に対して、僕のtwitterのTLは立憲民主党ができたとき以来久しぶりの「明るいニュース」に沸き立っているように見えました。一方でテレビを中心とする日本メディアの反応はかつて見たことのないくらい「薄っぺらく乗っかってる」ように見えました。
例えば、日本国籍を放棄してアメリカに渡った中村修二(青色ダイオードの発明者)のような人でさえ、ノーベル賞を受賞した際には日本のメディアは「日本人がノーベル賞受賞」と言って、今回よりもっとはしゃいでいたように思います。当の中村氏は日本の社会に対して散々批判した上で日本を見限ってアメリカに行ったのですが、それでもお構いなしに日本のメディアははしゃいでるように見えました。それに比べると今回の日本メディアの反応はどこかぎこちなさを禁じ得ませんでした。

まず、カズオ・イシグロについて。彼は見た目はかなり日本人に見えますし、名前は日本人らしい名前ですが、それ以外は国籍から生育環境、言語まで含めてほぼイギリス人と言ってよいでしょう。とりあえずカズオ・イシグロについては日本のメディアもある程度は乗っかってはいるみたいです。が、その多くはカズオ・イシグロの日本に対する好意的なコメントを切り貼りして垂れ流しているだけに見えます。
彼に対する日本人の微温的な態度は、例えて言うなら「外国のオリンピック代表に日系人がいた」というのと似たような話なんだと思います。見た目は日本人っぽいのでちょっと気になるけど、積極的に感情移入して応援するかというとそうでもない…例えばフィギュアスケートの長洲未来(両親は日本人だけどアメリカ代表)は丁度カズオ・イシグロと同じようなポジションにいると思います。
一方では、カズオ・イシグロと真逆のポジションにはオコエ・瑠偉、サニブラウン・ハキーム、ケンブリッジ・飛鳥、ベッキー、マーク・パンサー(もっと他にも例があるはずなんだけどな。。)などがいます。彼らの見た目や名前は普通の日本人とは異質ですが、生育環境や言語については普通の日本人と言ってよいでしょう。どっちかと言われたら、カズオ・イシグロよりはこちらのカテゴリに対しては日本人は距離感が近く感じるんだと思います。これはおそらく、彼らが「日本語が喋れて日本人と同じ文化背景を共有できているように思える」からなんだろうと思います。

そして。ICANですが。ICANについては日本のテレビはほぼスルーしているようです。ICANの授賞式でのサーロー・節子さんのスピーチは非常に素晴らしいものでしたが、NHKは授賞式のスピーチを放映しなかったそうです。日本生まれの人が世界に向けてあんな立派なスピーチをしたのだから、こういう時こそ乗っかって「日本スゴイ」ではしゃげばいいと思うのですけどね。残念ながらICANの受賞はカズオ・イシグロより扱いが悪いようです。
日本のテレビメディアがICANの件をほぼスルーしているのは、現政権が核兵器廃絶条約に対して後ろ向きであることが直接の原因ではあるのでしょう。しかし、それを差し引いても、おそらく日本人にとってICANの受賞に万歳三唱ではしゃぐようなことはできなかっただろうと思います。これを一番適切に説明していると思うのは、内田先生の靖国論なのではないかと思うので、今回はこれを下敷きに僕なりの見解を述べることにします。
日本は第二次世界大戦での大敗の後の東京裁判によって、
・被害者としての立場をアメリカに対して主張する権利を放棄して半永久的にアメリカの従属国となる
・侵略国としてアジアの隣国(とりわけ中国と韓国)に対して半永久的に「謝罪」の姿勢を示し続ける
という二つの責務を負わされました。しかし、この二つの責務は重すぎるので、「アメリカに対して被害者としての権利を放棄するから、その代わり、アジア諸国への加害者としての責任は免除してほしい」と、多くの日本人は内心思っていました。ネトウヨが判で押したように対米従属には異論を唱えない(あれだけトランプが酷くても)一方で、慰安婦問題については歴史を捏造したり慰安婦に罵詈雑言を浴びせることに必死になるのは、まさにこの「被害者としての権利を放棄して従属する代わりに加害者としての責任を免除されたい」という本音をそのまま体現しているからでしょう。しかしながら、そう都合よくアジア諸国が簡単に加害責任の追及をやめてくれるなんてことは当然ありませんので、ご存知の通り少女像問題への対応について昨今国際的な非難を浴びているわけです。
こんな状況下で行われたサーロー節子さんのスピーチは、アメリカという父に従属する際に放棄した「被害者としての我々日本人」の立場を世界に向けて発信しました。すべての日本人にとって、アメリカという父によって抑圧されてきた「被害者の立場」を今更引っ張りだされること自体がどうしても重荷なんだと思います。スピーチに対して好意的な印象を持った僕でさえも、「被害者としての立場」を持ち出された事自体には何かしらの重苦しさを禁じえませんでした。そして、これを持ち出される事はネトウヨにとってはより切実な問題なんだろうと思います。なぜなら、「被害者としての権利を放棄する代わりに加害責任を免除されたい」という自身の主張の正当性(と彼らが思っているであろうもの)を担保するものが揺らいでしまうので、困るわけです。実際にtwitterを「ICAN 反日」で検索すると、ネトウヨがICANに対して「ICANは反日」キャンペーンをせっせとやっているのが分かります。

今回のノーベル賞は、二件まとめて考えると現在の日本の在り方について国際社会から問いを投げかけられた形になったのではないかと思います。カズオ・イシグロの受賞は「もし彼が普通に日本の社会システムの中で育っていたとして、ノーベル賞を受賞するほどの世界的な作家になれたか?」という問いを投げかけているように思います。そしてICANの受賞は、「日本人は終わったことにして忘れようとしているけど、まだ戦後は続いている」という事実を日本人に突き付けたのではないでしょうか。

2017年12月3日日曜日

貴乃花親方の抱えていいる病のようなものについて

これを書いている現在は、「日馬富士の引退会見から一日明けたけど、いまだにテレビは執拗にこの問題を報じている」という状況です。この問題にこれだけテレビが血道をあげて騒いでいるのは、国会やモリカケ問題などをマスキングする意図があるんだろうとは思いますが。この件に関しては、ここ数年日本に慢性化している「正義を振りかざしたメディアによるリンチ」に国民全体がある程度同調して乗ってきているようにも見えます。
というのも、今回の件では登場人物全員が「やんわりと悪者」として扱われています。暴行事件の当事者であるモンゴル人力士はもちろんのこと、貴乃花親方の対応にも批判が集まっています。平成の若貴ブーム当時は貴乃花親方は常にワイドショーの常連だったので、貴乃花親方が連日テレビを賑わせている姿には既視感を禁じ得ない人も多いのではないでしょうか。たぶん、当の貴乃花親方自身もある程度その自覚はあるんだろうと思います。
貴乃花親方の立ち振る舞いを見ていると、どうしてもここ数年日本に暗い影を落としている「反知性主義」の典型例のように見えるのですが。貴乃花親方の反知性主義は、その「純度」のようなものにおいて橋下徹とか安倍晋三よりもはるかにタチが悪いんじゃないかと思うのです。例えば、安倍晋三はともかく、少なくとも橋下徹は自分の邪悪さについてある程度は考量できる能力がありそうに見えますが。貴乃花親方は「自分の邪悪さについて検討する」というような習慣とこれまで一度も縁が無かったんじゃないかと思えてしまうのです。つまり、彼は「自分は正義だと信じて疑っていない人」に見える…それをさらに簡単な一言でいうと「でっかい子供」なんだかと思います。

貴乃花親方について考えるにあたって、まず彼が親方になった経緯から振り返ってみましょう。貴乃花は引退後も現役時代の四股名のまま親方になれる”一代年寄”として親方になりました。この一代年寄という制度は特別な功労者にしか与えられない特権で、過去を振り返っても大鵬、北の湖、千代の富士、貴乃花くらいにしか制度適用対象になっていないそうです。なぜこの話を持ち出すかと言うと、この経緯が彼の有り様に大きな影響を与えているように思えてならないのです。
通常、相撲の親方になるには年寄株という「親方になる権利」を手に入れなければなりません。この年寄株と親方としての名前が対応しているので、引退した力士は親方になるにあたって、「ナントカ親方」という名前に変わるわけです。これは昔の人が出世すると立場に応じて名前を改めていたのと同じような話なのですが。立場とともに名前が変わることは、役割に相当した立ち振る舞いをする、つまり"成熟"を促す上で意味があるんだと思います。
貴乃花親方に明らかに欠けているものの一つは、こういうプロセスを経てもたらされるべき”成熟”なのではないでしょうか。もしも彼が親方になるにあたって名前が変わってたら、今回の貴の岩暴行事件に対してもう少しマトモな対応ができたんじゃないかと思います。例によってこのあたりで僕が言いたいことは内田先生の受け売りなので、それについて言及しているサイトから引用してみます。
武士の場合は元服したら名前を換えますし、商人でも屋号のある場合は「第10代なんとかざえもん」というように社会的立場を表す名前になります。
これらの名前はその人の個性や独自性よりはむしろ非個性、代替可能性を示しています。つまり今聞くと大変不思議なことですけれど、「余人を以て換えることができる」というのが伝統的には成人=社会人の条件だったのです。
でも、これは卓見ですね。
「余人を以て換えることのできる人間になる」ことをめざす自己形成って。
これって言い換えると「自己評価と外部評価の乖離がなくなった状態」ということですからね。それが「大人の条件」である、というのはよくできた話です。

大相撲の世界は未だに一般常識からかけ離れた不条理や不合理が横行していて、叩けばいくらでも埃が出てくる。勿論それらは”良い”わけではない。だからといって、いきなり改革しようとすることは大相撲自体を壊しかねない。大相撲というシステムを改革するためには、「性急な改革を叫びたいのを自制しつつ、現存するシステムと折り合いながらどうダメな部分を変えていくかを考える」という手順を踏む必要があるんだろうと思うのですが。貴乃花親方はこういう姿勢を徹底的に拒否しています。相撲協会との話し合いを一切拒絶して、「診断書」や「警察への被害届」など「相撲界の外側の一般社会の規範」によってのみ自分の立場を正当化しようとしています。
これは「僕ちゃんの正義の中に閉じこもりたがる子供」の態度そのものだと思います。「大相撲の伝統」というのは良くも悪くも一般社会の常識と乖離していることと不可分であり、大相撲を監督する立場に立つ「親方」には、異界のルールの範囲内で異界を統べることがまず必要なのだと思うのですが。今回の貴乃花親方の対応を見ていると、彼にはその資質が無い、というより、そもそも異界のルールに最初から付き合う気がないように見えるのです。

時津風部屋での暴行死亡事件以降、朝青龍の暴行事件や八百長騒動など、今回と同じようなレベルでの騒動が度々発生してきましたが。このような騒動が起こる度に安易に「一般社会の常識」の観点から大相撲を批判することは、結果として大相撲を国技たらしめている「強さの幻想」をどんどん損なっているように思います。これを繰り返していくと、大相撲は「単なる普通のスポーツ」に少しずつ漸近していくのではないでしょうか。
やや脱線しますが、力士の髷は「人ならざる者」であることの象徴であり、それ故に彼らは常人の世界観から逸脱した「強さ」という幻想を背負っているわけです。例えば、朝青龍が「腰の骨が折れている」と言って休場している間にモンゴルでサッカーをやっていて問題になったことがありましたが。「朝青龍は腰の骨が折れていてもサッカーができるほど強い」くらいに考える方が、彼らの背負っている幻想に対しては誠意のある態度なんじゃないかと僕は思います。貴の岩の件に関しても「力士は強いんだから、ビール瓶で殴られたくらい大丈夫」と、やせ我慢でもいいから言って見せるのが相撲の親方としてあるべき姿なのではないでしょうか。

貴乃花親方の今回の件に関する一連の立ち振る舞いは、フロイド的な観点からは「『大相撲という父』に対する父殺し」という風に読めると思うのですが。これについて書こうとしたらまとまりがなくなってしまったのでまたの機会に。。
最後に故・ナンシー関の昔のコラムから引用しておきます。
まるで大河ドラマのように進んでいく「花田家物語」である。しかし、どうもこの「物語」は違うのではないか、という気がしないだろうか。世間が、好意的に読んであげすぎるような気がする。二人の初土俵の時、こっそり柱の陰からおかみさんが見守るのはいいんだけど、おかみさんのすぐ後ろにテレビがいる。おかみさんナメの土俵とか撮っているし。あと「仲よし兄弟」もいい話だけど、新婚の兄の構えた同じマンションの真下に弟も引っ越してくるって、ものすごくへんである。仲よし、で済む話か?あそこの家、へんだ。
確かに今にして思えばへんだった。。この牧歌的な時代の後、貴乃花親方は謎の整体師に洗脳されたり、「若乃花の相撲には基本がない」と言いだしたり、徐々にダークサイドへ落ちていきました。そしてついに今回の事件で完全にヒール(悪役)のポジションに辿り着きました。「花田家物語」という大河ドラマは、若貴フィーバー当時には誰も予測しなかった展開を迎えています。

2017年11月11日土曜日

なぜグルメ番組はタレントの食レポを必要とするか?

小さい子供がいるということは、親の行動にも色々な制約がついてまわるものでして。たとえば、我が家では昔は冬場に週2回くらいの頻度で夕食のメニューが鍋でした。しかし、子供が生まれて以来、危ないので鍋をやる機会がめっきりなくなってしまいました。また、食べ物つながりで言うと、外食でカウンターしかないラーメン屋とかに行くのはまず無理ですし、子供が食べれないエスニック料理とかも行く機会がありません。
そんなこんなで、たまに出張先で自分ひとりでラーメン屋に入ったりすると、もうそれだけでもちょっと楽しかったりするものでして。先日も出張に行った先でGoogleで適当に検索してラーメン屋に入ってみたのですが。そこの店はよくある「壁一面に芸能人のサインや写真が並んでいる店」でした。そして、店の一番目立つところに地元のテレビ局がやっているグルメ情報番組が取材に来たときの写真が飾られていました。

たぶん全国どこいっても同じなんだと思いますが、ローカルのテレビ局ってグルメ番組に力を入れてますよね。理由は自明で、東京のキー局が垂れ流してくる東京のグルメ情報よりも、身近に行ける地元のグルメ情報の方が地元の人にとっては価値があるからなんでしょう。そういった地域情報こそがローカル局の存在意義であるとさえ言えるかもしれません。
で、このローカル局のグルメ番組の食レポ担当のタレントなんですが。売り出し中の若手だったり、昔そこそこ売れたけど落ち目になったベテランだったりと、まぁ色々なんですが。さすがにローカルのテレビ局なので売れっ子の芸能人は出てきません。そして、だいたいがお笑い芸人です。想像するに、お笑い芸人は食レポの合間にネタを盛り込んだりして尺を持たせてくれるのでテレビ局としても都合が良いのかもしれないですね。
ただし、食レポ担当のお笑い芸人も毎回目新しいことをやるのは難しいので、たいていテンプレート化された定番ネタを再利用するスタイルが多いのです。見てるこっちも正直なところそんなに面白くも無いし何度も見飽きたテンプレを繰り返されると見ててイラっときたりもするのですが。でもこのお笑い芸人による食レポというのは、何年かおきに芸人が変わるものの、ここ10年くらいは磐石のフォーマットとして定着した感があります。

で、ようやく本題なのですが。なぜテレビのグルメ番組は食レポ担当のタレントが必要なんでしょうかね?考えようによっては美味しそうな食べ物だけ映しておけば十分のような気がするのですが。やっぱり食レポのタレントが実際に食べる絵を流さないとグルメ番組というのは成立しない。たとえ合間に見飽きたテンプレのネタを挟まれることになっても、それでもなお、グルメ番組はやはり食レポを必要とする。これってよくよく考えれば不思議なことですよね。
僕が知る限りでこれに対して一番妥当な説明はラカンの「欲望は、他者の欲望である。」なんじゃないかと思うのです。ここでラカンの言ってることのうちのひとつは、「我々は自分にオリジナルな欲望というものを持つことができない」ということで。ベタな具体例を出すと、他人の持ってるものが欲しくなったり、他人の食べてるものが美味しそうにみえる…といったことをこの言葉は指摘しています。グルメ番組は美味しそうな物を食べてみせる食レポ担当の芸能人無しに成立しないのは、たぶんラカンのこの説明が適用される事例のひとつなんでしょう。

しかし、上記のラカンの言葉は単純に「他人のものが欲しくなる」ということだけを言っているわけではなくて、さらに深いところで「人間は自分だけにオリジナルな欲望の理由を持つことができない」ということに言及しています。これについてはちょっと複雑なので上記の斎藤環のテキストを引用してみます。「なぜ自分はこれが好きなのかをどうやって説明するか?」という文脈で、このようなことが書かれています
説明を放棄するか、他人の欲望をもってくるか、そのものの特徴を語るか。でも実は、特徴を語る人も、つまるところは他人の欲望を持ってきているわけで。スペックの比較って、そういうことでしょう? こういう価値判断の評価って、つまりは欲望のモノサシとして、みんなに共有されているわけです。その典型が「価格」、すなわち貨幣価値ね。こっちはこっちで、ややこしい議論がいっぱいあるわけだけれど。つまり、どんな人でも自分の欲望を説明するには、他人の尺度を持ってくるしかないのだ。ということは、要するに、誰にも自分の欲望について、「自分だけの理由」を説明することは不可能、ってこと

この説明が適用されるべき具体例として「クイズ番組はなぜ回答者が必要なのか」について考えてみることにします。地デジ以降のテレビは双方向化されているので、クイズ番組は回答者の芸能人を排除して、テレビの前の視聴者の参加だけで番組を成立させられそうな気もするのですが。それだけで一時間の尺を持たせられるようなテレビ番組が現実には存在しないですよね。
故ナンシー関はクイズ番組が成立する原則を「正解の絶対快楽性」と言ってましたが、その快楽はテレビの画面内の回答者との相対的な比較に裏打ちされて成立しているんだと思います。つまり、「あの人が正解できなかった問題を正解した」とか「あの人でも正解できる問題を正解できなかった」といったことを繰り返して、「テレビの中の回答者」という他者との相対的な関係があるからこそ、視聴者は自分が正解したときに快楽を得られるのではないでしょうか。
だから全問正解するクイズ王みたいな人ばっかり画面に並べてもクイズ番組としてはたぶん何一つ面白くないんだろうと思います。そしてこれは、スベったりほとんど正解しない回答者(野々村真とか井森美幸のポジション)がなぜクイズ番組に不可欠であるかという理由でもあると思います。

2017年10月15日日曜日

北朝鮮に対して軍事力は何の抑止力にもならない

衆議院選挙の投票日の一週間前となりました。あんまり悲観的なことは言いたくないのですが、自民を中心に改憲勢力が優勢という予測が立っているそうです。相次ぐ不祥事に「丁寧に説明する」とか言ってたくせに一切の説明責任から逃げるように解散した安倍政権に投票できるセンスが僕には全く理解できないのですが。
twitterを見てたら津田大介がこういうことを言ってるのを見つけました。
知人の奥さん(アラサー)は「今回は自民党入れる。北朝鮮恐いから」と。知人が「むしろ、北朝鮮情勢悪化させるのでは?」と諭したところ「野党なら何もやらない。それよりかはマシ」という理由みたい。そういう理由で自民を支持する人は結構多いんだろう。結局テレビが最強のアシストしてるんだよね。
全員が全員というわけではないんでしょうが、自民党に投票する人ってたぶんこういう人達なんでしょうね。たぶんこういう人の方がこの国では僕より幸せに生きていけるんだろうなと思います。とはいえ、ちょっとさすがにそれはナイーブ過ぎないですか?と思うので、選挙の結果が出る前にこれについて思うところを書き連ねておきたいと思います。

結論から申し上げると、日本は北朝鮮情勢に対して与えられる影響はごく僅かなんじゃないかと思います。しかも、この「僅か」に含まれるのは経済制裁や対話などの外交的な努力であって、日本の軍事力を増強することはおそらく何の意味も成さないと思います。
だいたい北朝鮮は世界一の軍事大国であるアメリカ相手に徴発を行っている国なのです。その立場について真剣に想像してみてください。北朝鮮だって、アメリカがその気になれば自国を一瞬で焦土にできることくらいは重々承知の上でやっているわけです。ここで日本が今更軍事力を少々増強したところで、アメリカに比べたらどんぐりの背比べレベルの差分でしかないですよね?それが北朝鮮に対して何か意味のある抑止力になると思いますか?
件の津田大介のtweetに登場する人は「軍事的なオプションをチラつかせれば北朝鮮への抑止力になると思いたい」のでしょうが。ここまで述べたように軍事力の増強は北朝鮮に対して何ら効果的な対策にはなりません。そして、僅かながら意味がありそうな外交について安倍政権はトランプに追従して対話を拒否する姿勢を見せています。つまるところ、安倍政権は状況を悪化させているだけではないか?という津田大介の指摘は妥当だと思います。

よく、「9条があるから日本は北朝鮮にナメられるんだ」とか、「北朝鮮に対する抑止力となるために、日本も核武装すべきだ」とか言う人がいらっしゃるのですが。彼らの言ってることは「北朝鮮が合理的な思考に基づいて立ち振る舞いを決定すること」が大前提になっています。ここに重大なピットフォールがあるのではないでしょうか?
北朝鮮は、少なくとも表面的な態度としては、狂人として振舞うことを自身に課しています。この狂人としての立ち振る舞いの鮮度を劣化させずに、程々の緊張を保ち続けることでこれまで彼らは生きながらえてきました。だって、「北朝鮮は何をしでかすか分からない」と相手に思い込ませ続けないと挑発には価値が無いですからね。
以上より、仮に9条が無くなろうが日本が核武装しようが、それが北朝鮮の態度を軟化させることに貢献するとは期待できないんじゃないでしょうか?狂人として振舞うことを自身に課している以上、一度でもマトモな対応をしてしまうとこれまでの努力が無駄になってしまいます。だから、北朝鮮は日本が軍備を増強したら間違いなく挑発行為をエスカレートさせる方向に舵を切るでしょう。というより、彼らだってそうせざるを得ないのです。

以上申し上げたことは「ちょっと考えれば自明なこと」だと思います。しかし、残念ながら日本では自分はマイノリティなんであろうこともなんとなく分かります。なんでこうなるかというと、残念ながら「この国では自分の頭で考える気の無い人がマジョリティになってしまった」からなんだろうと思います。
北朝鮮関連のニュースになると、日本のテレビでは判で押したように「ロケット、軍事パレード、拍手するカリアゲの将軍様、勇ましくニュースを読み上げるチマチョゴリのニュースキャスター」だけが出てきますが。こういった安倍政権とマスコミによる北朝鮮についての印象操作は「北朝鮮=核実験、ミサイル=何を考えているか分からない怖い人達」という図式だけを刷り込んで、「もうとにかく訳のわからない狂人が恐いから、とりあえず軍備を増強しよう」という方向に日本人のマジョリティを誘導してしまったように見えます。
この辺りの手腕は、さすがナチスの手法に学んだだけのことはあるなと思います。が、主権者たる国民の知的水準を見下してナメてかかるのは民主主義国家の政治家としての彼ら自身の存在意義を自ら毀損しているように僕には見えます。

北朝鮮の脅威を煽って自民党が軍事力に対するフリーハンドを得た先に本当に実現したいのは、アメリカのパシリとして中東などのテロ拠点や紛争地帯に不必要な介入を行い、特に恨みがあるわけでもない人達を殺傷することで。これをやってしまうと日本はアメリカの対テロ戦争のような泥沼に巻き込まれ、日本の一般市民がテロの脅威に晒されることなるでしょう。結果的に、自民党に軍事力へのフリーハンドを許すことは、北朝鮮の脅威に対しては有効な対策にならないだけでなく、日本の一般市民をテロに巻き込まれる危険に晒すだけで何のメリットも無いのではないでしょうか?
戦後70年にわたって、日本には自衛隊という実質的な軍隊組織はあれども外国人を殺傷することは一度たりともありませんでした。そうやって「外国の恨みを買うことがなかった」ということの価値がどうも過小評価されているような気がしてならないのです。




2017年10月14日土曜日

枝野さんと立憲民主党は往年の前田日明とUWFに見える

ご存知の通り、この一カ月くらいで政局は目まぐるしく変化しました。民主党の分裂は結果として自民党を利する結果になったのではないかという指摘もあるのですが、良識派(リベラルという言い方よりはこっちのほうがまだ妥当な気がするのです)が躊躇なく投票できる立憲民主党という党ができたのはよかったんじゃないかと思います。
これまでの民主党って、昔の自民党のようにリベラルから保守、タカ派からハト派まで「いろんな人がいる政党」だったのですが。中には前原の一派のようにほとんど自民党とポリシーに大差ない人もいたりしたわけで、おかげでどうしても党としてのイデオロギーがあやふやになってしまっていた感はあります。

立憲民主党の結成以来、僕のtwitterのTLは連日立憲民主党祭りのような状況になっています。twitterは良くも悪くも自分とポリシーの近い人の情報ばかりを遠心分離して取り出してしまいがちなメディアなのですが、それを差し引いても立憲民主党に対する良識派の期待はかなり高いように思うのです。例えば、内田樹先生はtwitterで立憲民主党への個人献金を行ったと表明しました。
「まっとうな政治」というキーワードにも現れているように、良識派の人々の立憲民主党への期待の背景には「やっと諸手を挙げて応援できる政党ができた」ということがあるんだと思います。立憲民主党ができる前の状況だと「もうこれだったらいっそのこと共産党に入れるか」と思っていた層にとっては、立憲民主党は待望していた理想的な党にみえるのではないでしょうか。

さて。そんな立憲民主党と枝野さんに対する良識派層の反応を見てると、僕はどうしてもUWFと前田日明のことを思い出さずにはいられないのです。そのうちプチ鹿島辺りが取り上げてくれるだろうと思ってしばらくウォッチしていたのですが、誰も言及しないようなので自分でblogに書いてみることにします。これを読んでる方でこの辺のプロレス史に明るくい方はたぶんいないと思うので改めて書いてみると。。
UWFというのはプロレス団体です。UWF結成当時のプロレス界は猪木(新日)と馬場(全日)という「同質であるようで決定的に相容れない二人」による二極が拮抗した状態が長らく続いていました。そこから新日の一部から分離したUWFという団体が誕生しました(この経緯だけでも所説色々あるのですが気になる方はネットで検索してみてください)。このUWFという団体はそれまでのプロレスとは異なり、現在の総合格闘技に近いようなスタイルを標榜して一大ムーブメントを起こしました。この団体を率いていたのが、カリスマエースだった前田日明です。

中島らもはUWFができた当時、「やっと大人の見れるプロレスができたと狂喜乱舞した」のだそうですが。立憲民主党に大して寄せられている期待には、このときの中島らもと同じような熱量を感じるのです。つまり、「やっと諸手を挙げて応援できるまともな政党がえきた」と。
プロレス団体としてのUWFは色々な困難に直面し、その後内輪モメや離散集合を繰り返すことになりましたが、UWFがあったおかげで今日の日本の格闘技があると言っても過言ではないくらい絶大な影響を後世に残しました。立憲民主党が今回の選挙でどのような結果となるかはわかりませんが、この先に繋がる何かの始まりとなってくれることを期待します。

枝野さんがテレビに登場するときには前田日明の入場テーマだった「ダンバイン飛ぶ」や「キャプチュード」を流してくれないかな…。