2017年11月11日土曜日

なぜグルメ番組はタレントの食レポを必要とするか?

小さい子供がいるということは、親の行動にも色々な制約がついてまわるものでして。たとえば、我が家では昔は冬場に週2回くらいの頻度で夕食のメニューが鍋でした。しかし、子供が生まれて以来、危ないので鍋をやる機会がめっきりなくなってしまいました。また、食べ物つながりで言うと、外食でカウンターしかないラーメン屋とかに行くのはまず無理ですし、子供が食べれないエスニック料理とかも行く機会がありません。
そんなこんなで、たまに出張先で自分ひとりでラーメン屋に入ったりすると、もうそれだけでもちょっと楽しかったりするものでして。先日も出張に行った先でGoogleで適当に検索してラーメン屋に入ってみたのですが。そこの店はよくある「壁一面に芸能人のサインや写真が並んでいる店」でした。そして、店の一番目立つところに地元のテレビ局がやっているグルメ情報番組が取材に来たときの写真が飾られていました。

たぶん全国どこいっても同じなんだと思いますが、ローカルのテレビ局ってグルメ番組に力を入れてますよね。理由は自明で、東京のキー局が垂れ流してくる東京のグルメ情報よりも、身近に行ける地元のグルメ情報の方が地元の人にとっては価値があるからなんでしょう。そういった地域情報こそがローカル局の存在意義であるとさえ言えるかもしれません。
で、このローカル局のグルメ番組の食レポ担当のタレントなんですが。売り出し中の若手だったり、昔そこそこ売れたけど落ち目になったベテランだったりと、まぁ色々なんですが。さすがにローカルのテレビ局なので売れっ子の芸能人は出てきません。そして、だいたいがお笑い芸人です。想像するに、お笑い芸人は食レポの合間にネタを盛り込んだりして尺を持たせてくれるのでテレビ局としても都合が良いのかもしれないですね。
ただし、食レポ担当のお笑い芸人も毎回目新しいことをやるのは難しいので、たいていテンプレート化された定番ネタを再利用するスタイルが多いのです。見てるこっちも正直なところそんなに面白くも無いし何度も見飽きたテンプレを繰り返されると見ててイラっときたりもするのですが。でもこのお笑い芸人による食レポというのは、何年かおきに芸人が変わるものの、ここ10年くらいは磐石のフォーマットとして定着した感があります。

で、ようやく本題なのですが。なぜテレビのグルメ番組は食レポ担当のタレントが必要なんでしょうかね?考えようによっては美味しそうな食べ物だけ映しておけば十分のような気がするのですが。やっぱり食レポのタレントが実際に食べる絵を流さないとグルメ番組というのは成立しない。たとえ合間に見飽きたテンプレのネタを挟まれることになっても、それでもなお、グルメ番組はやはり食レポを必要とする。これってよくよく考えれば不思議なことですよね。
僕が知る限りでこれに対して一番妥当な説明はラカンの「欲望は、他者の欲望である。」なんじゃないかと思うのです。ここでラカンの言ってることのうちのひとつは、「我々は自分にオリジナルな欲望というものを持つことができない」ということで。ベタな具体例を出すと、他人の持ってるものが欲しくなったり、他人の食べてるものが美味しそうにみえる…といったことをこの言葉は指摘しています。グルメ番組は美味しそうな物を食べてみせる食レポ担当の芸能人無しに成立しないのは、たぶんラカンのこの説明が適用される事例のひとつなんでしょう。

しかし、上記のラカンの言葉は単純に「他人のものが欲しくなる」ということだけを言っているわけではなくて、さらに深いところで「人間は自分だけにオリジナルな欲望の理由を持つことができない」ということに言及しています。これについてはちょっと複雑なので上記の斎藤環のテキストを引用してみます。「なぜ自分はこれが好きなのかをどうやって説明するか?」という文脈で、このようなことが書かれています
説明を放棄するか、他人の欲望をもってくるか、そのものの特徴を語るか。でも実は、特徴を語る人も、つまるところは他人の欲望を持ってきているわけで。スペックの比較って、そういうことでしょう? こういう価値判断の評価って、つまりは欲望のモノサシとして、みんなに共有されているわけです。その典型が「価格」、すなわち貨幣価値ね。こっちはこっちで、ややこしい議論がいっぱいあるわけだけれど。つまり、どんな人でも自分の欲望を説明するには、他人の尺度を持ってくるしかないのだ。ということは、要するに、誰にも自分の欲望について、「自分だけの理由」を説明することは不可能、ってこと

この説明が適用されるべき具体例として「クイズ番組はなぜ回答者が必要なのか」について考えてみることにします。地デジ以降のテレビは双方向化されているので、クイズ番組は回答者の芸能人を排除して、テレビの前の視聴者の参加だけで番組を成立させられそうな気もするのですが。それだけで一時間の尺を持たせられるようなテレビ番組が現実には存在しないですよね。
故ナンシー関はクイズ番組が成立する原則を「正解の絶対快楽性」と言ってましたが、その快楽はテレビの画面内の回答者との相対的な比較に裏打ちされて成立しているんだと思います。つまり、「あの人が正解できなかった問題を正解した」とか「あの人でも正解できる問題を正解できなかった」といったことを繰り返して、「テレビの中の回答者」という他者との相対的な関係があるからこそ、視聴者は自分が正解したときに快楽を得られるのではないでしょうか。
だから全問正解するクイズ王みたいな人ばっかり画面に並べてもクイズ番組としてはたぶん何一つ面白くないんだろうと思います。そしてこれは、スベったりほとんど正解しない回答者(野々村真とか井森美幸のポジション)がなぜクイズ番組に不可欠であるかという理由でもあると思います。

2017年10月15日日曜日

北朝鮮に対して軍事力は何の抑止力にもならない

衆議院選挙の投票日の一週間前となりました。あんまり悲観的なことは言いたくないのですが、自民を中心に改憲勢力が優勢という予測が立っているそうです。相次ぐ不祥事に「丁寧に説明する」とか言ってたくせに一切の説明責任から逃げるように解散した安倍政権に投票できるセンスが僕には全く理解できないのですが。
twitterを見てたら津田大介がこういうことを言ってるのを見つけました。
知人の奥さん(アラサー)は「今回は自民党入れる。北朝鮮恐いから」と。知人が「むしろ、北朝鮮情勢悪化させるのでは?」と諭したところ「野党なら何もやらない。それよりかはマシ」という理由みたい。そういう理由で自民を支持する人は結構多いんだろう。結局テレビが最強のアシストしてるんだよね。
全員が全員というわけではないんでしょうが、自民党に投票する人ってたぶんこういう人達なんでしょうね。たぶんこういう人の方がこの国では僕より幸せに生きていけるんだろうなと思います。とはいえ、ちょっとさすがにそれはナイーブ過ぎないですか?と思うので、選挙の結果が出る前にこれについて思うところを書き連ねておきたいと思います。

結論から申し上げると、日本は北朝鮮情勢に対して与えられる影響はごく僅かなんじゃないかと思います。しかも、この「僅か」に含まれるのは経済制裁や対話などの外交的な努力であって、日本の軍事力を増強することはおそらく何の意味も成さないと思います。
だいたい北朝鮮は世界一の軍事大国であるアメリカ相手に徴発を行っている国なのです。その立場について真剣に想像してみてください。北朝鮮だって、アメリカがその気になれば自国を一瞬で焦土にできることくらいは重々承知の上でやっているわけです。ここで日本が今更軍事力を少々増強したところで、アメリカに比べたらどんぐりの背比べレベルの差分でしかないですよね?それが北朝鮮に対して何か意味のある抑止力になると思いますか?
件の津田大介のtweetに登場する人は「軍事的なオプションをチラつかせれば北朝鮮への抑止力になると思いたい」のでしょうが。ここまで述べたように軍事力の増強は北朝鮮に対して何ら効果的な対策にはなりません。そして、僅かながら意味がありそうな外交について安倍政権はトランプに追従して対話を拒否する姿勢を見せています。つまるところ、安倍政権は状況を悪化させているだけではないか?という津田大介の指摘は妥当だと思います。

よく、「9条があるから日本は北朝鮮にナメられるんだ」とか、「北朝鮮に対する抑止力となるために、日本も核武装すべきだ」とか言う人がいらっしゃるのですが。彼らの言ってることは「北朝鮮が合理的な思考に基づいて立ち振る舞いを決定すること」が大前提になっています。ここに重大なピットフォールがあるのではないでしょうか?
北朝鮮は、少なくとも表面的な態度としては、狂人として振舞うことを自身に課しています。この狂人としての立ち振る舞いの鮮度を劣化させずに、程々の緊張を保ち続けることでこれまで彼らは生きながらえてきました。だって、「北朝鮮は何をしでかすか分からない」と相手に思い込ませ続けないと挑発には価値が無いですからね。
以上より、仮に9条が無くなろうが日本が核武装しようが、それが北朝鮮の態度を軟化させることに貢献するとは期待できないんじゃないでしょうか?狂人として振舞うことを自身に課している以上、一度でもマトモな対応をしてしまうとこれまでの努力が無駄になってしまいます。だから、北朝鮮は日本が軍備を増強したら間違いなく挑発行為をエスカレートさせる方向に舵を切るでしょう。というより、彼らだってそうせざるを得ないのです。

以上申し上げたことは「ちょっと考えれば自明なこと」だと思います。しかし、残念ながら日本では自分はマイノリティなんであろうこともなんとなく分かります。なんでこうなるかというと、残念ながら「この国では自分の頭で考える気の無い人がマジョリティになってしまった」からなんだろうと思います。
北朝鮮関連のニュースになると、日本のテレビでは判で押したように「ロケット、軍事パレード、拍手するカリアゲの将軍様、勇ましくニュースを読み上げるチマチョゴリのニュースキャスター」だけが出てきますが。こういった安倍政権とマスコミによる北朝鮮についての印象操作は「北朝鮮=核実験、ミサイル=何を考えているか分からない怖い人達」という図式だけを刷り込んで、「もうとにかく訳のわからない狂人が恐いから、とりあえず軍備を増強しよう」という方向に日本人のマジョリティを誘導してしまったように見えます。
この辺りの手腕は、さすがナチスの手法に学んだだけのことはあるなと思います。が、主権者たる国民の知的水準を見下してナメてかかるのは民主主義国家の政治家としての彼ら自身の存在意義を自ら毀損しているように僕には見えます。

北朝鮮の脅威を煽って自民党が軍事力に対するフリーハンドを得た先に本当に実現したいのは、アメリカのパシリとして中東などのテロ拠点や紛争地帯に不必要な介入を行い、特に恨みがあるわけでもない人達を殺傷することで。これをやってしまうと日本はアメリカの対テロ戦争のような泥沼に巻き込まれ、日本の一般市民がテロの脅威に晒されることなるでしょう。結果的に、自民党に軍事力へのフリーハンドを許すことは、北朝鮮の脅威に対しては有効な対策にならないだけでなく、日本の一般市民をテロに巻き込まれる危険に晒すだけで何のメリットも無いのではないでしょうか?
戦後70年にわたって、日本には自衛隊という実質的な軍隊組織はあれども外国人を殺傷することは一度たりともありませんでした。そうやって「外国の恨みを買うことがなかった」ということの価値がどうも過小評価されているような気がしてならないのです。




2017年10月14日土曜日

枝野さんと立憲民主党は往年の前田日明とUWFに見える

ご存知の通り、この一カ月くらいで政局は目まぐるしく変化しました。民主党の分裂は結果として自民党を利する結果になったのではないかという指摘もあるのですが、良識派(リベラルという言い方よりはこっちのほうがまだ妥当な気がするのです)が躊躇なく投票できる立憲民主党という党ができたのはよかったんじゃないかと思います。
これまでの民主党って、昔の自民党のようにリベラルから保守、タカ派からハト派まで「いろんな人がいる政党」だったのですが。中には前原の一派のようにほとんど自民党とポリシーに大差ない人もいたりしたわけで、おかげでどうしても党としてのイデオロギーがあやふやになってしまっていた感はあります。

立憲民主党の結成以来、僕のtwitterのTLは連日立憲民主党祭りのような状況になっています。twitterは良くも悪くも自分とポリシーの近い人の情報ばかりを遠心分離して取り出してしまいがちなメディアなのですが、それを差し引いても立憲民主党に対する良識派の期待はかなり高いように思うのです。例えば、内田樹先生はtwitterで立憲民主党への個人献金を行ったと表明しました。
「まっとうな政治」というキーワードにも現れているように、良識派の人々の立憲民主党への期待の背景には「やっと諸手を挙げて応援できる政党ができた」ということがあるんだと思います。立憲民主党ができる前の状況だと「もうこれだったらいっそのこと共産党に入れるか」と思っていた層にとっては、立憲民主党は待望していた理想的な党にみえるのではないでしょうか。

さて。そんな立憲民主党と枝野さんに対する良識派層の反応を見てると、僕はどうしてもUWFと前田日明のことを思い出さずにはいられないのです。そのうちプチ鹿島辺りが取り上げてくれるだろうと思ってしばらくウォッチしていたのですが、誰も言及しないようなので自分でblogに書いてみることにします。これを読んでる方でこの辺のプロレス史に明るくい方はたぶんいないと思うので改めて書いてみると。。
UWFというのはプロレス団体です。UWF結成当時のプロレス界は猪木(新日)と馬場(全日)という「同質であるようで決定的に相容れない二人」による二極が拮抗した状態が長らく続いていました。そこから新日の一部から分離したUWFという団体が誕生しました(この経緯だけでも所説色々あるのですが気になる方はネットで検索してみてください)。このUWFという団体はそれまでのプロレスとは異なり、現在の総合格闘技に近いようなスタイルを標榜して一大ムーブメントを起こしました。この団体を率いていたのが、カリスマエースだった前田日明です。

中島らもはUWFができた当時、「やっと大人の見れるプロレスができたと狂喜乱舞した」のだそうですが。立憲民主党に大して寄せられている期待には、このときの中島らもと同じような熱量を感じるのです。つまり、「やっと諸手を挙げて応援できるまともな政党がえきた」と。
プロレス団体としてのUWFは色々な困難に直面し、その後内輪モメや離散集合を繰り返すことになりましたが、UWFがあったおかげで今日の日本の格闘技があると言っても過言ではないくらい絶大な影響を後世に残しました。立憲民主党が今回の選挙でどのような結果となるかはわかりませんが、この先に繋がる何かの始まりとなってくれることを期待します。

枝野さんがテレビに登場するときには前田日明の入場テーマだった「ダンバイン飛ぶ」や「キャプチュード」を流してくれないかな…。


2017年8月11日金曜日

子供番組と科学

このblogを開始してから気が付いたら4年ちょっと経過しました。開設当初にこのblogを始めたことを3-4人の友達に連絡した記憶があるのですが、基本的にそれ以外の誰かに自分からこのblogの存在を広めたことはないですし、SNSからこのblogへリンクを張ったりしたこともありません。昔からインターネット上の孤島みたいな誰も来ない場所に一人で思いついたことを書き連ねるのが好きなのです。もしかしたらgoogleか何かで検索して偶然このblogに辿り着いて、以後定期的にこのblogをチェックしてる人もいるのかもしれませんが。もしいたとしても僕のポリシーをなんとなく理解して、穏やかに今後も見守ってていただけているのでしょう。
そんなこんなで気が付いたら今回が100回目の投稿となりました。僕は20世紀末のweb1.0時代の空気を苦笑いしながらときどき回顧したい方なので、キリ番(なつかC)ではほんの少しだけはしゃいでおきたいのです。4年ちょっとで100回ということは、一年で24回なので、平均して一カ月に2回の更新頻度ということになります。開設当初は猛烈な勢いで色々なことを書いていたのですが、その後徐々にペースダウンして、子供が生まれてからはさらにペースが落ちて2カ月以上ほったらかしてるときもあったのですが。それでもここまで続いてきて、最近は再びペースが少しだけ上がりつつあります。

さて。前回「科学的思考と受験エリート」という話を書いたのですが、今回もその続きの話をさせてください。というのも、SNS上で関わりのある30歳くらいの人が「日本人がテクノロジーに対してどこか否定的なのは、宮崎駿がテクノロジーをネガティブに描いているからだ」と言ってるのを見て、「それはちょっと違うんじゃないか?」「それは表層でしかなくて、その背景を考えようよ」「何でも簡単に誰か、何かのせいにしたがるのってどうなんでしょうね?」とか思うことはいっぱいあるんですけど直接は言えない…ので。もし彼に何も遠慮せずに言えるとしたら言ってやりたいことをしたためてみようと思います。
まず宮崎駿の話から言うと、宮崎駿は「テクノロジーの塊である飛行機が大好きな一方でアミニズム的な自然観も大好きで、その両者の間で常に葛藤している」のだと思います。これは宮崎駿個人の問題ではなく、我々日本人が普遍的に抱えている問題で、例えばドラえもんについても全く同じことが言えます。ドラえもんはテクノロジーが行きついた先の未来を「ピカピカの服を着た人たちが暮らす便利で豊かな理想の世界」として描いていている一方で、だいたいの話は「ドラえもんの道具に味を占めたのび太が調子に乗った挙句に痛い目に遭う」という話型になっています。

前回の投稿でも言及しましたが、キリスト教を文化的背景とする欧米人にはこういう葛藤はおそらく無いんだと思います。前回の最後でおさるのジョージの歌詞を引用しましたが、おさるのジョージはドラえもんや宮崎アニメとは違い、徹底して「科学的なチャレンジは善」なのです。だから、ドラえもんにおける「のび太が道具の味を占めて調子に乗る→痛い目に遭う」のようなシーンは見たことがありません。ジョージは時々色々なアイデアを思いついて実行します。時にはそれが失敗して周りの人に迷惑をかけることもあるのですが、黄色い帽子のおじさんは決してそのことでジョージを怒ったりはしないのです。
同じように「科学的であることは善」が徹底しているという傾向は欧米人が作った別の子供番組「ミッキーマウスクラブハウス」にも見て取れます。この番組はミッキーと仲間たちが適切な道具を選びながら問題を解決していく形で話が進むのですが。話の最後で必ず歌うマウスケダンスという歌は「とっても楽しい一日 みんなで力合わせて 問題を解決したね」から始まります。「問題に対して適切な解決策(道具)を選んで問題を解決する」という科学的なフォーううムがここでも徹底的に肯定されているように見受けられます。

以上より。キリスト教文化圏だと「科学」は全肯定される半面、日本人はどうしても「科学、テクノロジーが大好き」と「それをどこか否定したい気持ち」の間で揺れているのです。なぜこうなるか?というと、いくらでも説明のしようはあるだろうとは思うのですが、過去のblogの投稿から説明してみると、養老孟司の「脳化」というキーワードとか岸田秀の「内的自己・外的自己モデル」辺りが妥当なんじゃないかと思います。
養老孟司曰く、江戸時代という長い平和な時代が続いたことによって日本人は「脳化」したそうです。脳は予測と統御を司る器官であり、例えば「都市」というのは典型的な脳の産物なんだそうです。ドラえもんの道具や、作中の「ピカピカの服を着た人たちが暮らす未来の世界」などはまさに脳的な快楽の典型だと思います。一方で脳は予測不可能な自然を忌避します。結果として我々日本人は常に脳と自然とのせめぎ合いの間で揺れていて、その葛藤が宮崎駿の作品やドラえもんには描かれているのではないでしょうか?
一方で別の見方をすると、西洋科学はペリーの来航→開国の時代にやってきた外来文化なので、これに対応するのは岸田秀の「内的自己・外的自己」モデルでは外的自己の担当になります。岸田秀曰く、ペリーによって半ば強引に開国されたときに日本人は「外的自己 = 他者や社会との折り合いをつけるための表面上の振る舞いを担当する役」と「内的自己 = 外的自己とは反対の妄想的な自己愛、ナルシズム」に分裂したんだそうです。このモデルで考えると、外的自己としては西洋科学を器用に受け入れた半面、内的自己としては日本固有のアミニズム的な自然観にノスタルジーを禁じ得ない、という日本人像が形成されることになります。そして、宮崎駿の作品やドラえもんはこの対立のもたらす葛藤を描いていると言うことができるでしょう。

2017年7月17日月曜日

軽自動車とミニバンにだけヤンキーやファンシーが炸裂する理由

気が付けばもう半年近く前の話になってしまうのですが。4年半前に日本に帰国した際に買ったプジョー1007が壊れました。最初は「なんか加速が悪いかな?」くらいで、乗り終えた後に車を降りたらクラッチ板の焼けるような匂いがしたのでたぶん自動クラッチ周りの何かに問題があるんだろうなとは思っていたのですが。どんどん状況が悪化するのでディーラーに持って行ったときはすでに手遅れで、ディーラーの説明によると「1007はモーターショーに出展したコンセプトカーをそのまま製品にしてしまったようなところがあって、7万キロを超えたあたりから色々とトラブルが出始めるので…」と言われました。結局修理代金が30万円を超えると言われてたところで諦めて廃車となりました。
このプジョー1007は帰国直後にまだスペイン人気分でいる僕と奥様にはとてもしっくり来る選択肢ではあったのです。確か、最初はフィアットのニューパンダを買おうと思ってたんですが、奥様が1007にほぼ一目惚れしたために半ば勢いで選んじゃったのでした。まぁ、「ハイオク指定車だった」とか「前列のシートにリクライニング機能がついてない」とか「オートマとはいってもクラッチを自動化する装置をつけただけ」など、買ってから「あれ?」というのもあるにはあったのですが、それを補って余りあるくらい愛着の持てる車ではありました。

このプジョーがお亡くなりになったので、とりあえず通勤に使える車をなるだけ早く手に入れなくてはいけなくなりました。当初は家族4人くらいで乗っても全然問題ないくらいの車(フリードとかシエンタとか)を考えていたのですが、この車格のファミリーカーはあまり買い替えることが無いせいもあってか、中古ではあまり玉数が少ない上に買うとなると5-6万キロ走ってる物件でも100万円近くしてしまうのです。というわけでこの路線は早々に諦めて、セカンドカーとして僕が通勤に使ったりする程度の車を探すことにしました。
そもそも僕は車に対してそんなにこだわりがある方ではないのです。もちろん見た目や走りはある程度良いほうがいいですが、基本的に車に対しては「ちゃんと走れればなんでもいいや」程度のこだわりしかないのですね。だから、何百万もする車を新車で買ったりする気にはなれないのでいつもほどほどの状態の中古車しか買わないのです。プジョーを買ったときは子供もいないし日本に帰ってきた直後の勢いもあったのですが、子育て世代のサラリーマンとしては最早車に遊び心みたいなのを求めようという気は全く起きないので、結果としては軽自動車をお買い上げすることになりました。結果として2.5万キロ走行、車検はあと半年弱、という軽自動車をコミコミ50万円で手に入れたのは我ながら比較的よい買い物だったとは思います。

ずいぶん長い前置きになってしまいましたが、そんなこんなで久しぶりに車の情報を探してみて思ったのですが。タイトルにもあるように軽自動車とミニバンにだけ突出してヤンキーやファンシーが炸裂していることに気づいたのです。
まずミニバンですが。この車格の車は例えば「ガイア」「オデッセイ」「ノア」「エリシオン」といった具合に、名前の段階でもうすでにヤンキーセンスが炸裂しています。そして、高速道路で前の車をガンガン煽りながらずっと右車線をものすごい勢いで走っていくのって、この手のミニバンが多いと思います。たぶん中には血の気の多いおっさんヤンキーみたいなのが乗ってるんでしょうね。
一方、今回探した軽自動車ですが。今回このカテゴリの車を探してみて思ったのですが、およそ6割の軽自動車のデザインはヤンキーセンスでできています。そして、このヤンキーセンスの軽自動車を中古で探すとたいてい白か銀か黒のどれかの色しか選択肢がありません。この関連に気付いたあたりから、僕はネットで中古の軽自動車を探すときには色の指定のところで上記の三色を外して探していました。こうすることでヤンキー臭のする車はかなり効率的に除外できることに気づいたのです。しかしながら軽自動車の残り2割は
"lapin"や"mira cocoa"などの女子向けファンシー車で構成されていまして。こちらは色はカラフルなものが多いのですが、なにせデザインがファンシー過ぎて40手前のおじさんが通勤に使う気にはちょっとなれないのですね。
結局僕が買ったのは、軽自動車の中でもヤンキーでもファンシーでもない最後の「オバさん」カテゴリの中からオバさん臭さが少しでもマシそうなものを選んだのでした。でも、「オバさん」は一度買った車を最後まで乗り続けるので、なかなか中古車では玉数が少なくて探すのに苦労しました。

ミニバンと軽自動車というカテゴリーにだけ突出してヤンキーやファンシーといった日本ローカルなセンスが炸裂している理由は、おそらくこれらの車格が日本ローカルであることと関係あるんじゃないでしょうか。欧州に住んでた時の記憶をたどっても、プリウスやマーチやフィットのような車はいくらでも走っていたように思うのですが、軽自動車やミニバンはほとんど見た記憶がありません。軽自動車は日本の税区分でないと存在意義が無いですし、欧州人は子供がいてもスライドドアや三列シートの車を欲しがったりはしないようです。
欧州でミニバンがあまり普及しない理由はいろいろ考えられますが、直感的に言うと日本では車は「車輪がついて動く家」のように思われている気がするのですが、欧州人にとって車とは「エンジンや駆動系の上に人が乗るための空間がついている」という感覚なのではないでしょうか。だから、欧州では”操縦している感”が味わえるMT車が主流であり、居住性や機能性を追及した日本車のようなものを求めていないんだろうと思います。ドイツなんてアウトバーンを200キロで走れないと車として使い物にならないわけですから、日本のミニバンではたぶん使い物にならないでしょう。運転するのが高速で右車線を激走する血の気の多いおっさんヤンキーでもない限りは。。

2017年7月9日日曜日

反知性主義と「うまいこと言う能力」

久しぶりに更新しようと思ったら、蝉が鳴き始めてすっかり夏らしくなってしまいました。これを書いている7月上旬の政局は、「都議会選で自民党が歴史的敗北」「この結果を受けて、内閣支持率も急落」「失言で足を引っ張った稲田や安倍などへの批判は高まるものの誰も責任を取る気配はない」という状況です。勝ったのが小池とはいうのはさておき、選挙の結果を「前よりはマシになった」と思って眺めていられるのは4年前にこのblogを書き始めてから初めてといっていいくらいだと思います。
個人的には「AKBと安倍政権と林修先生は本来なら耐用年数を超過していてとっくに飽きられていて然るべきなのに、代わりになるものが出てこないから消去法的に生き残っている」と思っているので。今回の都議会選から潮目が変わって、日本人が安倍政権に愛想を尽かせ始めたのだれば、それはとりあえず歓迎すべきだと思っています。もちろん「勝ったのが小池か…」というのはあるにはあるんですが、それでも現時点では安倍よりはまだマシだとは思います。

折しもこのように政局の潮目が変わり始めた気配がしてきた時期に、たまたま「反知性主義」について橋本治が非常に的確に説明している本を読んたので、まずはその本の話をさせていただきます。「反知性主義」というキーワードは、日本では橋下徹が台頭してきた辺りから聞くようになった言葉ですが、その後の安倍政権~トランプの大統領当選といった具合に、日本のみならず世界的な潮流となっています。
橋本治は自著の中で、反知性主義が世界的に台頭するに至る背景を「中流層の貧困化/下流化」として説明しています。「一億総中流」という言葉に象徴されるように、戦後の日本は大多数の庶民が中流層に属する(という幻想を共有した)国を作り上げました。しかしこの社会はバブルの崩壊や経済のグローバル化に伴ってだんだん維持するのが困難になりました。中流層というのは「自分達は下流層よりは何かしら優越している立場である」という根拠の不明瞭な思い込みによって自身の社会的立場を位置づけています。この中流層が貧困化し始めると「根拠の無い優越」が「崩された」と感じ、ほぼ無条件にまず「不機嫌になる」と橋本治は言っています。
これは日本に限らず全世界的に反知性主義が台頭してきたことに対するかなり的を射た説明なのではないかと思います。状況はアメリカでもイギリスでも似たようなもので、中流層が貧困化/下流化して「不機嫌になっていく」中で反知性主義が台頭していった結果、プアホワイトの支持を得たトランプが大統領になったり、移民によって追い詰められた下流層の支持によってイギリスはEUから離脱することになりました。

で、ここからようやく「自分がオリジナルに言わんとすること」の話になるのですが。日本において反知性主義が最初に関西から台頭したことには、それなりに必然性があったのではないか?と思うのです。まず、上述したように反知性主義は「中流が沈下して不機嫌になっていく」ことと繋がっているのですが。東京一極集中で徐々に下降の一途をたどっていく中で関西には不機嫌な空気が少しずつ蔓延していたのではないかと思います。そしてさらに、反知性主義と関西の相性が良いもう一つの理由に「お笑い文化」があるのではないかと思います。
僕は高校卒業まで関西で育ったので、なんとなくの皮膚感覚として思うのですが。関西では「面白いことを言う」「うまいこと言う」という能力は日本の他の地域よりも高く揚称される傾向があります。たとえば女子にモテるための条件として「カッコいい」「運動ができる」などは全国共通ですが、関西ではルックスが多少悪かったり運動が特にできなかったりしても、面白いことが言えればそれなりにモテたりするのです。
このような風土と反知性主義はそもそも相性がいいのではないでしょうか?実際のところ関西のお笑い芸人は排外主義や反知性主義に近い政治スタンスを持っている人が多いようです。僕が記憶している範囲だけでもこんな調子です。
小藪の教育勅語肯定発言
ブラマヨ(吉田)の長谷川豊擁護発言
笑い飯(哲夫)の慰安婦問題についての発言
ただし、これらはすべて吉本の芸人でして。関西の芸人の中でも唯一鶴瓶だけは安倍政権に対して批判的なコメントをしているのですが、鶴瓶は吉本ではなく松竹芸能所属です。鶴瓶が表立って安倍政権を批判できたのは、その辺りの事務所のカラーも関係があるのかもしれません。
もちろんお笑い芸人の中には鶴瓶以外にもネトウヨ的な政治信条に批判的な人もいるのかもしれませんが。上記のようにお笑い芸人が橋下徹のような発言を繰り返す背景には、彼らの思考様式そのものが「複雑な問題の一部分だけを取り上げて議論をすり替えたりしてうまいこと言う」ことだけに特化されているという、ある種の職業病のようなものが透けて見えるような気がするのです。そして、こういうお笑い芸人の作り出す「笑い」を文化の中心に据えている関西にはこのような反知性主義的な思考に同調しやすい土壌があったのではないでしょうか。

そもそも政治がなぜ必要かというと。いろいろな人の立場や利害があって社会が複雑だからこそ「そんなに悪くはない最適解に着地させて解決させる」ために政治はあるのではないでしょうか。言い換えると、世の中がはそんなに単純でないからこそ政治が必要なわけであり、そう考えると、政治家に必要な資質は本来「複雑で簡単に答えが出ない問題について議論して解決していく能力」であるべきだと思うのですが。反知性主義はこういう姿勢を放棄して「いかにクリアカットで歯切れのいいことを言うか」にだけ能力を最適化しているように思えるのです。
その昔「プロレスラーは政治を目指す」で申し上げたように、一昔前までの政治家には「青雲の志を持ちつつ悪いこともできる」という清濁併せ持つ能力を求められていて、その点では「真剣勝負と演技」という矛盾した要素を止揚することが職業上不可欠なプロレスラーはまさに政治家に向いている…と僕は思っていました。しかし、反知性主義が猛威を振るっている昨今の状況を見ていると、もはや政治にはこのようなセンスさえも必要とされなくなったのではないかと思えてくるのです。
というのも、最近の安倍総理や菅官房長官を見てると、もうこの国の政治家は「うまいこと言えればいい」というのも通り過ぎて、「うまいこと言おうとする気さえもなくなっている」ように見えるのです。つまり、「うまいこと言う努力さえも放棄して国民に対してナメた態度を取っていられる上限を競うチキンレースに興じる」という、いわば「末期反知性主義」的な段階にさしかかっているのではないかと思うのです。まぁ、いくらなんでもさすがに今回の都議会選挙ではこのような姿勢に対して国民から「No」を突き付けられたのですが。「末期反知性主義」からこの先、日本はどう変わっていくのでしょうかね?

2017年5月5日金曜日

挨拶ができないとダメかな?(その2)

どこの会社にでもある話なのですが、4月に人事異動がありまして。結果として人生で初めて女性の課長の下で働くことになりました。他にも組織変更やら何やらで人の出入りがあったために大規模な席替えが行われまして。結果的にヒラ社員最年長の僕は今回の席替えで右が女性の課長、向かいの席も別の課長、斜め前が部長という席に置かれてしまいました。
これまでの社歴を振り返ると、エラい人の近くの席だったことはありました。最高記録は入社して最初に与えられた席で、そのときはいきなり常務の斜め前の席でした。後から考えると、あれはたぶん誰も常務の周りに座りたがらないので空いていた席を僕にあてがわれたのでしょうが、当時の僕はそんなことさえ考える気もなくて、全くビビッてませんでした。今考えても若いって素晴らしいですね。
しかしこの歳になるとビビり方もそれなりに分かってきますし、何よりも周りの席のエラい人があんまり接したことが無かったり、ちょっと苦手だったりする人なので今回の席替え以降は自分の席にいてもホーム感がまるで無いのです。

そんなこんなで、この席になってから常に「なんとなくやりづらい」のはまぁしょうがないとして。毎日どうしても引っかかって気になってしまう事に「挨拶」があるのです。以前、このblogを始めた頃に「挨拶ができないとダメかな?」というテーマで投稿したことがあったのですが、あの頃気になっていた事と同じような違和感を再び毎日感じるようになったのです。
というのも、件の女性上司がわりとパリッとシャキッと毎朝挨拶をしてくる人なのです。考えすぎかもしれませんが、その立ち振る舞いからは「あなた達との関係を作っていく上で、まず最初は挨拶からはじめようと思っています。人間関係はまず挨拶からしか始まらないでしょう?」という空気を読み取ってしまうのです。まぁ、それはそうといえばそうなんですけども。でも、どうしてもこれが引っかかるのです。
勿論口に出して真正面から議論するなんて事はしようとは思わないですし、毎朝パリッとシャキッと挨拶する彼女の姿勢は職場の大半の人にはどちらかといえば好印象を持って迎えられているんだろうと思います。でも、僕は毎朝挨拶される度に何だか違和感を感じてしまうのです。それがなぜかというと、挨拶ができないとダメかな?で問題にしたように、「自分の考える挨拶の仕方やタイミングに対する常識は世界共通で正しいと信じて疑っていない」「挨拶のできる自分は社交的な人間であると当人は信じて疑っていないが、実際は挨拶の仕方という一側面だけで世の中を敵と味方に分けたがっている事に自覚がない」という事なんだと思います。

日本人の挨拶のあり方について考える上で非常に有用な示唆を与える話なので、河合雅雄というサル学の学者さんの本に書いてあった話の受け売りをご紹介してみます。河合氏曰く、挨拶という行動様式は高等猿類の中でも人類やチンパンジーなど一部にしか存在しないんだそうです。その一方で、高等猿類の中にはサルのように挨拶という行動様式が存在しない種族もいるそうです。これがなぜかというと、挨拶というのは「互いの不在の時間を埋めるための行動様式」であるからで、逆に言うと「互いの不在の時間が存在しない社会」には挨拶という行動様式は発生しないんだそうです。
サルの社会は常に群単位で行動するので、もしも2-3日以上に渡って群から外れていると、戻ってきても最早群のメンバーとしては扱ってもらえなくなるんだそうです。だから、そんな超群社会では挨拶なんてそもそも必要が無いのだそうです。一方、チンパンジーには新婚旅行のような習慣もあって、カップルが群から何日も離れて二人だけで生活することが普通にあるそうです。だからこそチンパンジーの社会には人類と同様に挨拶が存在するんだそうです。

つまり僕が言いたいことはこういうことです。毎日同じように会社で顔を合わせるような、いわばサルの群のような職場で本当に毎日挨拶する必要があるんでしょうかね?勿論僕だって、久しぶりに会った人や、初めて会う人、他部門や他社の人とは何の違和感もなく挨拶しますよ。だって、時間だけじゃなく、社会的立場や利害関係など、埋めるべきものがお互いの間にありますから。しかし、毎日代わり映えしない面子が顔を合わせる職場で毎日挨拶する必要は本当にあるのでしょうかね?
むしろ、擬似サル山社会である職場で毎日挨拶する事は実態として「毛繕い」や「マウンティング(上下関係を示すために強い方が上になる)」のように、挨拶という行動様式の本義からかけ離れて、会社組織のサル社会的な側面を強調してしまっているのではないか?とさえ僕は思うのです。職場の課長や部長レベルの人たちの中に、毎朝不特定多数に向けて「おはようございます」と繰り返しながら自分の席まで歩いてくる人がいます。ああいう人は挨拶しているようで、実はマウンティングをやってるだけのように僕には見えるのです。彼らの挨拶は「一対多」の「一」のポジションから常に発信されています。言い換えると、全校生徒に向けて壇上から話をする校長先生と同じ立場にいるのと同じなのですが。彼らは毎朝挨拶をすることを通してこの立場を再確認をしているだけのように見えるのです。

おそらくここに書いたようなことは誰に話しても「そんな細かいこと気にせずに、挨拶されたらほどほどに返しておけばいいじゃん。いい大人なんだしさ。」って言われるでしょうし、実際本当にその通りだとは思うのですが。でもどうしても僕には気になるのですよ。。かといって文句ばっかり書いて終わるのも嫌なので、せめてあのマウンティング挨拶をなんとかするにはどうしたら良いか?という提案くらいはここに書き残しておきたいと思います。簡単なことなのですが、「挨拶の後にもう一言何かを話しかける」ということをやりさえすれば良いと思うのです。
まず、これによって自分の席に向かって歩きながら周囲の社員に向かって「おはようございます」と切って捨てながら歩く典型的な「一対多」のマウンティング挨拶は自動的に不可能になります。そして、何でもいいから挨拶の後に何か会話することで、目線の合ったコミュニケーションの糸口が作り出せると思うのです。この、「目線の合ったコミュニケーション」という資質が致命的に欠けていることが、僕が日本人の挨拶に違和感を感じる原因なんだと思います。欧米人、とりあえず自分の身近だったスペイン人を例にとって考えてみたときに、必ず彼らは目を合わせてクラッチが噛み合った挨拶をするのです。
なぜ彼らがクラッチの噛み合った挨拶をするのかというと、「相手と自分はいろいろな事が違っていて当たり前で、お互いに深い断裂があるので、分かり合えることに限界がある」ということが欧米人にとってはコミュニケーションの大前提として共有されているからなんだと思います。といった具合に、例によって今回も最後は「キリスト教文化 vs 儒教文化」という文化的背景の違いに帰結してしまいました。はい。
ともあれ、「挨拶の後に会話を繋げられる」というのは、国際コミュニケーションの場で非常に重要なセンスだと思います。日本人の残念な英会話にありがちな話なのですが、"How are you?"と聞かれたら、体調が良かろうが悪かろうが"fine thank you."と、とりあえず答えてそこから後は何も喋れない人って結構いますよね。例えば調子が悪ければ"not so good."みたいな返し方をすべきですし、そこから「昨日からちょっと風邪気味で…」といった具合に会話の糸口を作るべきなんですけどね。こうなってしまうのは、もちろん単純にボキャブラリが不足しているのもあるんでしょうが。より本質的な原因として、日本人が挨拶を「目線の合った会話の糸口」というよりは「テンプレの交換儀式」としか思っていないからなんじゃないかと思うのです。