2016年4月17日日曜日

ラテン系は本当にいい加減か? (その2)

このblogのごくごく初期にラテン系は本当にいい加減か?という文章を書きました。この文章の趣旨を一言で言うと、「お互いにいい加減でも社会が成り立つのはラテン系の人々が他人を許す能力が高いからで、日本人が過剰にキッチリしあいたがるのは他人を許す能力が低いからだ」ということでした。
しかしながら、昨今の日本を見ていると僕には日本人の方が「いい加減」に見えることの方が多いのです。たとえば福島で原発があれだけの事故を起こしたにも関わらず原発を再稼動させた上に、熊本で地震が起きても近隣の原発を止めようとはしませんでした。なぜこうなるかについては、前回の投稿で内田先生を引用したように原発=一神教の神との付き合い方が日本人には分からないので、日本人は「怖いものほどぞんざいに扱って安心したがる」からではないかと思います。こういう日本人の原発への接し方は僕から見ればとにかく「いい加減」に見えます。
また、自民党は選挙の際に「TPP反対」とか言うだけ言って、選挙が終わったらあっさりTPP推進に回りましたが、これに対して「いい加減なことを言うな」とか「もう自民党は信用ならない」と非難の声を上げてる人は少数派ですよね?
長い目で見たらいつか大きな地震が来るのは分かっていながら都会に高層ビルを林立させられるのも僕には正直なところ理解できないです。あれだけ高層ビルが立ち並んでいると、本当に大地震がきたら大変なことになりそうなのは誰でも理解できると思うのですが。たぶんあそこで働いている人達は地震が来てビルが倒壊するとか、そういう可能性について「真剣に考えない」というソリューションを集団的に採用しているんだと思います。そうでもなかったら、たぶん怖くてあんなところで働く気にはなれないだろう思います。


こういう日本人の「いい加減さ」の事例は枚挙にいとまがありません。どんな国のどんな文化にも悪いところはあるので、「だから日本はダメだ」とか短絡的に言うつもりは全く無いのですが。おそらく日本人の大半はこういう日本社会の有り様を「いい加減」だと言われたらある程度は納得するんでしょうが、かといってそれが致命的に問題だとは思っていないのではないでしょうか?
「文化」という言葉の定義の一つに「ある社会集団にとっては当たり前でも、それ以外には当たり前でないこと」というのがあります。この語義に鑑みると、良いか悪いかはさておきこの種の「いい加減さ」は日本の文化の一部なのでしょう。内田先生の言い方を借りると「民族的奇習」と言ってもよいかもしれません。
なぜ日本人が時間や納期などにキッチリしたがる半面、政治や社会のあり方といった「お上」のやることに対してここまで「いい加減」なのかをクリアカットに説明することはできないのですが、何度も申し上げているように「多数派でいたい人が多数派」であることや、「恥の文化=絶対的な善悪ではなく、他社との相対的な関係が判断基準」といったことは背景にあるのではないかと思います。

話をラテン系に戻します。
確かにラテン系は日本人に比べて開始時間にはルーズです。でも、彼らは終わる時間には厳格です。日本人とラテン系の違いは、「開始時間と終わる時間のどっちにプライオリティを置くか」の違いでしかなくて、この両者には優劣は無いと思います。優劣は無いといいつつも、個人的にはそれだったら、他人を許す能力が高く、おおらかでギスギスしない社会を作れるラテン系の方がよいと思います。
そして、これはラテン系だけでなく欧米ではどこでもそうだと思いますが、政治や社会について明確な意見を個々人が持つことは当たり前というか、市民として最低限の勤めだと思われています。彼らの感覚からいうと、職場でお昼ご飯たべながらでも普通に政治の話をしますし、意見が違えばそこで議論を戦わせたりするのも当たり前なのです。あんまり人のこと言えないんですが、日本人ってこういう局面で面と向かって政治の話をしたりするのが苦手な人って多いですよね?でも、そういう態度でいると欧米人からは「ちゃんと自分の意見を言えない=いい加減な人」と思われるんじゃないでしょうか。
以上より、ラテン系(とりあえず西欧のラテン国家の人を想定)と日本人では「いい加減」さが発揮される対象がそもそも異なるのはないでしょうか?例えば日本人だと「(開始)時間にルーズ」とか「ルールを守らない」といったことを「いい加減」だと考えますが、ラテン系からすると「論理的に考えようとしない」「安易に他人と同調したがる」「自分の意見をちゃんと表明しない」といった日本人の特徴が「いい加減」に見えるのではないかと思うのです。


さらに言うと、この問題を更に厄介にしているのは「いい加減」という日本語がそもそも「いい加減」だということなのです。日本語の「いい加減」という言葉はぱっと思いつく範囲で
  • 非論理的 : illogical 
  • 時間にルーズ : not punctual
  • ルールを守らない : not keeping rule
などなどを包含する多義的な言葉ですが。隣に英語を添えてみたように、それぞれが意味することは英語だと別々の言葉があてられています。つまり、『いい加減』という日本語の語義そのものが再帰的に『いい加減』であることが話をややこしくしているのではないでしょうか?
もしも日本人が「ラテン系はいい加減だ」ということを外国人に説明して理解してもらおうとしても、相手の外国人が余程日本語が堪能な人でない限り日本語の「いい加減」の概念が伝わらないので、問題点の共有という一番最初のステップにさえ到達しない可能性があるのではないかと思います。

原発と一神教文化

3・11の記憶が少しずつ過去のものになりつつあるところに熊本の地震が来ました。この地震は日本が地震国であることを改めて日本国民に思い出させたのではないでしょうか。これを書いているのは最初の大きな地震から3日後ですが、今も余震は続いています。余震がまだ続く可能性があるのだからこんなときくらいはとりあえず原発を止めてしまうべきだと思うのですが、阿倍政権にはそのつもりは全く無いようです。むしろ、「地震が起きても問題なかった、だから原発は安全だ」という実績作りのために意図的に原発を動かし続けているように見えます。
Twitterを見てる限りでは、今回の地震によってここ最近の「なし崩し再稼動」で下火になっていた反原発派がかなりアクティブになったように見えます。反原発派曰く、川内や伊方原などの原発は中央構造線という大きな断層の上にあるので、今回のような地震が原発を直撃した際に無事で済むわけが無いんだそうです。断層の件はさておいても、これだけ地震や津波などの自然災害が多くて、3・11で一回失敗したんだから日本では原発はやめるべきだと僕は思います。

地震のニュースの度にメディアがさらっと「原発に異常なし」を繰り返しているのは、原発が不安であることにある程度は配慮する反面、一方では原発について騒ぎ立てるなという無言の自粛を求めるているように見えます。このように「原発を怖がっている反面、その裏返しとして楽観的な態度を見せて強がっていたがる」というのは阿倍政権や原発推進派に共通しているように思います。
原発を再稼動させるにあたっても、リスクや安全対策、非常時の対応についてもう少しちゃんと考えたり説明したりする態度があればよいのですが。残念ながら阿倍政権の態度は一貫して「都合の悪いことについては考えない」と言ってるだけにしか見えないです。そもそも、日本人の考える安全対策や地震/火災などへの避難マニュアルは平時に考えられた精緻な机上の空論になりがちで、本当に災害が起きたときに次々と仮定に反する事態が起きるとあっさりシステムクラッシュしてしまいます。実際に3・11のときは電源喪失などの想定外の事態によって原発がメルトダウンしてしまいました。

このように日本人の原発との関わり方を見ていると、原発を稼動させることの是非以前に原発という危険極まりない物を扱う上で重要な資質を日本人は欠いているのではないかと思わずにはいられないのですが。なぜこうなるのかについては、内田先生が3・11直後にこれ以上に無いくらい的確な文章を残しています。この「『原発=一神教における神』との付き合い方が日本人には分からない」というのは原発と日本人の問題についての説明の中で一番納得感があると思います。ここから先を僕がくどくど書いても劣化コピーにしかならないので、内田先生の文章をそのまま貼り付けて今回は終わりにします。

数千年前、中東の荒野に起きた「一神教革命」というのは、人知を超え、人力によっては制することのできない、理解も共感も絶した巨大な力と人間はどう「折り合って」いけるかという問題に対しての一つの「答え」であった。
人知人力をはるかに超える巨大な力と「折り合う」ためには、ただ巨大な力を畏れ、慄くだけでは足りない。
信仰する側が、「絶えざる自己超克」という苦役をおのれに課すことではじめて、一神教の宗教意識は成り立つ。
おのれの理解も共感も絶した存在に向けて、おのれの知性の射程を限界まで延長し、霊的容量を限界まで押し広げるという「自己超越」の構えそのものを「信仰」のかたちに採用することによって、人類はその宗教性と科学性の爆発的な進化を成し遂げたのである。
爾来、一神教文化圏においては「主」を祀る仕方について膨大な経験知が蓄積されてきた。
原子力は20世紀に登場した「荒ぶる神」である。
そうである以上、欧米における原子力テクノロジーは、ユダヤ=キリスト教の祭儀と本質的な同型的な持つはずである。
神殿をつくり、神官をはべらせ、儀礼を行い、聖典を整える。
そう考えてヨーロッパの原発を思い浮かべると、これらがどれも「神殿」を模してつくられたものであることがわかる。
中央に「神殿」があり、「神官」たちの働く場所がそれを同心円的に囲んでいる。
その周囲何十キロかは恐るべき「神域」であるから、一般人は「神威」を畏れて、眼を伏せ、肌を覆い、禁忌に触れないための備えをせずには近づくことが許されない。
それは爆発的なエネルギーを人々にもたらすけれど、神意は計りがたく、いつ雷撃や噴火を以て人々を罰するか知れない・・・
原子力にかかわるときに、ヨーロッパの人々はおそらく一神教的なマナーを総動員して、「現代に荒ぶる神」に拝跪した。
そうではないかと思う。
それに対して、日本人はこれにどう対応したか。
最初それは広島長崎への原爆投下というかたちで日本人を襲った。
でも、それは「神の火」ではなく、「アメリカの火」であった。
だから、日本人は「神」ではなく、アメリカを拝跪することによって、原子力の怒りを鎮めることができるのではないかと考えた。
それが日米安保条約に日本人が託した霊的機能だったと私は思う。
神そのものではなく、世界内存在であるところの「その代理人」「その媒介者」「そのエージェント」に「とりなし」を求める。
代理人におべっかを使い、土下座し、袖の下を握らせることで、「外来の恐るべきもの」の圭角を削ろうとする。
これはきわめて日本人的なソリューションのように私には思われる。
神仏習合以来、日本人は外来の「恐るべきもの」を手近にある「具体的な存在者」と同一視したり、混同したり、アマルガムを作ったりして、「現実になじませる」という手法を採ってきた。
一神教圏で人々が「恐るべきもの」を隔離し、不可蝕のものとして敬するというかたちで身を守るのに対し、日本人は「恐るべきもの」を「あまり畏れなくていいもの」と化学的に結合させ、こてこてと装飾し、なじみのデザインで彩色し、「恐るべきものだか、あまり恐れなくもいいものだか、よくわかんない」状態のものに仕上げてしまうというかたちで自分を守る。
日本人は原子力に対してまず「金」をまぶしてみせた。
これでいきなり「荒ぶる神」は滑稽なほどに通俗化した。
「原子力は金になりまっせ」
という下卑たワーディングは、日本人の卑俗さを表しているというよりは、日本人の「恐怖」のねじくれた表象だと思った方がいい。
日本人は「あ、それは金の話なのか」と思うと「ほっとする」のである。
金の話なら、マネージ可能、コントロール可能だからだ。
なんでも金の話にする人間というのがいるけれど、あれは別に人並み外れて強欲なのではなく(そういう面もあるが)、むしろ人並み外れて「恐怖心が強い」人間なのではないかと思う。
出版社系の週刊誌の基本は「人間は色と欲でしか動かない」というシンプルな人間観だが、それは彼らがそう信じているということよりもむしろ、そう「信じたい」という無意識の欲望を映し出していると考えた方がいい。
彼らは「よくわからない人間」が怖いのだ。
どういうロジックで行動するのか見えない人間に対して恐怖を感じると、彼らは「それもこれも、結局は金が欲しいからなんだよ」という(自分でもあまり信じていない)説明で心を落ち着かせるのである。
その手を日本人は原子力相手に使った。
「原子力というのはね、あれは金になるんだよ」
そう言われ、自分でもそう言い聞かせているうちに、原子力という「人外」のものに対する恐怖心が抑制されたのである。
なんだ、そうなのか。あれはただの金づるなのか。なんだ、そうか。そうなら怖いことなんか、ありゃしない。ははは。ただの金儲けの道具なんだ、原子力って。
全員がそういう語り口を採用したのである。
政治家も、官僚も、もちろん電力会社の経営者も、原発を誘致した地方政治家も、地元の土建屋も、補償金をもらった人々も、みんな「あれはただの金儲けの道具なんだよ」と自分に言い聞かせることによって、原子力に対する自分自身の中にある底知れぬ恐怖をごまかしたのである。
一神教文化圏の人々は荒ぶる神を巨大な神殿に祀り、それを「畏れ、隔離する」というかたちで「テクニカルなリスクヘッジ」を試みた。
日本の人々は荒ぶる神を金儲けの道具にまで堕落させ、その在所を安っぽいベニヤの書き割りで囲って、「あんなもん、怖くもなんともないよ」と言い募ることで、「心のリスクヘッジ」を試みた。
福島原発のふざけた書き割りを見たヨーロッパやアメリカの原発関係者はかなり衝撃を受けたのではないかと思う。
その施設の老朽ぶりや、コストの安さや、安全設備の手抜きに心底驚愕したのではないかと思う。
どうして原子力のような危険なものを、こんなふうに「雑に」扱うのだろう・・・と海外の原子力研究者は頭を抱えたはずである。
そこまでして「コストカット」したかったのか?日本人は命より金が大事なのか?
もちろんそうではない。話は逆なのだ。
あまりに怖かったので、「あれは金儲けの道具にすぎない」という嘘を採用したのである。
原発の設備をあれほど粗雑に作ったのは、原子力に対する恐怖心をそうやってごまかそうとしたからなのである。「こんなものいくら粗雑に扱っても抵抗しやしねんだよ」と蹴ったり、唾を吐きかけたりして、「強がって」みせていたのである。
私はそう思う。
そうでも思わないと、あの粗雑な設備や安全管理のすさまじい手抜きを説明することができない。
原発は人間の欲望に奉仕する道具だ。
そういう話型にすべてを落とし込むことによって、私たち日本人は原子力を「頽落し果てて、人間に頤使されるほどに力を失った神」にみせかけようとしてきたのである。
もちろん、そうではなかった。
だから、私たちはいま「罰が当たった」という言葉に深く頷いてしまうのである。
自分たちがこれまで「瀆聖」のふるまいをしてきたことを、私たちは実は知っていたからである。

2016年4月3日日曜日

「おかあさんといっしょ」はいつまで続くか

4月になりました。新しい生活のスタートとなった人もたくさんいらっしゃるんでしょうが、僕は何も変わらずのままです。昨日は4/1なので組織名称の改変や役職呼称が代わっただけとかいうしょーもない理由だけで辞令をもらう人がいたのですが、そんな彼等でさえちょっとうらやましく思えてしまい、「エイプリルフールでもいいから辞令でないかなー」とつぶやいてしまいました。
一方で、4月1日でNHKの教育番組にはとてもインパクトの大きい人事異動がありました。子育て世代のお父さんお母さんならほぼ全員お世話になっている「おかあさんといっしょ」が大幅にリニューアルされることになったのです。人形劇コーナーが完全リニューアルになる上に、なによりも歌のおねえさんが交代することになったのです。歴代最長の8年に渡って歌のおねえさんを担当してきた「たくみおねえさん」の卒業については、発表されたと同時に「たくみロス」という言葉も聞かれるほどの反響がありました。
かくいう僕も「たくみロス」気味の一人でして。あの男性女性問わず「ほとんど敵を作らない=誰でも好きになてしまう」能力たるや一時期の山口智子とか能年玲奈とか(あと漫画のキャラを含めていいなら朝倉南)、そのクラスだと思います。

たくみおねえさんのことを書いているといつまでも書き続けられる気がするのですが、それはさておき、ここ半年ほど子供と一緒にNHKの教育番組を見てて気になったことが一つあります。NHKの子供向け番組の世界は「老人、おにいさん/おねえさん、子供、妖精、動物」だけで構成されていて、ほぼ徹底して「親」が欠落しています。つまり、「親」は現実の親だけであってテレビの中の世界には「親」を登場させないというコンセプトがどの番組にも共通しているように見えるのです。
強いて例外を挙げるなら「みいつけた!」という番組だけは登場キャラクターだけで家庭生活を営んでいるような雰囲気があるのですが、そこで親に該当するポジションのキャラクター「サボさん」はときどき頭に花が咲いてオカマみたいになるというキャラクター設定になっています。深読みしすぎかもしれませんが、性別の概念を希薄にすることで現実のお父さんやお母さんとかぶることを回避しているんじゃないかと僕には思えます。
ところが、3月末で終了した「おかあさんといっしょ」の人形劇コーナー「ポコポッテイト」の最終回までの数話では「着ぐるみキャラ”ムテ吉”の(今まで存在さえ言及されなかった)お父さんとお母さんが帰ってくる」という話の展開だったのです。本当に親が出てくるのか結構ハラハラしながら見てたのですが、結局は「親が乗っているであろう船に手を振ってるシーン」までで終わりました。やっぱり親を登場させるのはハードルが高かったようです(最終話のためだけに親の着ぐるみつくるのも勿体無いというのもあるんでしょうが、それだけではないと思います。)。ともあれ、「ムテ吉の両親はムテ吉を残して宝探しに行ったままずっと帰ってきていない」という荒唐無稽な設定を後付けしてまで親の概念をわざわざ持ち込んだことにはちょっと驚きました。しかしながら、ギリギリのところまで引っ張った末にやっぱり親は画面には登場しませんでした。

NHKの教育番組は僕が子供の頃に比べたらやたらと番組の数は増えましたが、その中でもやっぱり「おかあさんといっしょ」は他の番組に比べたら別格です。wikipediaによると、「おかあさんといっしょ」は1960年頃から50年以上に渡って存続している看板番組なんだそうです。「おかあさんといっしょ」のスタート当時はまだ専業主婦が当たり前の時代だったので、子供とお母さんが一緒に見ることを前提にできたのだと思います。かくして、「おかあさんといっしょ」という番組は作り手が意図的に画面から欠損させた「お母さん」をその名前に冠してスタートしたのでしょう。ここから出発したせいもあってか、その後のNHKの子供向け番組も一貫して「親」が欠損した世界をつくり続けているんだと思います。
しかし、今の時代では「おかあさんといっしょ」を母親と一緒に見れる子供は少数派になりつつあるんじゃないでしょうか?共働きの家庭の子供の大半はおかあさんといっしょが放映される時間帯には保育園にいるんでしょうし、もしも一緒に家にいたとしても母親は何かと忙しくて子供と一緒にテレビを見るゆとりが無かったりするのではないでしょうか(我が家では子供向け番組を録画しておいて、家事で忙しくて手が離せないとき=「おかあさんといっしょにいれないとき」に子供に見せています)。もっと言うと父子家庭だってあるわけですから「おかあさんといっしょ」という番組名がこのご時勢には不適切だとか怒り出す人もいるんじゃないでしょうかね(2013年から「おとうさんといっしょ」という番組が日曜日だけですが放映されてはいますが、「マイノリティやポリティカルコレクトに対して配慮していますよ」という中途半端なポーズは逆に格差を浮き彫りにするという好例になっています)。

半世紀以上前に「おかあさんといっしょ」がスタートした当時のNHKの教育番組のコンセプトはさすがに時代にそぐわなくなりつつあるのは誰の目にも明らかです。「サボさんの登場(2009)」→「おとうさんといっしょ開始(2013)」→「最終回間際に突然持ち込まれるムテ吉の両親の存在(2016)」という一連の流れは、「おかあさんと一緒に見る前提で『親』は意図的に画面から排除された世界」に作ってる側も限界を感じ始めている兆候のようにも見えます。
そしてちょっと飛躍しますが、これは高度経済成長期の頃の制度設計をひきずったままのわが国の育児政策の有り様と相似形を成しています。「待機児童ゼロ」とか「女性が輝く」とか口先では言いながらも結局は保育園は足りないし、保育士は激務の割には待遇が悪かったりと、行政は働く女性のためのインフラ整備にはまともに取り組もうとはしなかったわけですが。こちらはとうとう先日ある限界を迎えて保育園落ちた日本死ねに端を発して国民が声を上げ始めました。
保育園の問題の切実さに比べたら教育番組の有り様なんて大したプライオリティではないので不用意に同列に比較するべきでは無いのは勿論ですが。とはいえ、漫画やアニメは時として作り手が意識していないところで世相を反映してしまうもので、教育番組もその例外ではありません。だからこそ、「おかあさんといっしょ」という名前の番組がいつまで「親が欠損した世界」のまま存続するのか、この先わが子が成長して教育番組から卒業した後でもこっそりチェックしようと思います。

2016年3月27日日曜日

日本人は世界で最も「脳化」しているんじゃないだろうか

またもや欧州でテロが発生してしまいました。今回の事件発生の直後にテルマエ・ロマエの作者ヤマザキマリ氏(イタリア在住)が「こちらでは昨日からネットもテレビもラジオもブリュッセルのテロのニュース尽くしですが、日本ではどの程度までの惨事の写真が報道されているのだろう」とtwitterでつぶやいてたのですが、このコメントは大半の日本人にはご本人の意図通りに理解されないだろうなと思ったので、今回はその話をしようと思います。
というのも、海外のニュースだとこの手の悲惨な事件の際には死体や怪我人を写した生々しい映像が当たり前のように出てきます。フランスのテロ事件のときも、海外のメディアではコンサート会場が死体で埋め尽くされている写真が当たり前のように使われていました。ところが、日本のメディアは静止画・動画を問わず基本的にこういった生々しい死体や怪我人の映像を使いません。各国のニュース映像をそのまま使っているNHKの「ワールドニュース」でも、死体が映るときにはモザイクがかかってますが、これはおそらく日本のAVにモザイクがかかっていることに通低する理由からだと思います。

ここまで徹底して日本人が怪我人や死体を忌避することを説明する上で、僕の知る限りでは養老孟司氏の「脳化」という概念が一番適切なんじゃないかと思います。「脳化」についての僕の理解を手短に書くとこういうことです。
・ 人間が作り出すものはすべて脳の産物であり、「都市」はその最たるものである
・ 日本は江戸時代から「都市化=脳化」した
・ 脳は予測と統御を行う器官なのでコントロールができない自然を忌避する
・ 人間の身体も脳にとっては忌避すべき自然の一部である
・ 江戸時代に死体=自然は市街地から徹底的に排除され人の目の着かないところへ追いやられた
スペインに2年住んで日本に帰ってきたときに、この「自然=身体性」についての感覚がスペイン人と日本人では大きく異なっているように感じたのを覚えています。当時の印象を率直に言うと、日本人のあらゆる行動は身体性を忌避した脳的な欲求の追及だけに向けられているように見えたのです。別の言い方をすると、「首から上とスマホだけで生きてるように見える人」が結構な数いるように感じたのでした。こう感じた理由は、スペインでは自己責任で危険を回避する、身を守るということに常に気を配っているのが当たり前だったために、常に身体を意識する必要があったからだと思います。つまるところ、危険が排除されていて安全な社会でなければ「脳化」できないのでしょう。

江戸時代によってもたらされた「脳化」を軸に考えると、その後の日本の歩みも江戸時代に築かれた土台の上に成り立っているように見えます。例えば、日本が開国後に急速に近代化できたのは、江戸時代にすでに日本人は十分に脳化していたおかげで西洋文明をすんなり受け入れることができたからだと言えるのではないでしょうか。また、漫画やアニメがあれだけ発展したのも、「脳化」の恩恵によってもたらされたバーチャルと現実の垣根をあまり意識しない国民性があればこそなのではないかと思います。
ここまで日本人が国民規模で「脳化」されるには上記の通り平和で安全な時間が長く続くことがおそらく不可欠だったんだろうと思います。逆に言うと日本以外の国の人が日本人ほど「脳化」していない理由は、彼らの歴史には日本の江戸時代のように200年以上にも渡る平和な時間がなかったからではないでしょうか。戦争がある程度の頻度で発生するような世界では人間の意識は身体に向かってしまうので「脳化」の方向には向かわないだろうと思います。こう考えると、学生運動やベトナム戦争が終わった70年代後半から漫画やアニメに熱中する所謂「オタク文化」が発展したことも偶然の産物ではないと思います。

こう言ってると何でも「脳化」と説明したくなってくるのですが、勿論日本人の数々の民族的奇習を「脳化」だけで説明するのは無理です。しかしながら、日本人の作り上げた社会を見る視点として「脳化」は非常に的を射ていると思います。

2016年3月15日火曜日

コンプライアンスというのは「罪の文化」の概念だと思う

コンプライアンス(日本語にすると「法令順守」)という言葉を最初に聞いたのは、10年以上前にまだ会社に入りたての頃だったように思います。日本の会社組織ではどこにでもあるんだろうと思うのですが、ある日突然トップダウンで「猫も杓子も」状態で一つのキーワードだけが一人歩きする「祭」状態が始まることがあるのです。当時、エラい人がうわ言のように「コンプライアンス」って言ってたのを僕は今でも覚えています。
今にして思えば、2000年頃に猫も杓子も「とにかくコンプライアンス」とか「とにかくISOを取らなきゃ」って言ってたあたりから日本の会社はダメになりはじめたんじゃないだろうかと思うのですが、日本にたくさん会社があるのにどこも自分の会社と同じなわけないと思いたいし、そもそもこういうことを手放しで他人のせいにするには僕も歳をとりすぎました。おじさんになってくると、自分もこういうシステムの一部として生きながらえていることに、やんわりと共犯意識のようなものがあるのです。

先日、会社全体に対する「コンプライアンスについての意識調査アンケート」なるものが実施されました。このアンケートの中の設問に「あなたはコンプライアンス違反が疑われる場合に、コンプライアンスマニュアルに記載の手続きに則って会社のコンプライアンス委員会に通報すると報復的な扱いを受けると思いますか?」という項目があったのを見て、なんともいたたまれない気分になったので、本日はその話をします。このいたたまれなさの原因は、「一神教原理=絶対的な善悪の審級」に所属するコンプライアンスという概念を結局日本人には全く咀嚼できないことにあるのですが。順を追って話すために、話を2000年頃に戻します。
「コンプライアンス」という言葉が突然現れて、エラいおじさん達がうわ言のように毎日「コンプライアンス、コンプライアンス」と言い出した頃に、コンプライアンスについて社員に教育するためのビデオを社員全員で集まって見たことがありました。このとき見たビデオがまず最初に言ったことは「コンプライアンスに対して取り組まないと会社の株価が下がる」という話でした。このときに、「法令を守るという倫理観の話を金儲けの話に矮小化してしまうのはなんかおかしくないか?」という疑問を感じたのですが、当時の僕はそれに本気で憤るには若すぎたのでした。別の言い方をすると、「こんなみっともないことを言っている会社と自分のあり方とは何の関係も無い」と思えたのでした。若いって素敵ですね。
さておき、そのときに感じた「金の話に矮小化して倫理感の問題を論じるマインド」に対する違和感というのは、後年に内田先生の「原発問題を日本人は金の話にすり替えて安心しようとした」という話を読んだときに、「ああなるほど、これと同じ話だ」と思ったのでした。ちょっと長いけど引用します。

日本人は原子力に対してまず「金」をまぶしてみせた。
これでいきなり「荒ぶる神」は滑稽なほどに通俗化した。
「原子力は金になりまっせ」
という下卑たワーディングは、日本人の卑俗さを表しているというよりは、日本人の「恐怖」のねじくれた表象だと思った方がいい。
日本人は「あ、それは金の話なのか」と思うと「ほっとする」のである。
金の話なら、マネージ可能、コントロール可能だからだ。
なんでも金の話にする人間というのがいるけれど、あれは別に人並み外れて強欲なのではなく
(そういう面もあるが)、むしろ人並み外れて「恐怖心が強い」人間なのではないかと思う。
出版社系の週刊誌の基本は「人間は色と欲でしか動かない」というシンプルな人間観だが、
それは彼らがそう信じているということよりもむしろ、そう「信じたい」という無意識の欲望を映
し出していると考えた方がいい。
彼らは「よくわからない人間」が怖いのだ。
どういうロジックで行動するのか見えない人間に対して恐怖を感じると、彼らは「それもこれも、
結局は金が欲しいからなんだよ」という(自分でもあまり信じていない)説明で心を落ち着かせ
るのである。
その手を日本人は原子力相手に使った。
「原子力というのはね、あれは金になるんだよ」
そう言われ、自分でもそう言い聞かせているうちに、原子力という「人外」のものに対する恐怖心が抑制されたのである。
なんだ、そうなのか。あれはただの金づるなのか。なんだ、そうか。そうなら怖いことなんか、ありゃしない。
ははは。ただの金儲けの道具なんだ、原子力って。

「コンプライアンス」についてのビデオも結局同じようにコンプライアンスという物を「金儲けの話」に矮小化して納得させようとしてたんだと思います。しかしこれは一方で、「コンプライアンス」の存在意義に鑑みると致命的に本末転倒だったんだと思います。
以前言及した「罪の文化」「恥の文化」の観点から言うと、コンプライアンスという概念は「罪の文化」、もっと言うと「一神教 = 絶対的な善悪の審級」の概念が大前提にあるわけです。コンプライアンスを簡単な一言に置き換えると「悪いことしてはいけませんよ」だけなんですが、その前提として”絶対的な善悪の規範を前提として”という暗黙の但し書きがついているわけです。これを理解しないまま金儲けの話に矮小化させてコンプライアンスを社員に説明することで、「金儲けのためには単に金を稼ぐだけじゃなくてそれなりに社会の目も気にする必要があるからさー。あんまりハデに目立つような悪いことはやっちゃダメだよ。」という「恥の文化=日本人」に理解できる話にすり替えてしまったんだと思います。

こういう文化背景を理解しないままうわべだけコンプライアンスを日本社会に導入した結果、
 ・ コンプライアンスに過剰に配慮した結果としての「事無かれ主義」の横行
 ・ 「悪いことしてもバレなきゃいい」という偽造・隠蔽
という両極端な悪影響が出ただけなのではないでしょうか?たとえば企業不祥事の元祖である雪印事件は、日本にコンプライアンスという言葉が上陸しはじめた2000年の話です。

2016年1月31日日曜日

日本という国ではネットはテレビに勝てなかった

1月中旬頃はSMAPの解散騒動→謝罪コメントに日本中が大騒ぎしていたのですが、最近ようやくひと段落してきました。これを書いている現在はベッキーに再びフォーカスが戻りつつあるのですが、これもSMAPの騒動を鎮静化させるためにマスコミが意図的にジャニーズに気を使ってベッキーを叩いているんじゃないかとちょっと勘ぐりたくなるくらいです。
沈痛な面持ちのSMAPによる謝罪コメントは、「テレビというサル山のボスがSMAPにマウンティングして見せることを通して、日本国民に対して『オマエらの主人はテレビだ。わかったか?』と言っている」ように僕には見えました。つまり、日本人を隷属させてきたテレビというメディアが、その子分であるSMAPをテレビの中で公開処刑して見せることによってその地位を改めて国民に知らしめたように見えたのです。別にこういうことは今に始まったことでもなく、古くは豊臣秀吉が腹心だった千利休を処刑したり、現代でも北朝鮮でNo.2やNo.3が時々粛清されるのと同じような話だと思います。
ベッキーの場合は「体裁上は記者会見だけど、記者との受け答えは無し」でしたが、SMAPの場合は「記者会見でさえなく、テレビ番組の構成を変更して謝罪放送に充てた」という形になりました。つまり、両者とも一方通行なコミュニケーションによってすべてが発信され、特にSMAPの件ではテレビの中だけですべてが進むことで「マウンティング」がより強調されたように見えたわけです。
あんまり上手いたとえではないのですが、SMAPの謝罪会見を見た日本人は「いつも一緒に遊んでいる友達のリーダー格の子(SMAP)が親(テレビ)に怒られている」とか、「部活のキャプテン(SMAP)が顧問の先生(テレビ)に部活全員を代表して怒られている」といった光景を一方的に見せ付けられているような気分になったのではないでしょうか。

インターネットが世の中に普及し始めた頃には、「『最大多数の最大幸福』のためのメディアであるテレビはもはや過去のものとなった。これからはインターネットによってマジョリティとマイノリティの情報資源格差がなくなり、あらゆる個性が平等に情報発信を行える時代になる。」みたいなこと言って鼻息荒くしていた人がたくさんいました。
あれから20年近く経ったわけですが、本当にそうなったんでしょうかね?マイノリティによる情報発信やコミュニティの形成についてはインターネットは確かに一定の貢献をしたのでしょうが、「『多数派でいたい』という人が多数派」であるのこの国では、結局テレビというメディアが相変わらず高い影響力を維持しているのではないでしょうか。おそらく、先進国の中でも日本という国は特にテレビの影響力が高いと思います。


インターネットの存在を抜きにして考えても、日本のテレビはパーソナライズという概念と真逆の道を進んできたと思います。NHK以外の民放はお互いに似たような番組をひたすら作って凌ぎを削り、BSデジタルが登場してチャンネル数が増えても結局どのチャンネルでも似たような旅番組や通販番組が流れています。僕はリーガ・エスパニョーラの試合を見るためだけにWOWOWと契約していますが、WOWOWやスカパーのような有料放送にお金を払ってまでテレビを見るのは未だに日本では少数派です(そのくせNHKにはみんな文句言わずにお金払うんですけどね)。昔からCATVなどによって多様性(diversity)の方向に拡張したアメリカのテレビと比べると、日本のテレビはこの真逆の方向に進んできたのだと思います。
AppleTVという製品があります。おそらくApple製品の中でも、Apple Watchと並んで(ガジェット好き文脈での)Apple信者以外には全く見向きもされない製品なのですが。このApple TVが日本で全くと言っていいくらい受け入れられない原因は、日本人がテレビに求めているのは「多数派のためにつくられた番組を他人と同じように視聴する」ことだからなんだと思います。よって、これと真逆のアメリカ式の「テレビのパーソナル化」の延長上にあるApple TVが受け入られる風土がそもそも日本には無いわけです。


かつて「ネットとテレビの融合」を掲げてホリエモンはフジテレビを買収しようとしましたが、そんな彼も今では”東大卒タレント”枠ですっかり芸能人としてテレビの世界に安住しています。彼がテレビに出てくる度に受ける印象はSMAPの謝罪放送と同様に「テレビによる公開マウンティング」であり、そんな彼をテレビで見ていると「日本では結局ネットはテレビに勝てなかった」としみじみ思うのです。

2016年1月16日土曜日

辞書を捨てよ 正解の外側へ出よう

年末にNHKでスペインの新興政党PODEMOSの特集を見ました。PODEMOSは"私達はできる"という意味で、リーマンショック以降深刻な経済危機が続くスペインの低所得層や若者の支持を背景に急成長した左派政党です。この政党が昨年末の選挙で大躍進を遂げた理由の一つに、パブロ・イグレシアスという(これを書いてる現在で)37歳の党首のカリスマ的な人気があります。
この人は前職は大学の政治学の先生だったのですが、見た目も立ち振る舞いもとにかく政治家らしくないのです。細身の身体に安そうなシャツを着ていて、髪の毛はかなり長くて後ろで束ねています。そして何より、自分の意見をただひたすら主張するのではなく、人の話を聞いたり相手に喋らせた上で少ない言葉数で的確に切り返すのがすごく上手なのです(在西日本人の方がこの辺は詳しく書いてます)。
PODEMOSについては賛否両論あったりするようなので、よく知りもしないで手放しで彼等を絶賛する気にはなれないのですが。少なくともパブロ・イグレシアスは「人と話し合うことができる」という点では政治家としてマトモだと僕は思います。もちろん日本の政治家だけが特別ダメというわけでもないのですが、日本の政治家で彼のように人と話し合える人を見た記憶が無いのです。日本の国会では、それぞれの議員が自身のイデオロギーや政策を一方通行に唱えたり、対立する相手の足を引っ張ろうとしたりしているだけで、生産的な対話や話し合いの場として機能しているようには見えないのです。

物の考え方が違う相手と生産的な対話ができないのは国会議員に限った話ではなく、日本人の作る社会全体の問題で、これについては平田オリザが「ニッポンには対話がない」という、そのまんまのタイトルの本を書いています。この本については以前このblogでも紹介しているので詳しくはそちらをご参照いただくとして、この本を読んだ上でこういった日本人のコミュニケーション力の問題について僕が一つ付け加えるとすると、日本人は「(唯一の)正解」に対する執着が強すぎるので相手と対話したり、柔軟に折り合うのが下手なんじゃないかなと思います。
日本人の正解に対する執着が端的に現れていると思った例を一つご紹介します。国際学会で英語の苦手な日本人が事前に用意した原稿をひたすら機械的に棒読みして発表するのを何度か見たことがあります。原稿を用意しないといけないレベルの語学力ということは、当然発音も滅茶苦茶なわけで、そのレベルの人が聴衆やスクリーンを一切見ずに一心不乱に原稿を機械的に棒読みすると、結局ほとんど何も伝わりません。同じ日本人として気持ちはすごく分かるのですが、おそらく彼等は語学力の壁に対する恐怖心のために、事前に用意した原稿という「正解」との閉じた関係の中に安住したがっているんだと思います。しかし、そもそも学会というのは発表した後に聴衆からコメントをもらったり議論したりするために存在するので、最初から聴衆とのコミュニケーションを拒絶している態度というのは学会発表を行う意義からして本末転倒なんじゃないかと思います。

そして、わが国の首相も「正解」にかなり依存/執着しているようです。普段は国会審議中だろうがどこだろうが、あらゆる場所で事前に用意された原稿を手に演説の練習をしているそうです(ここにもありました)。その結果として、2015年の安倍晋三の発言の中でもダントツでひどかった「国連での『難民と移民の区別が全くできてない記者会見』」という大失態を国際舞台でやらかしました。というのも、どうやら普段日本では記者会見での質問が事前に提出されているんだそうで、つまり、我々国民がテレビを通して見る彼の発言はほとんど事前に原稿が用意されているようなのです。しかし国連ではそれができなかったために、予定外の質問を受けた結果としてあの滅茶苦茶な受け答えになってしまったようなのです。日本のメディアではそう大きく取り上げられませんでしたが、官僚の作文した「正解」が与えられていない素の状態だと難民と移民の区別もつかないような人が首相を務めていることが露呈してしまったという点では大事件だと僕は思います。
やや脱線しますが、これだけ安倍晋三が事前に作られた「正解」に依存しようとする背景には、マスコミの取材や質問に対してほとんどアドリブで全部切り返した小泉純一郎という特殊な才能を持った政治家の存在があるのではないかと思います。ただし、今考えると小泉の受け答えがパブロ・イグレシアスのように理知的で洗練されていたかというと決してそんなことはなく、「言ってることが滅茶苦茶だったり全然話が噛み合ってなくても、なんとなく納得させてしまう能力」=簡単に言うと「愛させる能力」が高かっただけなんじゃないかなと思いますけどね。

話は戻って、本稿のタイトルにもある「辞書」なのですが。日本人って語学力に不安があると海外で電子辞書を持ち歩きたがりますよね?なんて偉そうに言ってますが、僕も初めて海外出張するときにポケットサイズの電子辞書を買いました。でも、その電子辞書は出張中ずっと「お守り」として胸ポケットに入れてただけで、一度も使いませんでした。辞書をお守り代わりに持ち歩くのも、学会発表や記者会見の話と同様に「正解」への執着がもたらす日本人の民族的奇習なのではないでしょうか。
スペイン在住時に語学学校に通っていた時期があったのですが、ここでも語学教室に辞書を持ち込んでいたのは日本人の僕だけ(ほかの生徒は全員欧米人でした)でした。このときは語学学校なので、「お守り」ではなくそれなりに真剣に語学を勉強する上で必要なツールとして僕は持って行ったわけですが、他の欧米人の生徒はそれさえも必要ないと思ってるみたいでした。ある生徒曰く、「辞書があれば便利そうだけど、語学学校なんだからわからない単語はその場で先生に聞けばいいんじゃない?」なんだそうです。なるほど。結果として「電子辞書を持ち歩くハイテク日本人」という、欧米人の思い描く日本人のキャラをまんまと語学学校で演じて差し上げてしまいました。

経済だけとってみればそりゃスペインは日本に比べてガタガタですが、一方では一般市民が気軽に政治について話し合ったりデモに当たり前のように参加したりと、市民社会としては日本よりもはるかに成熟していると思います。だからこそ、国難においてパブロ・イグレシアスみたいなマトモな人も出てきたんじゃないでしょうか。
残念ながら日本だと、対話どころか「口げんかの勝ち負け」にだけこだわる橋下徹みたいな人しか出てこないのですよ。でもこれは彼一人の個人的資質の問題ではなく、「正解」に執着するあまりに生産的な対話ができない我々日本人全体の問題なんじゃないでしょうか。