2015年4月19日日曜日

イデオンを見てたおじさんがGのレコンギスタを語ってみる

このblogにアニメの作品の感想をそのまま書くなんていうことは一回もやったことがないのですが。今回は3月末で放映が終了した「Gのレコンギスタ」というアニメをやっとこさ先日最終回まで見終わって、その感想を書き残しておきます。僕にとってはロボットアニメは血のようなものなので、ましてや富野監督が15年ぶりに直々にガンダムを手がけるとなると、「逆襲のシャア以降の富野監督はガンダムという名前の作品で今までのガンダムとは違うものを作りたがってるのはわかるんだけど、なんだかなー」とかなんとか文句言いつつ、子供が生まれてからテレビを見れる時間も限られていつつ、それでも結局は見ちゃうんですよね。

■エネルギー=欲が宗教によってコントロールされた世界
この作品では地球を含めて全人類の利用するエネルギーは金星で作られるフォトンバッテリーによって賄われています。そのフォトンバッテリーを地上へ運んでくる軌道エレベーターを神聖視するスコード教にすべての人類が帰依していて、科学技術を発展させることはおろか、太陽光パネルを地上に設置することさえもスコード教によって「タブー」として禁止されています。こういう世界になった背景には「欲に任せて拡大路線を続けた結果、人類が一度滅びかけた」という設定が裏書されています。
この作品での「エネルギー」というのは日本における原発がどうこうとかいうよりは「人間の欲」とそのまま直結していて、「限られたエネルギーで可能な範囲に欲をコントロールしながら世界と調和しなければ人類は滅びてしまう」「欲のコントロールを可能にするのは宗教くらいなのではないか」というメッセージを僕は感じ取りました。もっと深読みすると、「社会主義は頭でっかちな理屈でしかなかったので欲のコントロールができなかったけど、宗教ならばそれが可能なのではないか?」と言ってるようにも思えました。

■イデオロギーが違う ≠ 敵
ガンダムという作品が確立したのは「イデオロギーによって世界はいくつかの陣営に分断され、それぞれの陣営の理念や理想を演説しながらロボットに乗って戦う」「リアルな戦争を描いているので、敵陣営とは個々人では理解し合えることはあっても、組織としては反目しあうだけ」という図式で、これはその後のリアルロボットアニメの多くにもそのまま受け継がれたんじゃないかと思うのですが。Gのレコンギスタでは富野監督がこの図式(と、基本的に変わらない現実の社会)に対して意図的に「そうじゃない世界」を描こうとしたんじゃないかと思うのです。
Gのレコンギスタの登場人物は、全員がスコード教という宗教の信者です。別々の陣営に分かれて戦争をしている一方で、お互いにまったく相容れないわけではなく、共通の宗教感は共有しているわけです。なので、ついさっきまで宇宙でロボットに乗って殺し合いをしていたかと思うと、地球へのエネルギー(フォトンバッテリー)供給源のご機嫌を損ねないために突然一緒に協力して宇宙のゴミ拾いを始める…なんてことが起きたりするのです。このくだりは見てる側には「はぁ?」としかならないわけですが、たぶん富野監督の意図はまさに「はぁ?」って言わせることだったんじゃないかなー?と思います。

■特定の組織の利害だけに囚われるキャラクターは全員死ぬ
死亡していくキャラを列挙しようとしてひとしきり疲れたところに、便利なまとめ動画がありました。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm25928085
この作品で死んでいくキャラクターに共通するのは、「特定の組織やの利害だけに囚われている」ということです。こうやって死んでいくキャラクターの大半は悪そうなキャラ(先々死ぬのがなんとなく予想できる)として描かれているのですが、中にはそうでもないキャラクター(例えばアイーダの父やキア隊長)も含まれています。特に初期にあっさり死んでいったカーヒル大尉とドレンセン教官などは、周囲の人望も厚い人物として描かれています。この二人はかつてのガンダムであれば主人公の頼りになる兄貴分的な位置付け(初代ガンダムで言えばリュウとかスレッガー)で活躍しそうなのに、初期の数話であっさり死んでしまったのはこの作品のルール(「特定の組織の利害に忠実=模範的な軍人タイプは死ぬ」)を示すためだったんじゃないでしょうか。
最後にクリム中尉が自分の父親を殺そうとするのはまさにこのルールの実践なんだと思います。

■メガファウナ(海賊船)は出自を問わず人を受け入れる箱舟
元々キャピタルガードだったベルリ少年がふんわりと敵だった海賊船に所属するところから始まり、メガファウナに集まって定着するキャラクターはラライアとリンゴ(トワサンガ)、マーニィ(キャピタルアーミー)、ケルベス中尉(キャピタルガード)と、悉く出自がバラバラです。そして、定着にいたる経緯とか葛藤といったものは一切描写されていないので、見ている側としては「あれ?なんかよくわかんないけどアイツも仲間になったんだ」とか思ってるうちにいつの間にやら当たり前のように一緒に戦ってるわけです。
例えばZガンダムでエマ中尉がエウーゴ側に寝返った直後には、「監視カメラの無い部屋にエマ中尉は入れない」といった描写がされていました。だけど、Gのレコンギスタではそういう軍隊としてのリアリティみたいなのを描くことにそもそも富野監督自体が関心がなさそうに見えるのです。そんなことより「はぁ?」って言わせたかったんじゃないかなと思うのですね。

■Gセルフ / クレセントシップ / ベルリとアイーダの両親  =  イデオン / ソロシップ / イデ
結局のところベルリとアイーダの両親は何の意図を持ってGセルフやクレセントシップを作ったのか、その意図はよくわからないのです。ひとつだけ確かなことは、ベルリやアイーダがGセルフに乗ってやってくるのをクレセントシップはずっと待っていたということです。その後、「ベルリとアイーダの両親 = イデ」の意思を乗せたGセルフとクレセントシップに導かれてベルリ達は地球に帰っていく…いろんなことを端折ってまとめるとそういう話のように見えるのです。
どうしてもGのレコンギスタとイデオンと比較したくなるおじさんとしては、Gセルフとクレセントシップはイデオンとソロシップそのもののように見えちゃうんですね。最終的にはクレセントシップは生き残った(上記の死亡ルールに該当せずに仲良しになった)人達を全員乗せた箱舟として旅立ちます。イデオンみたいに皆殺しにはなってないですが、イデオンのラストとどうしてもカブるんですよ。

以上、ネット上での評判を見た限りでは、Gのレコンギスタは「世界観の説明が不十分」「キャラクターの心情の描写が不十分なのでキャラクターの行動が突飛で不可解に見えて感情移入しにくい」、つまり簡単な一言で言うと「意味がわからない」と、酷評されているように見えます。そう言いたくなる気持ちはものすごくよくわかるんですが、富野監督は「人類が一度滅びかけた後に宗教戒律によって欲をコントロールして生き延びた後の、今より何千年後の世界には現代人に理解できないことが沢山あって当たり前。」と半ば割り切っているようにも見えます。
そして、「そんな今までの常識では理解できないような新しい世界観にこそ、人類の抱えるあらゆる問題(環境、エネルギー、戦争…)を解決する可能性があると期待してみてはどうか?」という問いを投げかけているようにさえも見えます。

と、これだけ好意的に評価しておきながらどうしてもこれだけは気に入らないということが一点だけありまして。それなりにスペイン語やってた立場から申し上げますが、「レコンギスタ」はどう考えてもダサいっていうかセンスを感じないです。このタイトルはこの作品において一番致命的な欠点だと思うということは最後に申し上げておきます。

2015年3月24日火曜日

今更ですいませんが、AKBについてちょっと

2012年8月。2年間スペインに滞在した後に日本に帰ってきました。そのときはスペインと日本のギャップが大きすぎてそりゃまぁ色々つらかったのですが。帰ってきたときに驚いた事の一つに、僕の歓迎会を開いてくれた三十代半ばの同期が全員「AKBの押しメン」について一家言あって、その話題で結構な時間盛り上がってたことなのですね。いや、AKBの存在はスペインでも認知できていましたが、そこまでと浸透しているとは思わなかったのです。

AKBというグループを日本に帰ってきて最初に見た感想は「なんでこの人達は必ず全員一緒に歌うんだろうか?」だったのです。これまでのアイドルグループはそれぞれのソロ歌唱パートが曲のどこかにありました。これは、恒常的なメンバーチェンジという概念を導入したモーニング娘でさえも継承してきた伝統なんですけど、AKBはそれをあっさり捨ててしまったかのように見えたのです。
この「全員で一緒に歌う」というスタイルはおそらく「総選挙でメンバーが格付けされて入れ替わる」というシステムと不可分の関係にあるのでしょう。個々人のソロパートなどが存在しなければ、総選挙でメンバーが入れ替わっても以前の曲をそのままレパートリーとして使い続けられるわけですから。

こういうこと言ってると自分が本当におじさんになったなぁとしみじみ思うのですが、つまるところAKBは
・お客様=市場原理の格付けに対して従順である
・全員が入れ替え可能な部品である
・基本横並びの扱いの中でのローカルな差異や格付けに心血を注ぐ
といった具合に、日本の若者に期待されるロールモデルそのものなんじゃないかと思えるのですね(たぶん同じ事を言ってる人がすでに100人くらいいそうですが)。
だけどこうやって列挙してみるとAKBは日本ローカルでしかウケなくて、日本人以外に受容される可能性は極めて低いんじゃないかと僕は思うのですが。なんで秋元康はAKBを海外に輸出できると思ったんでしょうかね?実際に秋元康はAKBをクールジャパンのコンテンツとして海外に輸出しようとしてJKT(ジャカルタ)とか作ってましたけど、結局は鳴かず飛ばず(のように僕には見える)ですよね?しかも、それでも未だに秋元康はクールジャパンの推進委員会だかに名前を連ねていて、安倍晋三とも仲良さそうなのがどうも不思議なんですよね。。

AKB商法というのは「総選挙に投票するためにCDを買う」というお客さんを作ったことで、音楽=CDの存在意義をビックリマンチョコのチョコ部分程度まで落としめたと思うのです。この歴史的意義はあと10年くらい経ったときに何かしらの評価を受けるでしょうが、ビックリマンのシール(だけじゃなく、食玩やペットボトルのキャップなど)を集めるのに熱中する文化もたぶん日本人以外にはなかなか理解されないかなー?と思うのですよ。

2015年1月26日月曜日

イスラム国人質事件と戦後の終わり

これを書いている現在、イスラム国に二人の日本人が誘拐されて身代金を要求された事件は「タイムリミットの72時間を過ぎ、どうやら湯川さんだけが殺害されたようだ。」という状況です。
本件に関連して、イスラム国と日本の間をつなぐことが可能と思われるイスラム法学者の中田考先生(http://blogos.com/article/104005/)は、公安に押さえつけられて身動きが取れなくなっている立場を押して会見を開きました。彼の会見からは「日本人に理解されるとはそもそも期待してないけど、それでもここで何もしないよりはマシ」という、諦めが大前提にあった上での切実で真摯な空気が感じ取れると同時に、安倍晋三および日本政府の外交がいかに中東情勢を理解しない素人の立ち振る舞いであるかを静かに糾弾しているように見えました。
この事件に対する安部晋三及びその支持者であろう右寄りの方々の反応を見てると、この国の国民やってるのがどんどん嫌になってくるのですが、まぁその辺の話を順を追って。

まずネット上のニュース等でよく見かける「自己責任」という言葉を使う人々について。
自己責任という言葉の根底にあるのは以前取り上げた恥の文化という日本独自の心性なんじゃないでしょうか。わざわざ危険な場所に出向いてイスラム国に人質になるようなことは「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦前の戦陣訓と同じ「恥の感覚」に基づいて人質になった二人を非難しているように思えるのです。
この件に対する反応はアルジェリア人質拘束事件のときと極端までに正反対のように見えるのです。あの当時の日本の論調は「イスラム過激派に襲われて不慮の死を遂げた企業戦士の英霊」みたいな形で、亡くなった方々を悼む作業に過剰なまでに日本全体が熱中しました。そこに乗った安倍晋三は遺体回収に政府専用まで出すお手盛りぶりで犠牲者を遇したのでした。当時、細々ながらネットに「ハイリスクハイリターンの油堀りに自分から行って死んだんだから自業自得だ」みたいなことを言う人もいましたが、ものの見事に叩かれていたのを覚えています。でも、職業的必然性によって危険な場所に赴いたという点では今回人質にとられた二人とアルジェリア人質拘束事件の被害者は何も変わらないんじゃないかと僕は思います。
彼等の評価を分けた要因は「生きて虜囚の辱めを受けた挙句に身代金を要求される事態に至り、日本政府を含む多くの人に迷惑をかけた」か、「テロリストに問答無用で殺害されて非業の死を遂げた」かの違いでしかありません。つまり「生きて虜囚の辱めを受けず」を守ったかどうかの違いでしかないのです。もしかしたら現代の日本では人様に迷惑をかけない教の支配がもしかしたら戦前以上に強いんじゃないかとさえ思います。
さらに何が問題かというと、「自己責任」という言葉を使う人の頭の中では「わざわざそんな危険な場所に自分から出向いていったのが悪い」ということと「殺されても仕方がない、身代金なんて払う必要はない」が何の躊躇もなくイコールで結ばれてしまっているように見えるのです。
二人の日本人がイスラム国に捕らえられて人質になったのはだいぶ前の事ですが、殺人予告ビデオに引っ張りだされて身代金を要求された挙句に殺害される結果になったのは安倍晋三が中東の西側寄りの国を外遊して不用意にイスラム国を刺激したり「戦う」なんていう言葉を不用意に持ち出したからです。
「自己責任だから殺されても仕方ない」と言っている人たちは僕の想像ではネトウヨなどに代表される安倍晋三支持層なんだと思いますが、この人達は二人の日本人が殺害予告の対象になるような結果を招いたことが御自身の支持する安倍晋三にある、翻って自分にもわずかながら責任があるという意識が全く無いんだろうと思うのです。

そして、安倍晋三の「テロには屈しない、戦う」と向かって言い張る姿勢を評価する人達って、「テロは許されるべきでない」と「戦う」が何の躊躇もなくイコールで結ばれているように見えるのです。テロは許されるべきではないのは誰だってわかります。だからって不用意に「戦う」なんて言うと尚のこと日本および日本人がテロの標的になってしまいます。この辺りを「煮え切らない態度の末にやりすごす」という一昔前までの日本の政治のような立ち振る舞い方が安倍晋三には致命的にできないのです。わざわざイスラム国の反感を煽るような言動の後に「卑劣なテロの被害者」という被害者の立場を先取して自身を正当化しにかかるという外交政策は、日本を大東亜戦争へと導いた戦前の日本の外交政策のロジックそのものです。
現在の中東情勢の背景には中東のイスラム教徒が西側諸国に振り回されて不当に扱われてきた歴史があります。こういう歴史的背景をわきまえずに不用意に西側諸国の側について「戦う」とか言ってしまうと、イスラム教徒の立場からは「十字軍に参加した」と見做されて、積もりに積もったイスラム教徒の西側諸国への恨みまで一緒に引き受けてしまうことになってしまうわけです。そのことがもたらす災厄を安倍晋三およびその支持者は過小評価しすぎているんじゃないかと思います。
もっと言うと、外交というのは「僕ちゃんの正義」が最初から通用しない相手と交渉することだという感覚が彼等には無いんだろうと思います。あんまりこういうこといいたくないけど、これこそが「島国根性」という心性(分かり合いたがりすぎる、分かり合えると期待し過ぎる)のように僕には思えます。

しかしながら、日本政府というか安倍晋三が目指していたのって最初から今回のような結果になることだったんじゃないかなと思うのです。つまり、西側諸国と同じように「テロの標的になる」「テロと戦う態度を示す」「イスラム国と交渉する」ことこそ彼らが望んでいたことなのではないかと。だから中田考氏のようなイスラム国の側の考え方を理解できる人材を人質解放の交渉に活用するなんて彼は最初から望んでいないんだろうと思うのです。
繰り返しになりますが、かくして「相手のことを考えない、相手の土俵に乗ろうともしない」という稚拙で一本調子な外交の末に「悪のテロ組織によって貴重な人命が失われた」と、被害者の立場を先取して自身を正当化することは、日本を大東亜戦争へと誘導した戦前の日本政府と何も変わりません。政治に携わる人は「僕ちゃんの正しさをわかってもらう」ことよりも国民の生命、自由、権利といった「国民の利益」に重点を置くべきですし、そもそも「僕ちゃんの正しさ」だけ吠えてればいいんだったら政治なんて必要ありません。

かくして日本という国は戦後70年にわたって平和憲法と煮え切らない外交によって維持してきた「他国から敵と見做されない立場」をとうとう捨ててしまいました。この状況は別の言い方をすると「戦後」が終わり、新たな戦争の「戦前」かもしくは「戦中」に入った事を意味しています。というような事を誰かが言ってたのを読んだ気がするのですが、誰だったか思い出せないので参照もせずにそのまま使わせていただきます。若しくはこうやって戦争に巻き込まれに行くことが安倍晋三の言う「戦後レジームからの脱却」なんでしょうかね?
今度の戦争においては従来型の戦争のように明確な戦場という場所がたぶんありません。テロは当たり前のように市民生活が営まれている場所で発生します。日本でテロ事件が発生したときに被害に遭うのは、今回のイスラム国による人質事件の被害者を「自己責任」と断罪した方々かもしれませんし、僕なのかもしれません。「自己責任」や「卑劣なテロ」という言葉を使って事態を「正義」と「悪」のような簡単な図式に落とし込むことで知的負荷を減らしたがる方は、一度その事について考えていただけないかなぁ。と、日本国民の一人として思うわけです。

2015年1月3日土曜日

ヨルタモリは能に見える

30歳になったときに「そこから40になるまでびっくりするくらい早いよ」と職場のおじさんに言われたのですが。これ、本当にその通りで、気がついたら四捨五入して余裕で40歳になってしまうような年頃になりました。こうやっておじさんへの道を着々と歩んでいると、新しい何かを自分に取り入れるのがどんどん面倒になってくる反面、これじゃいかんという危機感も相まって、新しい何かに出会うとすごくうれしく思えるようにもなりました。
そんなこんなで、昨年新たに自分の興味の対象に「能」が加わったときにはなんだかすごくうれしかったのですよ。興味を持ったきっかけは例によって内田樹先生です。内田先生はフランス現代思想と合気道に加えて趣味として能をやっていて、能に関する講演や著作活動もしています。その影響で去年は何度が能楽堂まで実際に見に行ったのですが、そしたらこれが面白かったんですよ。あれはオーケストラなんかと一緒でテレビではなくライブの場で見るべきだと思います。

能の何がいいのかと聞かれると明快な答えはなかなか見つからないのですが、いろんな人に言われているように能は「祈りの芸能」なのです。あらゆる芸能は源流に遡ると大なり小なり宗教儀式という性格を持つのですが、中でも能は宗教儀式という側面をそのまま色濃く残している芸能なのです。だから、能を見に行くというのはお芝居を見に行くのと神社に参拝に行くのを混ぜたような不思議な感覚なのです。
そんなこんなで能や能に関する本ばっかり見てたら日本人のつくる物は妖怪ウオッチまで含めてなんでも能に見えてしまうようになりました。例えば、「千と千尋の神隠し」はあからさまに能の影響が見て取れます。川の神様(顔が能の神の面そのもの)を浄化する浴室の壁には老松が描かれていて能舞台を意識していますし、なにより話の構造自体が「ワキ(千尋)が異界へ引き込まれる→そこでシテ(川の神様、ハク、カオナシ)の苦しみを、ただ聞いて寄り添ってあげることによって浄化する」という、典型的な能の曲の構造になっています。

で、ようやく本題のヨルタモリなんですが。これも見事なまでに能の構造をしているように見えるのです。ざっくり番組について少し説明しますと、舞台は宮沢りえがママを務めている東京の架空のバーです。そこでゲストとタモリ扮する架空のキャラクターによるトークを基本として番組は進行するのですが。30分の番組の進行を時系列をおって記述するとだいたいこういう構成になっています。

  1. 宮沢りえとゲスト出演者とのトークで始まる
  2. しばらくするとタモリ扮する架空のキャラクターが登場する
  3. トークを繰り広げた後にタモリ扮する架空のキャラクターがトイレに行く
  4. トイレに行ってる間はタモリが別のキャラクターに扮する架空のテレビ番組が流れる
  5. 架空のテレビ番組が終わるとタモリ扮するキャラクターがトイレから戻ってくる
  6. しばらくトークして、タモリ扮するキャラクターがお金を払わずに帰っていく
能でいうと、宮沢りえ=ワキ、タモリ=シテです。
タモリが架空のキャラに扮して登場して、さらに途中で別のキャラクターになって架空のテレビに出てくるというフラクタル的な虚構の構造は能のシテが途中で正体(妖怪とか神とか)を現すのと同じように見えます。
そして。実は宮沢りえも暗黙のうちに「芸能人:宮沢りえ」と「架空のバーのママ」の間を行き来するのです(これは能のワキには普通見られないのですが)。宮沢りえが上記の1の場面では「芸能人:宮沢りえ」として昔話をしていることが多いのですが、タモリ扮する架空のキャラクターが出てくるといつの間にやら「架空のバーのママ」のキャラになります。その後また「芸能人:宮沢りえ」との間を暗黙のうちに行ったり来たりするのですね。
能の面白いところの一つは、同じ演者のキャラクターがいつの間にやら変わっていたり、時間がいつの間にやら何十年も後になってたり、場所が全然違う場所になってたりと、時空間が能舞台の上で変容していくところだと思うのですが。こういう観点からするとヨルタモリはとても能と共通する印象を受けるのです。


蛇足ですが「時空間の変容」という観点からすると、「ハウルの動く城」もとても能に近い印象を受けます。ソフィーが少女と老婆の間を行き来することや、城の中のいくつかの扉が全く違う世界に繋がっていることなんかが能っぽく見えるのですね。「千と千尋」と「ハウルの動く城」は製作時期も確か繋がっていると思うのですが、この二作は宮崎作品の中でも特に能に近い感性を感じるのです。

2015年1月1日木曜日

マニュアル本信者とスピリチュアル

だいぶ間が空きました。気がついたらもう年が明けてしまいました。そんなこんなでこのblogもほとんど文句ばっかり書いてる割には気がついたら一年半も続いてしまいました。昔から、一度始めたことを延々と続けることに妙に固執する性癖があるのです。小学生二年生のときには「冬でも半袖半ズボン」をやせ我慢の末に達成し、20代の頃はお正月に注連飾りを車につけてそのまま一年間走り続けたことがありました。というわけでこのblogも案外このまま続くかもしれませんし、突然ぱったりやめちゃうかもしれませんが、ともあれ今年もよろしくお願いします。
さて、例によっていきなり結論から入りますが、今回言いたいことは以前ネタにした「ビジネス書に対する態度がモテるためのマニュアル本信者と変わらない人達」とジェーン・スー女史が言うところの「スピリチュアルにハマる女子」はほとんど一緒なんじゃないかなと思ったという話です。
上記の両者のどっちらも根底にあるのは自身のポテンシャルと「特別な自分になりたい」という願望の間にギャップがあるということです。で、それを埋めるために女子の場合はスピリチュアルにハマり、男子の場合は何かしらのビジネス書などをマニュアル本として信仰する結果につながっているように見えるのです。いずれにせよ、願望と現実のギャップを埋めるための手段が「信仰」になってしまうということはこの両者に共通していると思います。

なんでこうなるかというと、小田嶋隆氏が小保方氏の事件に際して指摘していたいように、この国では「女子力」や「コミュ力」のような「虚力」によって実力が水増しできるというよく分からない信憑があるからなんじゃないかと思うのです。もちろん所詮は虚力なのでいざとなると役に立た無かったり、それだけに頼ってると小保方氏みたいになっちゃうんですけどね。
もうちょっと飛躍した話をすると、「全員が神に愛された特別な人間である」という前提でできているキリスト教文化から中途半端に表面的な教育制度をコピペしてしまったのが問題の出発点なんじゃないかと思うのです。結果として日本の教育って「虐げられる者として収奪される庶民として生きること」と「特別な自分になるための自分探し」という矛盾したテーマを同時に突きつけていて、これが「誰でも特別な自分になれる」という信仰に傾倒する人々を生んでるように思えるのですね。
こんなことにならないためにどうしたらいいかというと、だいぶ説教臭いんだけどやっぱり教養というのはすごく重要なんじゃないかと思います。教養って、それを知っているからといってお金が儲かるとかモテるとかそういう実用的な価値はまるで無いけど、それを知っていることで人生が豊かになるような物だと思います。そういう資質が育てば、虚力によって実力不足を補おうとするのがどれだけカッコ悪いか生理的な反応のレベルで理解できるようになると思います。最近読んだ天才数学者岡潔の本に書いてあった言い方を借りると教養というのは「物の良し悪しがわかる」ということなんだと思います。

しかしながら、自称「未婚のプロ」であるジェーン・スー女史の本を読んでると、まだスピリチュアルにハマる女子のほうがマニュアル本信者の男子よりもマシなんじゃないかと思うのです。だって、スピリチュアルにハマる人はそれが虚力であるということをある程度わかってますが、マニュアル本信者ってマニュアル本によって自分に新たな力が加わったと本気で思ってるみたいですから。
そして、女子のスピリチュアルは身体性を伴うのに対して、マニュアル本信者の男は身体的要素が欠落していてたいてい脳的な快楽の追求だけを志向しているように見えるのですね。またしてもだいぶ飛躍しますが、女子って「自分が子供を生むか」について子供の頃からずっと意識的なわけで、自分が身体性と不可分な関係にあることを生まれながらに理解しているように思えるのです。一方、自分の身の回りの経験からの話でしかないのですが、「特別な自分になりたい」と言ってマニュアル本信者になる男子は子供を持ちたがらない人が多いように思います。
彼等の好きな"純粋に脳的な快楽"の対極にある「自然そのもの = 当たり前の手順で当たり前のように育つ(セックスしたら妊娠して普通にお腹が大きくなって血まみれで生まれてきて、ちっとも言うこときかない) 」として生まれてくる子供が彼等は怖いんじゃないかと思うのです。子供が生まれる=「自分にとって世界で一番大事な存在を人類が累々として積み重ねてきた当たり前の手続きで得る」ということは、自分が人類全体の営為の一部として生きているという実感を得る機会になるんじゃないかと思うのですけどね。

でもこれって、マニュアル本信者が志向する「特別な自分」という自意識と相反する感覚だから彼等は子供を忌避するんじゃないかと思うのです。もしくは、マニュアル本信者は「特別な自分」の実現(どうせできないんだけどね)という物語に夢中で子供なんて邪魔にしかならないと思ってるのかもしれません。でも子供ができるのって「特別な自分」という執着から自由になれるせっかくのチャンスなんじゃないかと思うのですけどね。
別の言い方をすると、子供ができるという経験によってはじめて男性は人類が累々と積み重ねてきた時間方向の営為の連鎖に取り込まれていくのではないかと思うのです。例えて言うなら、(ベタな例え話としてSNS等にように)同時代的に横方向にしか繋がっていなかった人が、子供の誕生によって縦方向に何万年と続く人類の時間の流れに接続されるわけです。女性はこうやって命が連鎖していることを誰に教わるでもなく最初からなんとなく理解しているように思えるのですけどね。

うーん。気がついたら、なんか消耗品として20世紀末に消費されつくした村上龍の本みたいな話になっちゃったぞ。

2014年11月3日月曜日

妖怪ウォッチと能

先日、姉が甥っ子達を連れて実家に帰省(別に込み入った話ではなく、単純に子供が小学校に上がって気楽に帰省できなくなる前に子連れで帰省したかったそうです。念のため。)してきたので、そのタイミングにあわせて久々に実家に帰ってみました。4歳と6歳になる甥っ子達は妖怪ウォッチ(と昆虫)に夢中らしく、聞いてもいない妖怪ウォッチのキャラ(コマさんが一番人気だとか)の話を散々聞かされたり、ようかい体操第一の振り付けを無理やり一緒にやらされたり、"肉球百烈拳"(ジバニャンの必殺技だそうです)と叫びながらポカポカ殴られたりしてきました。
甥っ子達の話を聞いていると、ジバニャンは交通事故で亡くなった猫の自縛霊だとか、大人目線で考えて「子供相手のアニメにそんな設定を盛り込むのか?」と思うような事が沢山盛り込まれていたので、とりあえず妖怪ウォッチを一度見てみることにしたのですが。いやはやこれが結構面白いんですよ。そして、妖怪ウォッチは「妖怪=この世ならざるもの」のもたらす災厄を呪鎮するという意味で、能に極めて近い存在なんじゃないのかという事を考えたのですね。というわけで、今回は久しぶりに文句ではなく割と楽しい話です。

まず。最初に申し上げますが、僕が言いたい事は例によって内田先生の受け売りです。これを読んでもらえれば、妖怪ウォッチが能と同じ機能を果たしているという事はご理解いただけるんじゃないかと思います。
一回しか生で能を見に行った事の無い僕が言うのもどうかと思うくらいおこがましい事ですが、能の多くの作品は妖怪や怨霊などこの世に災厄をもたらす存在を鎮めるという物語にになっています。このような「この世ならざるもの」のもたらす災厄を軽減するために能は上演されてきたわけです。
妖怪ウォッチのアニメも基本的にはこういう話になっているように見えました。ただし、妖怪のもたらす災厄を鎮めるための方法として、ポケモンのように友達になった別の妖怪をぶつけて解決するのが基本なのです。この辺はさすがに妖怪ウォッチは元々はゲームから始まってるので能とは違っていて、ポケモンや女神転生、古くはゴジラvsモスラのような「この世ならざるもの同士の戦い」の形式をとっています。

たぶん京極夏彦とかいろんな人に言い古されているだろうと思うのですが、妖怪というのは日本人のアミニズム的な霊的感受性が生み出した伝統文化なんだと思います。中世には妖怪画というジャンルが存在して多くの妖怪画が描かれていますし、そこからゲゲゲの鬼太郎や妖怪ウォッチに到るまでいつの時代にも妖怪は大衆文化のモチーフとして身近な存在でした。
wikipediaによると、妖怪はこのように説明されています。
自然との境界の曖昧さによる畏怖や、里山や鎮守の森のように自然と共にある生活が畏敬や感謝になり、当時では解明できない自然現象・物や人に対しての畏怖など妖怪は、これらの怖れや禍福をもたらす存在として具現化されたものである。
この感性って科学が発達した現代になっても日本人には「血」のように受け継がれていると思うのです。

「表面的に器用だけど内面的に不器用」な日本人の「内面的な不器用さ」の源流の一つであるアニミズム的な感性を前面に打ち出した妖怪ウォッチのようなアニメが子供の間で流行っていることを深読みしてみると、世界のグローバル化という趨勢に対するカウンターとして日本人独自の感性への回帰という志向が見て取れるような気がするのです。
ポケモンも十分アミニズム的といえばアミニズム的(あれって言ってみれば精霊とかそういう類の、架空の動物ですよね?)なのですが。ポケモンって外国人にもまだ咀嚼可能なレベルだったんじゃないかと思うのです(本当にポケモンが海外で大人気だったのか、僕はやや疑わしいと思っていますが)。しかし、妖怪ウォッチはアミニズム的な感性を持つ国々(たとえばインドネシアなど東南アジアの国々)でさえ咀嚼できるか怪しいんじゃないかな?と思うのですよ。

2014年10月7日火曜日

マッサンはクールジャパンと同じ香りが漂ってる気がする

朝の連続テレビ小説を一番ちゃんと見てたのは小学生だった昭和末期の頃なんじゃないだろうか。夏休みとかになるとヒマだから毎日のように母親と一緒になって見てたのですよ。その頃の朝ドラは必ず明治~大正~昭和初期という時代設定で、必ずと言っていいくらい主人公が空襲で焼け出されたり、「おしん」みたいに苦労したり、とにかく苦労や災難やトラブルの間になにかしらの幸せ(意地悪な人が優しくなってくる、恋愛~結婚~出産、ダンナが戦地から生きて帰ってくるなど)が挟まって話ができているという王道パターンを踏襲していたような記憶があります。
苦労する人を見て感情移入したり涙を流したりするのがエンターテイメントとして成立するという感覚ってたぶんアジア人に独特なんでしょうね。韓流ドラマとか見てても同じこと思いますし、インドネシアで「おしん」が大ヒットしたのもきっとそういうことなんだろうなと思います。

実は大人になってからはこういう喜怒哀楽のローテーションで構成されているドラマ(敢えて言うと、女性の好きそうなドラマ)がなんだか苦手になってしまったのです。「わざわざそんなアップダウン激しくなくても、小津安二郎の映画みたいに淡々と日常が描かれてるドラマでもいいんじゃないかな?」とか思ってしまうんですけど、それを奥様に言うと「そのアップダウンが面白いんじゃん!」て言われるんですね。まぁ、そうなんだろうな。。
朝ドラの時代設定が「あまちゃん」以降3作連続で戦前に戻った理由には、「あまちゃん」のインパクトが大きすぎたので現代劇を持ってくるのに勇気がいるというのもあるのでしょうが。あの戦前の時代を舞台にすると苦労や貧乏を現代劇に比べてより鮮明に描ける上に、そこまで差し迫った現実感の無い「バーチャルな苦労や貧乏」としてほどほどの距離感を保ちながら安心して受容できるんじゃないかと思うのです。例えば現代劇でダンナのDVの末に離婚して生活保護受けながら子供を育てる女性の苦労を朝ドラで毎日のように見せられたとしたら、たぶんあまりに現実的すぎて見てる側がいたたまれなくなりそうでしょ?

さて。そんなこんなでようやく本題、先日から始まった朝の連続テレビ小説「マッサン」の話です。朝ドラ史上初の外国人ヒロインということでどんなものかと初回から数回見てみたのですが。早くもクールジャパンにも通じる「日本人による、日本人のためのセルフ接待に外国をワンクッション噛ませただけ」という空気をなんとなく嗅ぎ取ってしまったのです。
まず、スコットランドでの回想シーンが全部吹き替えっていうのはさすがにどうかなー?と思うのですよ。前作の「花子とアン」は「戦前の日本で山村の貧民出身ながら英語が喋れるようになった日本人」の話だったので、とにかく登場人物に英語を喋られせては全部日本語字幕で表示してたのですが。今回の「マッサン」は「ガイジンが日本に来る」という話なので、「ガイジンが英語で喋ってる会話なんてどうでもいいから全部吹き替えにしちまえ」という空気を感じるのですね。別の言い方をすると、アウェイ(花子とアン)の後にホーム(マッサン)を対置したような関係になっているから、ホームではガイジンの会話も全部吹き替えにしちゃったということなんだろうと思います。
吹き替えっていうのはリアリティとか外国語とか、色々な物に対する冒涜なんじゃないかなと思うのですよ。しかもそれをスコットランドでの回想シーンだけに限定して適用するのってなんかヘンじゃないか?と思うのですね。二回目の放送なんて主人公の二人が初めて出合った重要なシーンなのに、そこでの会話が全部吹き替えなんですよ?さすがにあんまりだと思いました。これについては僕だけじゃなくて、同じ指摘をしている人は沢山いるそうです。

マッサンは「世界のこんなところに日本人が」とちょうど真逆の構造なのですね。この手の番組ではたいてい日本人が外国に嫁いで色々と苦労もしながらも現地に馴染んで暮らしている(けど時々日本のアレが食べたいとか日本のアレが懐かしいとかそんな)絵を流しているのですが。不思議なことに日本人妻が日本の悪口を言うところを一切流さないんです。
海外にローカライズされて長年暮らしている人から見たら、日本は忘れられない祖国であると同時に今更あの国で暮らすのはちょっと無理って思ってるだろうと思うので。当然「ココがヘンだよ日本人」的な指摘があってもいいはずなのですが、そういう言動は全く放送されないのですね。結局は日本人の視聴者に「海外での暮らしぶりをを少しだけ追体験させる→でも結局海外よりも日本で暮らすのが一番」という満足を与えるためにあの手の番組は存在しているように見えるのです。

話をマッサンに戻しますが。なんとなくこの先を予想すると、エリーが苦労しながらも日本人の人情に支えられて日本の「お・も・て・な・し」の心を学んでいくとか、そんな話になっていくんじゃないんだろうかと思うのです。つまり、国民全員が小姑目線で「日本の生活習慣に不慣れな外国人が色々失敗するのを優しい目で応援してあげる」とか「だんだん日本の素晴らしさが解ってきたか、よしよし。」みたいなイイ気分にしてあげる方向に向かいそうな気がするのです。
前作の「花子とアン」と「マッサン」をセットで考えると「少しずつだけど国際化しつつある日本」という現実に対して日本人の心象を何かしら投影しているようにも見えるのですが。前作の「花子とアン」は戦時中の日本で一部の知識階級が無知蒙昧な差別を受ける姿を通して右傾向化する日本をやんわりたしなめているように見えたのに対して、こうも真反対のクールジャパンバンザイ方向に急に振れてしまっているのは本当に不思議なんですよね。やっぱりあのNHKの会長とか経営委員とかのせいなのかなぁ。。