これを書いている現在、ワールドカップはグループリーグの途中です。日本はまだ敗退が決まってはいませんが、コートジボアールに負けてギリシャに引き分けたので決勝トーナメントへの進出が厳しい状況になってきたというところです。ちなみにもうスペインは敗退が決まりました。ここ数年のスペイン代表のパフォーマンスからすると、信じられないくらいまるでいい所がありませんでしたね。。
さて、コートジボアール戦の後で会場のゴミを拾っていた日本サポーターが世界中で賞賛されているという報道がありました。ええっと、勿論ゴミを拾うのは良い悪いで言えば良い事なのは間違いないのですよ。でも、判で押したように「世界で大絶賛の日本の美徳」みたいに大喜びしているのを見てるとなんだか息苦しいやらもどかしいやら、という気分になってきたのですよ。まぁ、負けちゃったから他に喜べるところが無いので、ナンシー関言うところのオリンピックやワールドカップに対する日本人の「感動させてくれ」欲が行き場を無くしてそこに集中してしまったというのもあるんじゃないかと思います。
このゴミ拾いの件から受ける息苦しさやもどかしさについて考えた結論を言うと「ワールドカップでのゴミ拾いが放つ違和感はクールジャパンと同質の物だ」ということになっちゃっいまして。残念ながらやっぱりまたしてもクールジャパンの悪口とかそういう話です。いや、本当はあんまり日本の悪口ばっかり言ってたくないんですけどね。
自分が知る限りの海外、特に欧州と比較してみますが。「ゴミを拾う」とか「掃除をする」ということは日本以外の国ではより単純に労働であり職業だと思われていて、それを率先して行う事が美徳と考える習慣はたぶん無いんじゃないかと思います。
例えばスペインでは「掃除する人」という職業が日本以上にポピュラーな存在で、街路樹から落ちた葉や煙草の吸い殻(基本ポイ捨て。こうやって回収されるからある意味ポイ捨ては合理的なんです。)まで、色んな物を清掃車や人間が掃除します。また、ルームシェアで複数人が同居しているアパート等で週に一回くらい掃除のプロにお金を払って掃除してもらったりするのは割と普通だったりします。このように掃除は労働であり職業である傾向が強いのです。
そして、日本の学校では掃除を道徳と絡めた教育の一部として位置づけていますが、生徒が学校を掃除をするのは世界的に見ると日本を含めた一部の少数派だけです。だから、教育とか道徳とかそういうものと掃除が結びつく以前に、そもそも外国の生徒のほとんどは学校で掃除をすることがありません。
よって、日本のサポーターがゴミを拾ってたこと自体は海外から賞賛されたのでしょうが、日本人がこのニュースから感じ取るような”崇高な美徳意識”と同じ感覚をもって外国人が賞賛しているわけではたぶんないんじゃないかと思うのです。想像ですが、「日本人ってなんかよくわかんないけどキレイ好きでびっくりするぐらい丁寧でマナーのいい人達だなー。」くらいに思われてるんじゃないでしょうか?
クールジャパンについては散々悪口を書いているのでこのblogを検索してもらえればいくらでもみつかるとは思いますが。改めて僕の見解を申し上げると、外国の人々がどのような文化的背景を持っていて日本文化のどういうところを面白がって受容していて、どの程度誤解されているのかもあんまりよく分からないまま、「とりあえずガイジンにウケるっぽいアニメや日本食や伝統芸能などをまとめて売り出そう」というのが「クールジャパン」なんだと僕は思うのです。
この「クールジャパン」に伏流している「海外から評価されたい欲」に対してはある程度国民的合意が得られていて、特にここ数年はあらゆる事に「世界で大絶賛の日本のナントカ」という国威高揚エピソードに熱狂するようになったと思うのですが。
こういう人達って、例えばロボットアニメは海外ではウケないとか、マジンガーZとクレヨンしんちゃんだけなぜかスペインでは異常に人気があるとか、そういう細々した受容のされ方に対してはあまり関心が無いままとりあえず「海外で大人気の日本の漫画・アニメ」という物語にだけ固執しているようで、僕にはなんだかねじれているというかズレているように思えるのです。
この違和感をやや細かいたとえ話で説明すると。狩野英孝が天然すぎて笑わせようと思ってもないところで「笑われてしまった」ときに、何を笑われているのかよく分からな(くて少しムッとした顔をすることもある)いけど、ウケてる事自体にはある程度満足しているのを見ているのと同じような感覚なのですね。
以上まとめると。
掃除に対する日本人の文化背景がいかに特異であるかについて自覚が無いながらも、とりあえずゴミ拾いは外国人から評価されるだろうというブリっ子的な打算も多少はあった上で日本人サポーターはゴミ拾いをしていて、それは案の定「世界が絶賛する日本人の美徳」という話形に日本では回収されました。しかし、これが放っている空気は外国人の文化的背景やその受容態度に対して意識があまり無いまま、クールジャパンという名前の下に「海外で大人気の日本の漫画・アニメ」という物語に大喜びしている日本人と全く同じようなねじれやズレを感じるのです。
さらに厄介なのは、ワールドカップの会場でゴミを拾うという美徳は「ゴミ出しのルールにいちいち細かい正義の主婦」や「オレ様の基準に合わせて掃除することを強要するきれい好きの上司」といった負の側面と表裏一体で不可分だということです。こういう「正義を背にして(いると本人が思っていると)、どこまでも他人を許す能力の低い人達」は僕にとって日本という国が住みにくく感じる大きな原因の一つなのです。
また、教育や道徳と掃除を関連付ける習慣は、大人になった今でも「ホワイトカラーも含めて全従業員に『クリーン作戦』という名目で敷地内の草むしりをさせる」という形で名残を残しています。わが社ではせいぜい半年に一回程度とはいえ、こういうのって日本人以外にはまず理解不能でして。外国人は「俺は草むしりのプロとしてここで働いているわけじゃない」と当然文句を言いますし、また彼の言ってることはまったくもって正しいのです。こういうことをいつまでもやってると日本の企業はいつまで経っても外国人にとって働きやすい場所にならないんじゃないかなと思うのです。
2014年6月24日火曜日
2014年6月1日日曜日
日本における「信者」とヤンキー度
たぶん高校生くらいの頃からずっとなんですが、村上春樹や坂本龍一やAppleなどの「信者」の方と話すのが僕はすごく苦手なのです。単純な好き嫌いで言うと上記のどれも割と好きな方ではあるのですが、これらの「信者」の方と話しているとなんだかすごく疲れるのですよ。
だって彼らって、「仮にオレが信仰しているものの素晴らしさを理解できないとしても、オレの前でわざわざ***についてネガティブな事を言うのは許さない」という空気を放っているので、それに合わせてさし上げることを暗黙のうちに強要されているような気分になるのです。特にピュアな信者の方ほど自分がそういう空気を振りまいていることに自覚が無い様子なんですが、こういう人と話しているときに限って彼らを怒らせそうなことから順番に思いついてしまうのでホント大変なんですよね。。
さて。信者君達そのものはさておき、今回の本題は「***信者」という言葉で揶揄される方々の信仰の対象はたいていヤンキー度が低いものばっかりだという話です。例えば高木壮太氏によれば村上春樹はヤンキー成分がほぼゼロなんだそうです。これは氏の言うようにほぼ全員が大なり小なりヤンキー的なセンスを持つ我々日本人の中での村上春樹がいかに特異な存在であるかを示唆していると思います。
ざっと思いつく限り「***信者」というのを並べてみても
・スタバ信者
・村上春樹信者
・坂本龍一信者
・無印信者
・Apple信者
・ディズニー信者
とりあえずスタバ、ディズニー、Appleは全部アメリカの物なのでヤンキー成分ゼロってことでいいでしょう。無印と坂本龍一はちょっと微妙な気もしますが、ニトリや小室哲哉と一緒に並べたらどっちがヤンキー成分が低いかは自明でしょう。
こうやって並べてみると、「***信者」という揶揄表現は「無くても生きていくうえで直接困らないもの」に適用される傾向があるようなのです。例えば、「ファミマ信者」とか「吉野家信者」とかっていう言い方あんまりしないですよね?こういう生活感のあるもの(=不可避的にヤンキー的なエッセンスが日本ではついて回るもの)に対しては、例えば「ファミマ派」とか「吉野家派」なんていう言い回しが使われることの方が多いんじゃないかと思うのです。
「無くても生きていくうえで直接困らないもの」というのは簡単な一言で置き換えると「文化」なんですが。「ヤンキー度が低い=自分達の文化にない」物をとりあえず有難がれるのって、よく言われているように世界的にはマイノリティなんだと思います。ええっとこれは、よくある「日本は他国に侵略されたことが無いので、外来文化を『良い物』としてすんなり受け入れる」みたいな話です。
とはいえ一方では、ヤンキー度の低い文化アイコンを信仰することは「日本人=ヤンキー的」というアイデンティティに対する重要な背信行為であり、そういう裏切り行為への呪詛と揶揄を込めて日本人は彼らを「信者」と呼んでるのだと思います。
これら二つの性質をまとめて、日本人の外来文化への接し方を簡単な一言で説明するときに僕は「表面的な器用さと内面的な不器用さ」という言い方をしているのですが。表面的にはAppleでもスタバでもなんでもそのまま積極的に受け入れてオシャレ扱いする反面、それらのヤンキー成分の少ない外来文化の信者に対する呪詛や嫌悪を隠せない内面的な不器用さはやっぱり日本人にしっかり受け継がれているということを、こういう事例を通して改めて確信するのですよ。
だって彼らって、「仮にオレが信仰しているものの素晴らしさを理解できないとしても、オレの前でわざわざ***についてネガティブな事を言うのは許さない」という空気を放っているので、それに合わせてさし上げることを暗黙のうちに強要されているような気分になるのです。特にピュアな信者の方ほど自分がそういう空気を振りまいていることに自覚が無い様子なんですが、こういう人と話しているときに限って彼らを怒らせそうなことから順番に思いついてしまうのでホント大変なんですよね。。
さて。信者君達そのものはさておき、今回の本題は「***信者」という言葉で揶揄される方々の信仰の対象はたいていヤンキー度が低いものばっかりだという話です。例えば高木壮太氏によれば村上春樹はヤンキー成分がほぼゼロなんだそうです。これは氏の言うようにほぼ全員が大なり小なりヤンキー的なセンスを持つ我々日本人の中での村上春樹がいかに特異な存在であるかを示唆していると思います。
ざっと思いつく限り「***信者」というのを並べてみても
・スタバ信者
・村上春樹信者
・坂本龍一信者
・無印信者
・Apple信者
・ディズニー信者
とりあえずスタバ、ディズニー、Appleは全部アメリカの物なのでヤンキー成分ゼロってことでいいでしょう。無印と坂本龍一はちょっと微妙な気もしますが、ニトリや小室哲哉と一緒に並べたらどっちがヤンキー成分が低いかは自明でしょう。
こうやって並べてみると、「***信者」という揶揄表現は「無くても生きていくうえで直接困らないもの」に適用される傾向があるようなのです。例えば、「ファミマ信者」とか「吉野家信者」とかっていう言い方あんまりしないですよね?こういう生活感のあるもの(=不可避的にヤンキー的なエッセンスが日本ではついて回るもの)に対しては、例えば「ファミマ派」とか「吉野家派」なんていう言い回しが使われることの方が多いんじゃないかと思うのです。
「無くても生きていくうえで直接困らないもの」というのは簡単な一言で置き換えると「文化」なんですが。「ヤンキー度が低い=自分達の文化にない」物をとりあえず有難がれるのって、よく言われているように世界的にはマイノリティなんだと思います。ええっとこれは、よくある「日本は他国に侵略されたことが無いので、外来文化を『良い物』としてすんなり受け入れる」みたいな話です。
とはいえ一方では、ヤンキー度の低い文化アイコンを信仰することは「日本人=ヤンキー的」というアイデンティティに対する重要な背信行為であり、そういう裏切り行為への呪詛と揶揄を込めて日本人は彼らを「信者」と呼んでるのだと思います。
これら二つの性質をまとめて、日本人の外来文化への接し方を簡単な一言で説明するときに僕は「表面的な器用さと内面的な不器用さ」という言い方をしているのですが。表面的にはAppleでもスタバでもなんでもそのまま積極的に受け入れてオシャレ扱いする反面、それらのヤンキー成分の少ない外来文化の信者に対する呪詛や嫌悪を隠せない内面的な不器用さはやっぱり日本人にしっかり受け継がれているということを、こういう事例を通して改めて確信するのですよ。
2014年5月19日月曜日
「贈与と反対給付」とビジネス
このblogで再三言及していることですが、僕はその昔仕事がらみで2年間バルセロナに住んでたことがありました。会社としては何の拠点もないバルセロナで、取引先の会社に出向して一緒に仕事して来るように(本当はもうちょっと違うのですが、まぁだいたいこんなところです)と言われてバルセロナに来てみたものの、最初はスペイン語なんて全然できないので、銀行口座を作ったり家の面倒を見てもらったりと、色々なところで先方のスペイン人に助けてもらったのでした。
そんな彼らとは今でも仕事の関係は続いてますし、また一方で、在西当時から時々ですが彼らのサイドビジネスで日本語への対処が必要になったときに手伝ってあげたりもしています。僕としては彼らに在西当時に散々私生活でもお世話になったんですから、大した労力でなければボランティアで彼らを手伝ってあげてもいいと思っているのですが。それを会社の人に言ったら「なんで金とらないだよ?アイツらは仕事ではいつも都合の言いこと主張してふんだくろうとしてくるんだから、こっちから何かしてやるときくらい金取れよ?」とか言われたわけです。
彼らの発言の背景におそらく伏流しているのはこういうことなんだと思う。
先方のスペイン人とプライベートな関係というのを持ったことが無い我が社の日本人にとって、彼らはビジネス上の利害以外の何の関係も無いので、「プライベートでの友達関係とビジネスでの利害関係は別」ということを想像して下さいと言っても難しいんだろうとは思いますが。だいぶ飛躍しますが、これは平田オリザが提唱しているモンスターペアレンツが日本に発生するに至った過程と全く同じだと思うのです。
曰く、モンスターペアレンツが生まれた背景には、地域社会に重層性がなくなってしまったために、一つの側だけからリスクなしでものが言えるようになってしまったことがあるんだそうです。例えば昔の村落共同体であれば、学校の先生と生徒の親は同じ井戸の水を使って生活しているようなことが普通だったので、一方的に相手を糾弾するような態度に出ることはリスクを伴う行為だった。よって、そういうことは自然と抑制されていたんだそうです。
こういう観点で考えると、日本人はプライベートの関係とビジネス上の付き合いが重層的に共存しているような複雑さを受け入れるのが難しいんじゃないかと思うのです。そもそも、核家族や地域社会の分断によって、そういう重層的な関係を人と築くことを経験しながら育つことが日本では難しいんじゃないかと思うのです(僕なんてニュータウン育ちだったので地域社会というのは取ってつけたようなハリボテ感がどうしてもついて回るものでした)。だから、モンスターペアレンツ的に「ビジネス」という一側面だけから先方と付き合う単純な関係の中にとどまりがたがるのも、まぁしょうがないかなぁとは思うのですよ。
もう一つの、「なるだけgiveしないでたくさんtakeする」という態度なんですが。いきなり結論から書くと、これは「贈与と反対給付」という人類の原則に反しているのではないだろうか?と思うのです。これについては例によって内田先生の受け売りなので、こちらを参照願います。かいつまんでエッセンスだけ抜き出すと「私たちは自分が欲するものを他人にまず贈ることによってしか手に入れることができない。それが人間が人間的であるためのルールです。」ということです。
さらに、「贈与を受けた」という原体験をもつ人しか「反対給付の義務」を感じない。というのは、僕がボランティアでスペイン人の手助けをする理由そのものなのです。スペイン人の彼らにバルセロナ生活当初に色々助けてもらって贈与を受け取ったという意識があるからこそ、僕は反対給付としてボランティアでできることで彼らのためにできることをやろうと思ったわけです。
もちろん「贈与と反対給付」が世界のルールで、現代におけるビジネスはこれに反しているから間違っている。。なんてことまで言うつもりは無いのですが。現代でも普通の人がやってるのは「贈与と反対給付」で、この枠組みから逸脱して収益を上げてるのは一部特殊な才能を持った人達だけなんじゃないかと思うのです。こういう特殊な人達の「才能」という重要なファクターを度外視して、「君にもできる」というマニュアルを提供するビジネス啓蒙書がモテるためのマニュアル本と同じ構造なんじゃないかと僕は前々から思っているのですよ。ついでに余計な事を言うと、「アメリカンドリーム」という名の下に、スポーツ選手になって大活躍したりビジネスで一旗揚げて巨万の富を得ることを称揚しておきながら、それを実現できるのがほんの一握りしかいないアメリカの社会とそっくりだと思うのですけどね。
「人と重層的な関係を築く」とか「贈与と反対給付」というのは現代社会にそぐわないように見えて、特別な才能を持たない大多数の一般人としてこの社会を生きていくうえで重要な示唆を含んでいると思うのですが。僕はそういうことをスペイン人と平田オリザと内田先生から、なぜかほぼ同時期に学んだのでした。
そんな彼らとは今でも仕事の関係は続いてますし、また一方で、在西当時から時々ですが彼らのサイドビジネスで日本語への対処が必要になったときに手伝ってあげたりもしています。僕としては彼らに在西当時に散々私生活でもお世話になったんですから、大した労力でなければボランティアで彼らを手伝ってあげてもいいと思っているのですが。それを会社の人に言ったら「なんで金とらないだよ?アイツらは仕事ではいつも都合の言いこと主張してふんだくろうとしてくるんだから、こっちから何かしてやるときくらい金取れよ?」とか言われたわけです。
彼らの発言の背景におそらく伏流しているのはこういうことなんだと思う。
- ビジネスでの利害関係がある相手にはプライベートにもその利害関係を持ち込むべきだ
- ビジネスというのはその時々の利害関係においてなるだけgiveしないでたくさんtakeすることだ
先方のスペイン人とプライベートな関係というのを持ったことが無い我が社の日本人にとって、彼らはビジネス上の利害以外の何の関係も無いので、「プライベートでの友達関係とビジネスでの利害関係は別」ということを想像して下さいと言っても難しいんだろうとは思いますが。だいぶ飛躍しますが、これは平田オリザが提唱しているモンスターペアレンツが日本に発生するに至った過程と全く同じだと思うのです。
曰く、モンスターペアレンツが生まれた背景には、地域社会に重層性がなくなってしまったために、一つの側だけからリスクなしでものが言えるようになってしまったことがあるんだそうです。例えば昔の村落共同体であれば、学校の先生と生徒の親は同じ井戸の水を使って生活しているようなことが普通だったので、一方的に相手を糾弾するような態度に出ることはリスクを伴う行為だった。よって、そういうことは自然と抑制されていたんだそうです。
こういう観点で考えると、日本人はプライベートの関係とビジネス上の付き合いが重層的に共存しているような複雑さを受け入れるのが難しいんじゃないかと思うのです。そもそも、核家族や地域社会の分断によって、そういう重層的な関係を人と築くことを経験しながら育つことが日本では難しいんじゃないかと思うのです(僕なんてニュータウン育ちだったので地域社会というのは取ってつけたようなハリボテ感がどうしてもついて回るものでした)。だから、モンスターペアレンツ的に「ビジネス」という一側面だけから先方と付き合う単純な関係の中にとどまりがたがるのも、まぁしょうがないかなぁとは思うのですよ。
もう一つの、「なるだけgiveしないでたくさんtakeする」という態度なんですが。いきなり結論から書くと、これは「贈与と反対給付」という人類の原則に反しているのではないだろうか?と思うのです。これについては例によって内田先生の受け売りなので、こちらを参照願います。かいつまんでエッセンスだけ抜き出すと「私たちは自分が欲するものを他人にまず贈ることによってしか手に入れることができない。それが人間が人間的であるためのルールです。」ということです。
さらに、「贈与を受けた」という原体験をもつ人しか「反対給付の義務」を感じない。というのは、僕がボランティアでスペイン人の手助けをする理由そのものなのです。スペイン人の彼らにバルセロナ生活当初に色々助けてもらって贈与を受け取ったという意識があるからこそ、僕は反対給付としてボランティアでできることで彼らのためにできることをやろうと思ったわけです。
もちろん「贈与と反対給付」が世界のルールで、現代におけるビジネスはこれに反しているから間違っている。。なんてことまで言うつもりは無いのですが。現代でも普通の人がやってるのは「贈与と反対給付」で、この枠組みから逸脱して収益を上げてるのは一部特殊な才能を持った人達だけなんじゃないかと思うのです。こういう特殊な人達の「才能」という重要なファクターを度外視して、「君にもできる」というマニュアルを提供するビジネス啓蒙書がモテるためのマニュアル本と同じ構造なんじゃないかと僕は前々から思っているのですよ。ついでに余計な事を言うと、「アメリカンドリーム」という名の下に、スポーツ選手になって大活躍したりビジネスで一旗揚げて巨万の富を得ることを称揚しておきながら、それを実現できるのがほんの一握りしかいないアメリカの社会とそっくりだと思うのですけどね。
「人と重層的な関係を築く」とか「贈与と反対給付」というのは現代社会にそぐわないように見えて、特別な才能を持たない大多数の一般人としてこの社会を生きていくうえで重要な示唆を含んでいると思うのですが。僕はそういうことをスペイン人と平田オリザと内田先生から、なぜかほぼ同時期に学んだのでした。
2014年5月15日木曜日
配偶者控除問題と女性免許制
政府税調が配偶者控除の見直しの検討を開始したというニュースに対して、賛否両論分かれているようですね。政府はこれを「女性の社会進出を促すため」とか言ってる訳ですが、それだったら育児環境とか労働風土とか、先にそっちを見直すことから始めるべきなんじゃないかなと思うのですけどね。というのも、以前の投稿でも指摘したように、日本という国は育児と仕事の両立をさせるのが欧米の比じゃないくらい難しいと思うのですよ。だって、
しかしながら配偶者控除について賛否分かれるのは、「働く女性」とか「女性の社会進出」とかいう言葉で曖昧にぼやかされていた問題を表面化させたんじゃないかなと思うのです。つまり何って、子供がいながら働く女性と一口に言っても、たとえば出産前と同様にフルタイム働きたい人もいれば、軸足は家庭に置いた上でパートなどで働く主婦まで、いろんな人がいるわけです。
- 企業の雇用システムに柔軟性が無さすぎるので、働く側の都合に企業が合わせられない
- 終わる時間に対する意識が低いので、「できたところまでで終わり」にならない
- 他人の不在を補い合うことができないので、常に100%歯車として回転することを要求される
- そもそも育児に労力がかかりすぎる
しかしながら配偶者控除について賛否分かれるのは、「働く女性」とか「女性の社会進出」とかいう言葉で曖昧にぼやかされていた問題を表面化させたんじゃないかなと思うのです。つまり何って、子供がいながら働く女性と一口に言っても、たとえば出産前と同様にフルタイム働きたい人もいれば、軸足は家庭に置いた上でパートなどで働く主婦まで、いろんな人がいるわけです。
だいぶ昔から思ってることなのですが、この国の「働く女性」のための施策を単一の制度だけでカバーするには限界があるんじゃないかと思うのですよ。もちろん、本当は上述したような育児環境や労働風土の問題に手を入れることがより本質的な解決法ではあると思うのですが。日本人の表面的な器用さと内面的な不器用さを考慮すると、たとえ欧米風の制度を導入しようとしても「なんか違う」形にしかならないだろうと思うのです。それぞれの事情に合わせて働く女性を支援できるような制度にしようと思ったら、行き着く先の一つとして「女性免許制」というのは案外アリなんじゃないかと思うのです。これは社会との関わり方を軸に女性をいくつかのカテゴリに分類して、それぞれに異なる社会制度を適用するということです。例えば、ぱっと思いつくだけでもこれくらいには分かれそうな気がするのです。
- 出産後も出産前と同様にフルタイムで働きたい人:女性甲種
- 軸足は家庭に置いた上で、パートなどで働く主婦:女性乙種
- とにかく働かないと生活が成り立たない人(シングルマザーなど):女性丙種
託児所や保育園は丙>甲>乙の優先順位でアサインするとか、乙種は配偶者控除の上限を200万円くらいまで上げるとか…もちろんこれはこれで階級社会化を助長するとか、法の下の平等にそもそも反してるとか、たくさん問題はあるのは自明なのですが。でも直感的には、これくらい思い切ったことしないと女性の働き方の多様性に社会制度が追いつけないんじゃないかと思うのです。
2014年4月13日日曜日
なぜロボットアニメは外国人にウケないか?
我が家はほぼリーガ・エスパニョーラを見るためだけにWOWOWに入っているのですが。WOWOWはたまにシリーズ物のアニメを10話ずつくらいに分けて集中的に放映するのですね。3月は「伝説巨人イデオン」を全話放送してたのですが、いやはや、すっかりこれにハマってしまいました。
ガンダムやマクロスくらいなら少なくとも名前くらいはみんな知ってると思いますが、イデオンって決してメジャーではないし、子供が見ても面白いと思えるような内容ではないのですよ(まぁ実際に不人気過ぎて放映が途中で打ち切りになったのですけどね)。でもこの歳で大人目線で見てたらすごく面白いんですね。例えば、主役ロボットが滅びた古代人の遺跡であるという設定とかすごくシブいのですよ。
方々で言及されているようですが、イデオンはエヴァンゲリオンにも明らかに影響を与えてると思います。例えばロボット自体が意思を持っていて、それをある時期からパイロットが恐れるようになるところとか。そしてなにより結末が…
そんなわけで、僕はロボットアニメはやっぱりいくつになっても見てて面白いのですね。もうこれって、幼児期からの刷り込みなので老人になってもたぶん僕はロボットアニメを見てるんじゃないかと思うのですが。ロボットアニメって不思議なことに外国人にはあんまりウケないんですよ。例えば僕と同年代の日本人の男子だとアニメを語るとなるとガンダムは外せないと思うのですが。「海外で人気の日本のアニメ」の中に、ロボットアニメはほとんど含まれてないと思います。強いて含めるならエヴァンゲリオンはそれなりに人気あるみたいでしたけどね。
これは、バルセロナのアニメ・漫画フェスティバルに行ったときのコスプレの人気キャラの印象と附合していると思います。男子だとドラゴンボールとかONE PIECEやナルトなどの少年ジャンプ的な漫画のコスプレは沢山見る(女子だと初音ミクとかセーラームーンとか)んですけど、ロボットアニメのキャラのコスプレやってる人ってほとんどいなかったのですね。。
なぜ日本以外でロボットアニメが受けないのか?についての考察として、検索してみたらこんな記事がありました。まぁベタベタではありますが、やっぱり宗教の影響は無視できないというのはその通りだと思います。前回の投稿で言及したように、神道のようなアミニズムでは見えない物や無生物にも魂が宿るという考え方があって、無生物と生物をあまり分けて考えていません。一方、西欧人にとっては無生物に命を吹き込むというのは神の所業であって、人間がロボットを作るということ自体が、例えばフランケンシュタインやゴーレムなどのような禍々しい魔術、呪術的な営みになるわけです。確かにそう考えると、日本人ほど気楽にロボットアニメが理解される風土ではないだろうとは思います。
しかしロボットアニメというのが海外に全く無いというわけではないのですよ。僕が自分で見たことがある唯一の事例として、アメリカ産ロボットアニメのトランスフォーマーがあります。このシリーズのテレビ放送は日本でもやってて、僕も子供の頃見ていました。ところがこのトランスフォーマー、ロボットが人間のように喋ったりするんですけど、中に人が乗っているわけではないのですね。だから何って、このアメリカ産のアニメにはひたすらロボット同士の戦いだけが描かれていて、人が出てくる印象がまるで無いのです。
一方わが国のロボットアニメは、最初こそ鉄人28号みたいに少年が遠隔で操作する方式でしたが、マジンガーZあたりからは「巨大ロボットに少年が乗り込んで操縦する」というスキームが確立されて、その後は基本的にこのパターンですよね。実は上述のトランスフォーマーの話にも続きがあって、アメリカ産アニメの放映が終わった後に日本オリジナルの続編がつくられたのですが。日本版トランスフォーマーでは最終的には人間がロボットに変身するという形態になってしまったのです。
なんで日本人がつくるロボットアニメは必ず「人間がロボットを操作する」のか。そして、その大半はなぜ「少年がロボットに乗り込む」のか。これについて例によって内田先生を引用するのですが、今回ばかりは内田先生の説に僕はあんまり納得していません。内田先生が言ってるのは「武力(ロボット)を無垢な心を持った少年がコントロールする」という話形に戦後日本人の集合的無意識が反映されているということなんだと思うのですが。僕は太平洋戦争や米軍による日本占領などが無かったとしても日本人はロボットアニメを作り出していたはずだと思うのです。
まず、少年がロボットを操縦するのは、単純に見ている子供にとって感情移入しやすいからなんじゃないかと思います。以前も指摘したように、日本という国は子供の子供らしい振る舞いに寛容な国であるので、漫画やアニメのように「子供」という消費者層に特化した文化が醸成されたのだと思うのです。だからこそ、ターゲットである子供がより感情移入しやすいように、アニメでは少年が主人公なんじゃないでしょうか。別にロボットアニメに限らず、日本のアニメってだいたい少年が主人公ですから。一方、欧米では子供というのは大人への過渡段階だと考えられているように思えるのです。だから、子供のための娯楽である漫画やアニメのような文化は発達せず、子供達は大人向けのコンテンツであるサッカーに登場する大人のサッカー選手に憧れるわけです。
そしてロボットに乗り込むという形式には、「巨大ロボットという母の胎内で守られる」という母胎内回帰願望と関係があるように思います。エヴァンゲリオンなんて、本当に母親の魂がロボットの中に宿ってますからね。「巨大なお母さんに乗る」というのは龍の子太郎みたいな昔話にも出てくるモチーフでもあります。なんで日本人がこのモチーフを好むかといえば、日本的=天皇的=女性原理という説明にやっぱり行き着くのではないでしょうか。
あと、養老猛司氏が言うところの「脳化」もこれと関係あるように思えるのです。氏曰く、日本人の身体感覚は江戸時代くらいに急速に「脳化」して、身体性を喪失してしまったらしいのです。これはつまり、我々日本人の身体感覚というのは身体というロボットを脳というパイロットが操縦している感覚に極めて近いということなのではないでしょうか?だとすると、人型の巨大ロボットに人が乗って操縦するというロボットアニメを受け入れる素地が我々日本人には備わっているのではないかと思うのです。
以上、ここまでの話では一環して「日本のロボットアニメは海外ではウケない」と言ってきましたが。実は例外がありまして。スペインではなぜかマジンガーZが国民的な人気アニメなのですよ。少なくとも30-40代の男子の大半はマジンガーZを見たことがあるのですね。かといって、ガンダムとかマクロスみたいなリアルロボット系もウケるかと思いきや、そっちにはほとんど関心を示さないのです。つくづくスペインは不思議の国ですね。
ガンダムやマクロスくらいなら少なくとも名前くらいはみんな知ってると思いますが、イデオンって決してメジャーではないし、子供が見ても面白いと思えるような内容ではないのですよ(まぁ実際に不人気過ぎて放映が途中で打ち切りになったのですけどね)。でもこの歳で大人目線で見てたらすごく面白いんですね。例えば、主役ロボットが滅びた古代人の遺跡であるという設定とかすごくシブいのですよ。
方々で言及されているようですが、イデオンはエヴァンゲリオンにも明らかに影響を与えてると思います。例えばロボット自体が意思を持っていて、それをある時期からパイロットが恐れるようになるところとか。そしてなにより結末が…
そんなわけで、僕はロボットアニメはやっぱりいくつになっても見てて面白いのですね。もうこれって、幼児期からの刷り込みなので老人になってもたぶん僕はロボットアニメを見てるんじゃないかと思うのですが。ロボットアニメって不思議なことに外国人にはあんまりウケないんですよ。例えば僕と同年代の日本人の男子だとアニメを語るとなるとガンダムは外せないと思うのですが。「海外で人気の日本のアニメ」の中に、ロボットアニメはほとんど含まれてないと思います。強いて含めるならエヴァンゲリオンはそれなりに人気あるみたいでしたけどね。
これは、バルセロナのアニメ・漫画フェスティバルに行ったときのコスプレの人気キャラの印象と附合していると思います。男子だとドラゴンボールとかONE PIECEやナルトなどの少年ジャンプ的な漫画のコスプレは沢山見る(女子だと初音ミクとかセーラームーンとか)んですけど、ロボットアニメのキャラのコスプレやってる人ってほとんどいなかったのですね。。
なぜ日本以外でロボットアニメが受けないのか?についての考察として、検索してみたらこんな記事がありました。まぁベタベタではありますが、やっぱり宗教の影響は無視できないというのはその通りだと思います。前回の投稿で言及したように、神道のようなアミニズムでは見えない物や無生物にも魂が宿るという考え方があって、無生物と生物をあまり分けて考えていません。一方、西欧人にとっては無生物に命を吹き込むというのは神の所業であって、人間がロボットを作るということ自体が、例えばフランケンシュタインやゴーレムなどのような禍々しい魔術、呪術的な営みになるわけです。確かにそう考えると、日本人ほど気楽にロボットアニメが理解される風土ではないだろうとは思います。
しかしロボットアニメというのが海外に全く無いというわけではないのですよ。僕が自分で見たことがある唯一の事例として、アメリカ産ロボットアニメのトランスフォーマーがあります。このシリーズのテレビ放送は日本でもやってて、僕も子供の頃見ていました。ところがこのトランスフォーマー、ロボットが人間のように喋ったりするんですけど、中に人が乗っているわけではないのですね。だから何って、このアメリカ産のアニメにはひたすらロボット同士の戦いだけが描かれていて、人が出てくる印象がまるで無いのです。
一方わが国のロボットアニメは、最初こそ鉄人28号みたいに少年が遠隔で操作する方式でしたが、マジンガーZあたりからは「巨大ロボットに少年が乗り込んで操縦する」というスキームが確立されて、その後は基本的にこのパターンですよね。実は上述のトランスフォーマーの話にも続きがあって、アメリカ産アニメの放映が終わった後に日本オリジナルの続編がつくられたのですが。日本版トランスフォーマーでは最終的には人間がロボットに変身するという形態になってしまったのです。
なんで日本人がつくるロボットアニメは必ず「人間がロボットを操作する」のか。そして、その大半はなぜ「少年がロボットに乗り込む」のか。これについて例によって内田先生を引用するのですが、今回ばかりは内田先生の説に僕はあんまり納得していません。内田先生が言ってるのは「武力(ロボット)を無垢な心を持った少年がコントロールする」という話形に戦後日本人の集合的無意識が反映されているということなんだと思うのですが。僕は太平洋戦争や米軍による日本占領などが無かったとしても日本人はロボットアニメを作り出していたはずだと思うのです。
まず、少年がロボットを操縦するのは、単純に見ている子供にとって感情移入しやすいからなんじゃないかと思います。以前も指摘したように、日本という国は子供の子供らしい振る舞いに寛容な国であるので、漫画やアニメのように「子供」という消費者層に特化した文化が醸成されたのだと思うのです。だからこそ、ターゲットである子供がより感情移入しやすいように、アニメでは少年が主人公なんじゃないでしょうか。別にロボットアニメに限らず、日本のアニメってだいたい少年が主人公ですから。一方、欧米では子供というのは大人への過渡段階だと考えられているように思えるのです。だから、子供のための娯楽である漫画やアニメのような文化は発達せず、子供達は大人向けのコンテンツであるサッカーに登場する大人のサッカー選手に憧れるわけです。
そしてロボットに乗り込むという形式には、「巨大ロボットという母の胎内で守られる」という母胎内回帰願望と関係があるように思います。エヴァンゲリオンなんて、本当に母親の魂がロボットの中に宿ってますからね。「巨大なお母さんに乗る」というのは龍の子太郎みたいな昔話にも出てくるモチーフでもあります。なんで日本人がこのモチーフを好むかといえば、日本的=天皇的=女性原理という説明にやっぱり行き着くのではないでしょうか。
あと、養老猛司氏が言うところの「脳化」もこれと関係あるように思えるのです。氏曰く、日本人の身体感覚は江戸時代くらいに急速に「脳化」して、身体性を喪失してしまったらしいのです。これはつまり、我々日本人の身体感覚というのは身体というロボットを脳というパイロットが操縦している感覚に極めて近いということなのではないでしょうか?だとすると、人型の巨大ロボットに人が乗って操縦するというロボットアニメを受け入れる素地が我々日本人には備わっているのではないかと思うのです。
以上、ここまでの話では一環して「日本のロボットアニメは海外ではウケない」と言ってきましたが。実は例外がありまして。スペインではなぜかマジンガーZが国民的な人気アニメなのですよ。少なくとも30-40代の男子の大半はマジンガーZを見たことがあるのですね。かといって、ガンダムとかマクロスみたいなリアルロボット系もウケるかと思いきや、そっちにはほとんど関心を示さないのです。つくづくスペインは不思議の国ですね。
2014年3月30日日曜日
空間除菌とアミニズム
二酸化塩素による殺菌(殺ウイルス)効果を謳った空間除菌(除ウイルス)商品に対して消費者庁から措置命令が出たんだそうです。僕が理解した範囲では、二酸化塩素という薬品をウイルスと一緒に試験管に入れて放置するような実験では二酸化塩素の効果が認められたものの、開放空間においては本当に効果があるのか疑わしいということみたいです。
実は携帯タイプの物は僕も去年の冬に買って、一時期は家の外ではずっと首からぶら下げていました。本当にそんな効果があるのかは正直怪しいとは思っていたのですが、なんとなくみんなが使ってるのを見てたら買ってみたくなっちゃったのです。たぶんこの手の商品をお金出して買った日本人の大半が僕と同じような感覚だったんじゃないかなとは思います。本気で信じてないまでもなんか意味あるのかもしれないからとりあえず買ってみよう、ぐらいに考えてたんじゃないでしょうか。
この除菌アイテムに限らず、マイナスイオンとかプラズマクラスターなど「見えない物」の科学的効果を謳った商品って日本人はつくづく大好きですよね。あと、ファブリーズなんかの「禊・浄化」関連のグッズなんかも大好きですよね。まぁ、ファブリーズに関しては見えないけど「臭い」で実際に効果が分かるんですけどね。
同様の事例はいくつもあって、例えば「ココがヘンだよ日本人!」話になるとよく出てくるお約束アイテムの一つにマスクがあります。確かに僕の知る範囲では日本以外の国でマスクして歩いてる人を見たことはほとんどありません。「風邪のウイルスは飛沫感染するのでマスクが感染しない/感染さないために有効である」というロジックそのものは、たぶん日本人以外にも説明したら納得してもらえるんだろうとは思うのですが。日本人が当たり前のようにマスクをつけて外出する習慣を持つに至ったのは、「見えないウイルスがそこに存在するかのように感じる能力」に因るところが大きいんじゃないかと思います。
他にも、子供の頃に嫌われてる子に触れたら、「~菌」とか言いながら他の人に手で触って菌を感染させるのってありましたよね?ああいうのも「目に見えない菌という物の存在を身近に感じる」という文化的背景が無いと成立しないんじゃないかと思います。
このようにウイルスや菌などといった衛生(ケガレ)に関しては殊更日本人は敏感だと思います。そして、やっぱりこういう民族的奇習は神道及びアミニズム(精霊信仰)に由来してるんだろうと思います。
こういう日本人の特徴を体系的に説明した作品に「空気の研究」(山本七平)がありまして。概要はうまくまとめた紹介文があったのでこちらをご参照ください。この本は日本人特有の「空気」の事例を紹介し、その空気が日本人の間で醸成される原因として、物や言葉などに見えない力が宿っているかのように感じてしまう(山本氏の言い方をすると"臨在的把握")ことを指摘しています。そしてこの背景にあるのはアミニズム(精霊信仰)なのではないかというのが「空気の研究」の骨子です。
一例をご紹介すると、「墓地発掘の現場で毎日何個も人骨や髑髏を掘り出して運搬しているうちに日本人は病人のように弱ってしまったけどイスラエル人はなんともなかった」というエピソードが「空気の研究」では挙げられています。曰く、イスラエル人にとっては人骨は骨という物質以上の意味を持たないのに対して、日本人はその人骨から何か禍々しいものを感じ取ってしまって体調を崩してしまったのだそうです。
散々このblogで言及している表徴の帝国というロラン・バルトの日本文化論でもこれと同じようなことが指摘されているのです。wikipediaの解説をそのまま引用すると
西洋世界が「意味の帝国」であるのに対し、日本は「表徴(記号)の帝国」と規定する。ヨーロッパの精神世界が記号を意味で満たそうとするのに対し、日本では意味の欠如を伴う、あるいは意味で満たすことを拒否する記号が存在する。そしてそのような記号は、テクストの意味から切り離されたことで、独自のイメージの輝きを持つものとなる。
これ、上記の人骨の話におけるイスラエル人(=少なくとも思考様式は完全に西洋人)と日本人の話にそのままあてはまると思います。
実は携帯タイプの物は僕も去年の冬に買って、一時期は家の外ではずっと首からぶら下げていました。本当にそんな効果があるのかは正直怪しいとは思っていたのですが、なんとなくみんなが使ってるのを見てたら買ってみたくなっちゃったのです。たぶんこの手の商品をお金出して買った日本人の大半が僕と同じような感覚だったんじゃないかなとは思います。本気で信じてないまでもなんか意味あるのかもしれないからとりあえず買ってみよう、ぐらいに考えてたんじゃないでしょうか。
この除菌アイテムに限らず、マイナスイオンとかプラズマクラスターなど「見えない物」の科学的効果を謳った商品って日本人はつくづく大好きですよね。あと、ファブリーズなんかの「禊・浄化」関連のグッズなんかも大好きですよね。まぁ、ファブリーズに関しては見えないけど「臭い」で実際に効果が分かるんですけどね。
同様の事例はいくつもあって、例えば「ココがヘンだよ日本人!」話になるとよく出てくるお約束アイテムの一つにマスクがあります。確かに僕の知る範囲では日本以外の国でマスクして歩いてる人を見たことはほとんどありません。「風邪のウイルスは飛沫感染するのでマスクが感染しない/感染さないために有効である」というロジックそのものは、たぶん日本人以外にも説明したら納得してもらえるんだろうとは思うのですが。日本人が当たり前のようにマスクをつけて外出する習慣を持つに至ったのは、「見えないウイルスがそこに存在するかのように感じる能力」に因るところが大きいんじゃないかと思います。
他にも、子供の頃に嫌われてる子に触れたら、「~菌」とか言いながら他の人に手で触って菌を感染させるのってありましたよね?ああいうのも「目に見えない菌という物の存在を身近に感じる」という文化的背景が無いと成立しないんじゃないかと思います。
このようにウイルスや菌などといった衛生(ケガレ)に関しては殊更日本人は敏感だと思います。そして、やっぱりこういう民族的奇習は神道及びアミニズム(精霊信仰)に由来してるんだろうと思います。
こういう日本人の特徴を体系的に説明した作品に「空気の研究」(山本七平)がありまして。概要はうまくまとめた紹介文があったのでこちらをご参照ください。この本は日本人特有の「空気」の事例を紹介し、その空気が日本人の間で醸成される原因として、物や言葉などに見えない力が宿っているかのように感じてしまう(山本氏の言い方をすると"臨在的把握")ことを指摘しています。そしてこの背景にあるのはアミニズム(精霊信仰)なのではないかというのが「空気の研究」の骨子です。
一例をご紹介すると、「墓地発掘の現場で毎日何個も人骨や髑髏を掘り出して運搬しているうちに日本人は病人のように弱ってしまったけどイスラエル人はなんともなかった」というエピソードが「空気の研究」では挙げられています。曰く、イスラエル人にとっては人骨は骨という物質以上の意味を持たないのに対して、日本人はその人骨から何か禍々しいものを感じ取ってしまって体調を崩してしまったのだそうです。
散々このblogで言及している表徴の帝国というロラン・バルトの日本文化論でもこれと同じようなことが指摘されているのです。wikipediaの解説をそのまま引用すると
西洋世界が「意味の帝国」であるのに対し、日本は「表徴(記号)の帝国」と規定する。ヨーロッパの精神世界が記号を意味で満たそうとするのに対し、日本では意味の欠如を伴う、あるいは意味で満たすことを拒否する記号が存在する。そしてそのような記号は、テクストの意味から切り離されたことで、独自のイメージの輝きを持つものとなる。
これ、上記の人骨の話におけるイスラエル人(=少なくとも思考様式は完全に西洋人)と日本人の話にそのままあてはまると思います。
2014年3月22日土曜日
日本人の永遠のテーマ「ヤンキー論」をちょっとだけ
今回のお題は「ヤンキー」です。これ、「天皇」とか並んで日本人にとっての永遠のテーマの一つだと僕は思います。ナンシー関は生前「日本人の血からヤンキーとファンシーは消えない」と言ってましたが、彼女の没後10年以上経った今でも本当にその通りだと思います。「ファンシー」に関しては、ぱっと思いつくだけでも「ゆるキャラ」「きゃりーぱみゅぱみゅ」「初音ミク」など、佃煮にして売れるくらい日本はファンシーで埋め尽くされています。まぁ、実際に「クールジャパン」っていう名前の佃煮にして外国に売り出そうとしているんですけどね。
一方のヤンキーですが。こちらも相変わらず根強い人気です。清原や長渕や亀田一家、EXILE、最近じゃビッグダディなんかもこのカテゴリに入るんでしょうかね?「ファンシー」ほどのもてはやされ感は無いものの、このカテゴリのキャラクターには常に一定の需要があります。
前回の投稿で、日本人はある程度自律的に横並びの社会を維持することができる反面、その社会の維持には「負の感情の共有」(例えば目上の誰かの悪口を言い合うとか)が伴うことが往々にして発生する。ということについて言及しましたが。別の言い方をすると、日本人は自律的に社会秩序を形成できる反面、その社会は自動的に「虐げられた者」のマインドを持った多数の庶民で構成されることになってしまうんじゃないかと思うのです。
ところが「社会秩序にまつろわぬもの」、つまり、社会秩序の中に組み込まれない特殊な人達もいたそうなのです。さて、ここからは内田先生経由で、網野善彦の「童子」「京童」の完全な受け売りになりますが。それらについては、こことか内田先生のblog(1)、内田先生のblog(2)、などをご参照くださいませ。僕の理解した範囲では、童子というのは
・社会秩序から束縛されず
・普通の成人とは異なる容貌(子供のままの髪型)で
・異形の力を持つと恐れられていた
ということらしいのですよ。これってヤンキーそのものじゃないですかね?上記をヤンキーにあてはめると
・学校に行かない。反社会的。大学出てサラリーマンになるという標準モデルが眼中に無い
・独特のファッション
・なんといっても暴力的
と、きれいに附合するわけですよ。
平安時代にすでに「童子」というヤンキーが存在していたんだとしたら、ヤンキーは日本の伝統だと言ってもいいんじゃないでしょうか?ヤンキーは「虐げられた者達」である庶民のカウンターであり、だからこそ、社会秩序から束縛されないヤンキーは庶民にとっての憧れだったんじゃないかと思うのです。かくして、千年以上に渡ってヤンキーに憧れ続けてきたんだとしたら、そりゃ確かにナンシー関が言うように日本人の血からヤンキーは消えないだろうと思います。
特に現代においては社会秩序に沿って普通に生きるということと、人類がこれまで積み上げてきた自然な営為との乖離がどんどん激しくなっていくので、ヤンキーに対して我々庶民が持つ憧れには「人類が積み上げてきた人としての自然な営為」への憧れも含まれているんじゃないかと思うのです。例えば現代の日本で「普通に生きる」というのは、それなりに勉強して大学を出てサラリーマンになって毎日パソコンに向かってデスクワークの日々、家に帰ると核家族で子供は多くても二人で…ということになるんでしょうが。ご存知の通りわが国のヤンキーは中学か高校くらいで勉強を放棄し、多くは肉体労働に従事します。そして早く結婚して平均より多くの子供を作ります。このヤンキーのライフスタイルって、つい100年か200年くらい前まではこっちが普通だったわけですよね。こう考えると、益々もって日本からヤンキーが消えることは無いと確信するに至るのであります。
一方のヤンキーですが。こちらも相変わらず根強い人気です。清原や長渕や亀田一家、EXILE、最近じゃビッグダディなんかもこのカテゴリに入るんでしょうかね?「ファンシー」ほどのもてはやされ感は無いものの、このカテゴリのキャラクターには常に一定の需要があります。
前回の投稿で、日本人はある程度自律的に横並びの社会を維持することができる反面、その社会の維持には「負の感情の共有」(例えば目上の誰かの悪口を言い合うとか)が伴うことが往々にして発生する。ということについて言及しましたが。別の言い方をすると、日本人は自律的に社会秩序を形成できる反面、その社会は自動的に「虐げられた者」のマインドを持った多数の庶民で構成されることになってしまうんじゃないかと思うのです。
ところが「社会秩序にまつろわぬもの」、つまり、社会秩序の中に組み込まれない特殊な人達もいたそうなのです。さて、ここからは内田先生経由で、網野善彦の「童子」「京童」の完全な受け売りになりますが。それらについては、こことか内田先生のblog(1)、内田先生のblog(2)、などをご参照くださいませ。僕の理解した範囲では、童子というのは
・社会秩序から束縛されず
・普通の成人とは異なる容貌(子供のままの髪型)で
・異形の力を持つと恐れられていた
ということらしいのですよ。これってヤンキーそのものじゃないですかね?上記をヤンキーにあてはめると
・学校に行かない。反社会的。大学出てサラリーマンになるという標準モデルが眼中に無い
・独特のファッション
・なんといっても暴力的
と、きれいに附合するわけですよ。
平安時代にすでに「童子」というヤンキーが存在していたんだとしたら、ヤンキーは日本の伝統だと言ってもいいんじゃないでしょうか?ヤンキーは「虐げられた者達」である庶民のカウンターであり、だからこそ、社会秩序から束縛されないヤンキーは庶民にとっての憧れだったんじゃないかと思うのです。かくして、千年以上に渡ってヤンキーに憧れ続けてきたんだとしたら、そりゃ確かにナンシー関が言うように日本人の血からヤンキーは消えないだろうと思います。
特に現代においては社会秩序に沿って普通に生きるということと、人類がこれまで積み上げてきた自然な営為との乖離がどんどん激しくなっていくので、ヤンキーに対して我々庶民が持つ憧れには「人類が積み上げてきた人としての自然な営為」への憧れも含まれているんじゃないかと思うのです。例えば現代の日本で「普通に生きる」というのは、それなりに勉強して大学を出てサラリーマンになって毎日パソコンに向かってデスクワークの日々、家に帰ると核家族で子供は多くても二人で…ということになるんでしょうが。ご存知の通りわが国のヤンキーは中学か高校くらいで勉強を放棄し、多くは肉体労働に従事します。そして早く結婚して平均より多くの子供を作ります。このヤンキーのライフスタイルって、つい100年か200年くらい前まではこっちが普通だったわけですよね。こう考えると、益々もって日本からヤンキーが消えることは無いと確信するに至るのであります。
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