2022年4月18日月曜日

コンスタンチン君とウクライナ

 子供の新学期がやっと始まってくれたので、春休み期間中の半強制テレワーク生活からも解放されました。が、終わってみたら今度は「毎日会社に行く」のがとても面倒になってきました。というわけで、雨降ってる日なども含めて、週に1,2日くらいはテレワークを継続しています。一人で家にいると昼ご飯の時も自分で好きなようにテレビのチャンネルを合わせられるので、とりあえずお昼時にはテレビをつけてはみるのですが。お昼のワイドショー?のような番組のクオリティが残念過ぎて、いくつかザッピングして結局NHKに落ち着くか、諦めてテレビを消してしまうか、どちらかになってしまうのです。

さて。その日本の民放ですが。ひと昔の「北朝鮮ー金正恩」のポジションが完全に「ロシアープーチン」に置き換わった感があります。そして、ちょっと今までにない展開として、ウクライナ難民を日本政府が受け入れることを大々的にテレビが報道していることです。これまで日本という国はミャンマーやアフタニスタンの難民受け入れに消極的だったり、ウィシュマさん事件のように外国人の人権に対して意識が低かったりしてきたわけです。そもそも、難民と移民の区別もつかないような人がちょっと前まで首相だったくらいですからね。

以前指摘したように、この国は「外国人が日本で暮らす」という内側の国際化には冷淡でした。しかし、ウクライナ難民に対する日本人の反応はどちらかというと「おもてなし」や「クールジャパン」のように内的自己と外的自己が同じ方向に向かっているように見えるのです。改めて強調しておきますが、ウクライナ難民の受け入れ自体はよいと思いますよ。でも、この先の日本が緒方貞子さんなどが訴えてきたように、「人道」ひいては「人権」に対する深い意識をもって難民を受け入れ続ける国になっていくとはどうも思えないのです。どちらかと言うと前回指摘したように、オリンピックの代替品として一過性のウクライナ難民ブームが起きているだけのように見えるのです。

このウクライナ難民に対しての日本人の熱意の傾け方はどこかで見たことがあるなと思っていたのですが、さっき車を運転したいたときに思い付きました。懐かしのコンスタンチン君です。もう30年以上前の話ですが、ソ連崩壊直前に大やけどを負ったソ連(当時)の子供が日本の病院に搬送されてきて、一命をとりとめるという事がありました。この時の日本にはコンスタンチン君フィーバーが巻き起こりました。バブルでお金も余っていたのもあって、すごい額の募金がコンスタンチン君のために集まりました。が、その後コンスタンチン君と同様にソ連から重篤な症状の子供が来た時には、コンスタンチン君の時のようなフィーバーにはならなかったそうです。

2022年3月21日月曜日

Everybody wants to rule the world

スマホでSNSに投稿したメッセージが世界中を駆け回るような時代に、まさかの戦争が起きてしまいました。この戦争によって、キューバ危機以来50年以上ぶりくらいで、一つ間違えば核戦争で人類全体が絶滅するかもしれないという危機を迎えています。「まさかそこまでしないだろう」と誰もが思っていた一線を、プーチンはやすやすと超えてしまいました。

このような非常事態を受けてわが日本にも少しだけ変化の兆しが見えてきているように思います。というのも、今まで一枚岩に見えていた反知性主義陣営にも小さな断裂が見えはじめたのです。具体的に列挙してみると、

  • A. 橋下徹やテリー伊藤のように安易にウクライナに降伏を呼びかける人
  • B. 安倍晋三のように、核武装論を唱える人
  • C. ゼレンスキーが真珠湾に言及したことに反応してウクライナ支援に異議を唱える人

簡単にウクライナに対して降伏せよと言うAの彼らには、「勝ち負け」という単純な基準にしか関心がないのでしょう。橋下徹なんてまさにそういう人ですよね。しかし、これとCとは矛盾してしまうんどえす。Aの人たちの価値基準に従えば、第二次大戦で日本がアメリカ相手に勝ち目があるわけもない戦いに打って出たことは愚行以外の何物でもないし、だまし討ちのような形で戦争を始めたのに結果ボロ負けしたことなどは恥以外の何ものでもないことになります。でもCの人達はそれに納得したくないわけですよね?

その一方で、上記A-Cの反知性主義者達に共通しているのは「自論に対して異議を唱える人や利害が異なる人がどのように反応するかを考慮していない」ということです。例えばウクライナに降伏せよと主張する彼らは、仮にウクライナが全面降伏した後にロシアがウクライナにどのような苛烈な扱いをするかを想像できていないですよね?だからこそウクライナ人は安易に降伏せずにほどほどにマシな停戦合意に持ち込むために戦っているわけです。Bの安倍晋三のような核武装論者も、日本が仮に核を持とうとした場合、周辺諸国との間に緊張をもたらすことまで本気でシミュレーションしているようには思えないです。

 たとえて言うなら、彼ら反知性主義者は「ゲームでしか麻雀をやったことがない人」のように見えるのです。ゲームの麻雀ではいくらでも他のプレイヤー(実際の人ではない)を待たせて考えることもできますし、なにより負けたところで掛け金も何も失うものがありません。しかし、本物の麻雀では流れを悪くしないように配慮しなくてはいけないので周りを待たせて長時間ゆっくり考えることはできませんし、負けたらいくばくかの掛け金も持っていかれるわけです。

 このような独善的な自己愛に耽溺している反知性主義者達は、プーチンとよく似ているように見えます。一部報道では、プーチンは発狂まではしていないものの、長い独裁体制で視野狭窄になっていて、ウクライナや国際社会の反応を十分にシミュレートできていないまま今回の軍事行動に踏み切ったのではないかと言われています。これがどこまで事実なのかはさておき、仮にそれが正しいとするなら、プーチンの起こした軍事行動について、日本のテレビではプーチンの劣化コピーみたいな人達が意気揚々とコメントしていることになるわけです。

 プーチンおよび日本の反知性主義者は、岸田秀の「内的自己/外的自己モデル」に照らして考えると内的自己そのものであるように思えます。日本のテレビはこのような反知性主義者をどんどんテレビの画面に映し出していますが、その一方でここ最近の日本社会には「各国と連帯してウクライナ支援しよう」という空気が主流になってきているように見えます。これは、岸田秀のモデルで言うところの外的自己にあたると言ってよいでしょう。このように国際社会のチームワークの一翼を担うこと(=外的自己の充足)に対しては、日本人はオリンピック以来の高揚感を感じているようにも見えるのです。結果的に、シリアやミャンマーの難民には何もしなかったのに、ウクライナの難民だけはものすごい勢いで受け入れようとしていますよね?

Everybody wants to rule the worldという曲は冷戦終結が見え始めた1985年くらいに流行った曲です。一説ではこの曲はジョージ・オーウェルの「1984」をモチーフにしているとも言われています。みんなが世界を思い通りにコントロールしたい…でも、そんなことは歴史上ほんの数人しか成しえなかったことです。たとえそれを運よく達成できたとしても、孤独と猜疑心の中を生き続けた末に寂しく死んでいった人がほとんどだったのではないでしょうか。僕にはプーチンがそういう系譜の一人のように思えてなりません。

2022年1月10日月曜日

千と千尋の神隠しは日本社会そのものを描いているように見えた

 あけましでおめでとうございます。今年も読んでる人がいるのかもよくわからないblogを時々は更新していこうと思います。年明け早々にテレビで「千と千尋の神隠し」を放送していたので録画しておいたところ、子供がハマったようで何度も一緒に繰り返し見てしまいました。何度も見てるうちに、「千と千尋」は日本社会の問題点をそのまま描いているように思えて仕方なくなってきました。ネットで検索すると油屋はホワイト企業という記事もあったりもするのですが、たとえネタではあってもそれはこの映画の趣旨からすると違うんじゃないか?と思ったので、そのあたりを順番に書いてみようと思います。

「千と千尋」の舞台となる油屋で働く人々は湯婆婆に本当の名前を奪われて、代わりに源氏名のような名前を与えられて支配されています。そして、従業員はたとえカオナシやクサレ神であっても基本的に「お客様」として丁寧に接することを要求されています。これは、個人としてのアイデンティティを殺して「お客様」に対してマニュアル化されたサービスを提供することを要求される日本の社会をそのまま描いているように見えました。 

 そして、お客様として理不尽な立ち振る舞いをするカオナシもまた従業員と同様に「自分がない」のです。「自分がない」から金を食べ物やサービスと交換する経済活動を通してしか他人と接することができないわけです。これって、日本そのものだと思いませんか?

設定やビジュアル面でも油屋は「八百万の神」「お風呂」「老松」「平安風の装束」など、これでもかというくらいに「和=日本」が強調されています。そして、物語の中盤で名前を取り戻した千尋は油屋から外に出るときに洋服に着替えます。これは、「油屋=日本社会=自分が千である世界」から脱出する道を歩み始めたことを象徴しているように見えました。

では「湯屋=日本社会」から自由になるにはどうするか?「名前=自分」を取り戻しただけでは湯屋からは自由にはなれません。更に、自分を縛り付ける「契約=ルール」を解除することが必要になります。映画の最後で湯婆婆は「豚の中から自分の親を見つけられれば元の世界に戻してやる」と千尋に言い渡します。このゲームのルールは、暗黙のうちに「この中に千尋の親がいるはずだ」という思い込みを与えるようにできています。しかし、これに惑わされない千尋は「この中には自分の親はいない」と、何の躊躇もなく言い当てます。このシーンは、「押し付けられたルール(社会規範)の外に出ない限りはルールから自由になることはできない」ということを示唆しているように思いました。

以上で「千と千尋」について書きたかったことはだいたい終わりなのですが。長らくblogをやっていると、何か書こうと思ってキーボードに向かってみたものの、書いてるうちに自分が昔似たようなことをblogに書いたことを思い出すことがあります。今回も、書いてる途中で「昔似たようなこと書いたよな」と思って検索してみたら、このblogを始めた直後に同じようなことを書いていたじゃないですか。そう、スペインのように「お互いに許し合う社会」では日本人のような病み方はしないですよね。同じラテン系くくりになりますが、ちょうど この前読んだイタリア人の精神科医が日本について書いた記事にも同じような記述がありました。

「会社や学校など世の中の建前に合わせようとするあまり、自分が思ってもいないのに、無理してうわべだけ取り繕おうとする。そうした“感情労働”が心をむしばむのです。


2021年12月17日金曜日

オミクロン株と真鍋淑郎さんと眞子様

気が付いたら年の瀬になりました。12月に入ったくらいから「ああもう年末か。こうやってまた一つ歳をとるのか。」という侘しい感慨のようなものが時々頭に浮かんでくるようになりました。こんなことを思うようになったのは人生で初めてです。本当は誕生日にそういうことを考えるべきなのでしょうが。おじさんになると自分の誕生日なんて奥様と子供がケーキを食べる口実になるくらいでこれと言ったイベント感もないので、年末→新年というイベントの方がこういうサイクルを意識しやすいのでしょうかね。

僕はTwitterで海外在住日本人を沢山フォローしているので、オミクロン株への日本政府の水際対策の影響で、海外から入国に関して不自由を強いられている人達の話が毎日のようにTLに流れてきます。介護のために帰国しようとしていたのに、外国人の配偶者の入国が認められずに家族が離れ離れになってしまう問題に直面している人。あるいは入国はできても、その後の退屈で窮屈な隔離生活で辛い思いをしている人。親の死に目に会えるかという瀬戸際にいる人。色々な人の人生がTwitter越しに伝わってきます。海外在住の日本人にとってみれば、たとえ直近で帰国の予定は無かったとしても大きな問題なので、関心が高いのはとてもよくわかります。

僕は企業からの派遣という形で2年間スペインにいましたが、在住者の日本人には色々な人がいました。僕と同じように会社から派遣されてきたサラリーマンもいれば、留学してそのまま居ついてしまった人、言葉もわからないままスペイン人と結婚してスペインにやってきて、離婚後もそのまま日本に帰らずにスペイン居続ける人…事情はそれぞれですが、どのような立場の人にとっても日本は祖国であることに変わりはなく、また、「本当にどうしようもなくなったら、最後の最後は日本に帰ればいいや」と思えることは、海外で暮らす日本人にとって最後の拠り所のようなものだと思います。それはたとえ何十年海外に暮らしている人であっても大なり小なり同じようなものだろうと思います。

一方で、Twiitterを見ていると海外からの帰国者に対して、「今日本に帰ってくるなんて非常識」「それなりの覚悟を持って日本から勝手に出て行ったんだろう?」といった攻撃的な言葉を浴びせる人達がTwitterの世界にはいるようです。コロナ感染が騒がれた初期の頃の「自粛警察」を思い出させるような話ですね。そこを問題にするんだったら、オリンピックのためにデルタ株を感染拡大させて多くの被害を招いた日本政府、隔離措置なしで入国したバッハ会長、今も隔離もなく日本に入国できる米軍関係者など、もっと問題にすべきことが沢山あると思うのですけどね。おそらくこういう人は、不満があってもお上を批判しようとは思わない代わりに、自分が攻撃できそうな標的を見つけたら容赦なく叩いて快哉の声を叫びたいタイプの人なのだろうと思います。

海外から帰国しようとする日本人に対して「それなりの覚悟を持って勝手に出て行ったんだろう?」と言うのであれば、それなりの覚悟を持って日本から出て行った著名人に対しても同じ姿勢で扱うのがフェアな態度だと思います。日本国籍を離脱した真鍋淑郎さんや中村修二さんのノーベル賞を「日本人枠」としてはしゃいでいることに苦言を呈するべきでしょう。そしてなにより、「それなりの覚悟を持って」アメリカへ渡った眞子様を追いかけ回すマスコミにも物申すのが筋だと思います。


2021年10月24日日曜日

僕は日本語の文章に!と(笑)は使いたくない

社内広報誌の片隅に、顔写真とともに自分が書いた短い文章が載ることになりました。とりあえず「だいたいこんな感じかな?」という文面を作文して広報誌の編集担当者へ送ってみたのですが。そしたら、想像していた以上に修正されてかえってきました。念のため申し上げておくと、編集担当者のメールの文面はすごく丁寧で、メールの文面を読んでる限りではご本人の人柄については何も問題を感じるような点はありませんでした。

修正箇所全部がダメというわけではないのです。話が分かりにくいところが分かりやすくなるように説明を補ったりとか、納得できるところもあるのですよ。しかし。僕がフォーマルな文章ではまず使わない「体言止め」に勝手に書き換えられている箇所があったり、そして、なにより致命的だったのは最後が読点(。)で終わっている文章を勝手に「!」に書き換えられたことです。
 
僕は日本語の文章に「!」とか「(笑)」は絶対使いたくないのです。その昔、上司に「酸味げる君、報告書に『~が原因?』みたいに文末に『?』を使うのはやめようよ」と言われたときに、「あなたは日本語のメールに『!』をやたら使いますよね?僕から見たらそっちのほうがはるかに問題です。」と口答えしたことがありました(若かったなぁ)。さておき、僕から見ると世の中には「『!』を使える人」と「使えない人」の二種類の人がいて、ここには大きな断裂があるように思えるのです。

修正された草稿を見た瞬間、怒りとも落胆とも何とも言えない気分になりました。社内の広報誌とはいえ、まがりなりにもコミュニケーション媒体に携わっている人間の日本語に対するリテラシーやデリカシーがこんなにひどいとは思ってもいなかったのです。
しばらくたって冷静になった後でこんな解決方法を考えました。「勝手に文体を書き換えないでください!私は日本語の文章に「!」を使うことなんて絶対にしません!」というギャグなのかよく分からないメールを書いて送り付ける。うん、これは我ながらアイデアとして最高だ。少しユーモアを交えて抗議する方が、ストレートに怒るより断然エレガントだ。
 
でも、そうもいかないのですよ。だいたい、勝手に他人の書いた文章の「。」を「!」に書き換えるようなデリカシーのない奴がこれをギャグとして理解できるとは期待できない。むしろそういう奴に限って、「ふざけないでください!」とか言ってきやがる可能性が高い。。結局、「文体というのは人格の一部ですから、度を越した文体の改変は人格の侵害になります。私にとっては『。』を『!』に書き換えるのは、そのレベルでNGです。」と、わざわざ正攻法で抗議してやることになりました。大人ってつまんないなぁ。。
 
日本人は部署内などの顔見知りばかりの「内」の社会では「阿吽の呼吸」のようなハイコンテクストなコミュニケーションを好むのに、部署や会社が違う「外」に向けては極端にローコンテクストになります。このような外向きの姿勢は「問題が起きないようにするのが最適解だ=事なかれ主義」によって正当化されているのでしょうが。この弊害として「ローコンテクスト」と「相手のコミュニケーションに関するリテラシーを0査定してかかる」ことを混同してしまっている人がいるような気がします。件の担当者の「表面的には穏当で丁寧なメール文面」と、「残念なまでに改変された原稿」を見比べていると、そんなことを考えてしまいました。

2021年9月11日土曜日

白鵬にだけ品格を求めるのはどうなんだろ?

オリンピックも終わり、スガ首相が政権を投げだしたので自民党の総裁選挙に世間の注目が集まっている…という状況でこれを書いています。オリンピック期間中はプロ野球や相撲などの日本のプロスポーツはすっかり世間から忘れられていましたが、明日から大相撲の9月場所が始まります。

7月の名古屋場所は白鵬の全勝優勝で終わりましたが。特に千秋楽付近での白鵬の「土俵際ギリギリくらいまで後ろに下がって正代の立ち合いの勢いを無力化する」や「照ノ富士に対しての立ち合いのかち上げ」といった立ち振る舞いについて「横綱の品格にもとる」「かち上げは危険なので禁止にすべきだ」といった批判の声が方々から上がりました。以前から「白鵬は自分に有利なタイミングで立ち合っている」と言われてきましたが、名古屋場所終盤での白鵬の立ち振る舞いはこれまで自身に課してきたリミッターを解除して、「ルール上禁止されてないことは何やってもいいじゃん」とでも言っているように見えました。

「かち上げ禁止」のルール化などはスポーツとして相撲を捉えるならおかしな話ではないと思いますが、実際にそういうルールを作ると大相撲はまた一歩「神事」としての側面が減って、「ただのスポーツ」に近づいてしまいます。時津風部屋の暴行死事件以降、大相撲の運営はどんどん「スポーツ=近代化」されていますが、土俵上のルールにまで近代を持ち込むのは、大相撲のアイデンティティを考えると安易にやるべきではないと思います。大相撲のスポーツ化を進めていくと、アマチュア相撲に漸近してしまいます。だって、プロレスにルールを増やしちゃうと、ただのアマレスになっちゃうでしょ?

白鵬の名古屋場所での立ち振る舞いは、おそらく一代年寄の問題とも関連しているのだと思います。方々で言われていることですが、これまでの白鵬の立ち振る舞いや帰化問題など、諸々あって白鵬は引退後のキャリアが不明瞭なのです。相撲協会は「そもそも一代年寄という制度は明文化されたものではない」と白を切っていますが、どうやら相撲協会には白鵬には引退後に親方になる道を提供する気がなさそうです。名古屋場所での白鵬の立ち振る舞いは大相撲の世界に存在する「明文化されていないしきたり」に対するアンチテーゼでもあるのではないかと思います。

さて。ここからやっと本題なのですが。白鵬の立ち振る舞いは「横綱の立場でありながら国技大相撲の品位を貶めている」ように見えるかもしれませんが、一周回って白鵬は「この国の社会・政治の劣化」をそのまま体現しているとも言えるのではないでしょうか?白鵬の品格を非難するなら、その1/10でいいからこの国の政治家を非難してもよいのではないでしょうか?と僕は思うわけです。ご存知の通り、安倍政権以降の政治の劣化ぶりは目に余るものがあります。昔の自民党の政治家は、悪い事はするけど問題になったらとりあえず辞任してみせる程度の最低限の責任は取ってきました。このような「最低限の品格」というものは、第二次安倍政権以降の日本からはすっかり失われてしまいました。昭和の自民党だったらモリカケ問題が出てきたあたりで安倍晋三は辞任していたはずですですが、安倍晋三はいつまでも居直りつづけてますよね?そして現在のスガ政権も野党が求めている国会の開催を拒否しています。これは、明らかな憲法違反なのですが、日本の社会はこれを放置したままになっています。改めて申し上げますが、これを許しておいて白鵬にだけ品格を求めるのはおかしくないですか?

最後に、白鵬の今後について僕なりの提案ですが。アマチュア相撲の監督になるか、モンゴルなど海外に力士を育成する道場(あえて部屋と呼ばない)を作って、大相撲の力士に勝てるような力士を育ててはどうでしょうか?白鵬は大相撲にこだわるよりも「スポーツとしての相撲」の可能性を開拓した方がよいと思います。貴乃花親方もこっちの方が合ってると思います。ブラジルに渡った前田光世のグレイシー柔術が日本のプロレスに殴り込みをかけてきた時代のように、白鵬が育てた弟子が大相撲の力士を圧倒する…もしもこんなことが起きたとしたら、これは2000年前後の「プロレス vs 格闘技」と同じ構造が「スポーツ相撲 vs 大相撲」として再現することになると思います。あ、なんだか書いててわくわくしてきたぞ。

2021年9月4日土曜日

角川文庫とオリンピック

これを書いている現在、 
  • 誰が見てもオリンピックと関係があるとしか思えない感染爆発が日本中に広がっている
  • 関東を中心に自宅療養という名目で医療崩壊が起きていて、とうとう感染者の妊婦が自宅で自力出産の末に赤ちゃんが亡くなるという事件まで起きた 
  • それでもパラリンピックは予定どおり開幕した
  • 一方で、フジロック開催の是非については賛否両論の議論になっている 
  • 自公政権への国民の不満が募る中、スガ首相のお膝元の横浜市長選で自民党惨敗→とうとうスガ首相が退陣を表明 

という状況です。 日本のテレビはコロナの被害を伝える一方で、オリンピック&パラリンピック関連のトピックについては依然として今まで通りはしゃいでいます。日本のテレビを見ていると、オリンピックを開催している日本という国は、今自分が生きている日本とはどこか別の場所にあるような気がしてしまいます。このように、日本全体が統合失調症のような状態に陥ってるのを見ていると、結局日本人の内的自己と外的自己の分裂という症状はオリンピックでは快癒することなどなかったのだということを思い知らされます。「オリンピックの開催=外的自己の満足」と「メダルラッシュ=内的自己の満足」で支持率が維持できるとスガ政権は考えていたようですが、これらはどちらも岸田秀が言うように「幻想」でしかないのです。「幻想」はコロナによる生命の危機や、生きる糧を奪われた飲食業の人々の問題を何も解決できません。結果としてスガ政権は散々強気で通した挙句にとうとう崩壊しました。

 「科学的に取り組むことを忌避する」、「人間の生存に関わる基本欲求を無視する」、そして何より「都合のよいストーリーだけしか考えていなくて、プランBが存在しない」という点で、今回の東京オリンピックは第二次世界大戦における大日本帝国と同じ問題を焼き直した形になりました。オリンピック開催前から、開催反対派はコロナが収束していない状況でのオリンピックを「インパール作戦」になぞらえて批判していましたが。オリンピック招致~コロナという一連の物語がスガ政権崩壊で終わろうとしている状況は、日本にとって何度目かの「敗戦」の状況にあると思います。この「敗戦」を受けて、政権に都合の良い姿勢を取り続けてきた日本のテレビも、さすがに一段空気が変わりはじめたように見えます。 

 先日、角川文庫の本を読み終わったら、巻末に昔からある角川源義の「角川文庫発刊に際して」を見つけたので、改めて読んでみました。「第二次世界大戦の敗北は、軍事力の敗北であった以上に、私たちの若い文化力の敗退であった」から始まる文章を読んでいると、戦後70年経っても未だに日本人は何も本質的に変わっていないのではないかと思えてしまいました。特にコロナで浮彫になったのは、西欧や台湾のように科学を自分達の国の運営に活かしていけるほど成熟した文化レベルに日本が達していないということです。欧米ではコロナの感染拡大を防ぐためにロックダウンのような強権的な措置もとられましたが、その根拠やロックダウン終了のための数値目標などが政治家から示されていました。一方で、科学に対する社会的合意形成ができていない日本では、緊急事態宣言にともなって国民に対して政治からの「お願い」は出るものの、その根拠や解除のための数値目標は何も示されませんでした。

 あんまり救いの無いことを言っても仕方ないのでせめて前向きな話で終わっておきたいと思いますが、「角川文庫発刊に際して」を書いたときの角川源義のような人が少しずつでもいいからこの国をマトモにしてくれることを僕は願っています。