2019年1月14日月曜日

RIZAP的な詰め込みは”学び”と言えるんだろうか?

年明け以降、上司命令で東京のビジネススクールの講座に出張で通う羽目になりました。3月末までの間に数回の講座の度に新幹線に乗って出張しなければいけない上に事前に宿題が出たりと色々面倒この上ないのですが。どうしてもイヤというわけでもないので、今回は逆らわずに受けてみることにしました。新卒で入社して以来、大半の時間は社外の人とも接することなく過ごしてきたので。たまにはそういう場に出てみるのも悪くないと思ったわけです。
がしかし。1回目の講義を受けた段階で、もう既に次に行くのが正直なところ面倒になってきているのです。講義が始まる前は、隣の席におネイルがバッチリのお姉さん(仕事は超文系の総合職)が座ってたりしたので、ちょっとウキウキしていたのですが。講義が始まるなり講師の人が「皆さんで楽しく学びましょう!」と元気一杯に言い出して、そこからは乗せられた受講生が小学生のように手を挙げる…という展開が3時間続いたのです。

さすがに講師もプロですから、このあたりは手馴れたものだなと思いました。集団としての我々日本人は「互いに空気読みあって消極的になる」か、「幼稚園児みたいに従順になってはしゃぐ」の、どちらかしかできないということをつくづく思い知らされました。例えば、思春期くらいになると学校の音楽の授業ではお互いに空気を読みあってまともに誰もちゃんと唄おうとしないですよね?かたや、テレビで中高生の合唱の全国大会を見ていると、ヤバいクスリでもやってるんじゃないかと思うくらい目を見開いて恍惚の表情で歌ってる人がいますよね。我々日本人が集団として取りうる行動はこのどっちかしかないのではないかと思います。
「楽しく学ぶ」のは結構。でも、我々日本人にそれを言いっても、「うわついたりはしゃいだりせずに落ち着いて学ぶ」ということはどうしてもできないのです。このような「ハイ」な状態というのは短期的に情報を詰め込んで洗脳するに一番効率がいいのは認めるのですが、それは中長期的な「学び」を喚起するとは僕にはどうしても思えないのです。中長期的に学びを維持するためには「落ち着いて考える」ことを地道に繰り返すしかない。

本当の「学び」というのは教えられることを鵜呑みにするのではなく、「本当にそうかな?」「なぜそうなるんだろう?」と考えることの中にしか存在しないと思うのです。
これに対して、この手のセミナーは短期間で受講生の「何か学んだ・達成できたかのような気分」を最大化することだけが目的になっていて、結局やってることがRIZAPと変わらないと思うのです。講師の人の口ぶりを聞いてる限りでは、”ビジネス”という言葉さえ持ち出せば「洗脳による詰め込み」が正当化されると考えているような節があるのですが、「洗脳による詰め込み」って受講生の知性を見下してナメてるとしか僕には思えないのです。
一時的にハイになっている状態で学んだことの中に、後々臨終の間際に人生を振り返って「あれで人生変わった」と思えるようなことが含まれている事は絶望的に期待できないと思います。本来の意味での「学び」が起動すれば後はほっといても学び続けることになると思うのですが、ここで一時的にハイになってはしゃいでる人は講座が終わった後にそこから先を自ら学ぼうとはしないでしょう。せいぜい同じようにハイになって洗脳されることを「学び」だと思って自転車操業的に同じようなことを追いかけるんじゃないかと思います。

この講座の一番辛いところは、宿題として事前にやってきた課題(例えば「自分で企画書を作る」というようなものだと思ってください)を受講生同士で添削させられることなのです。なんとなく想像つくと思いますが、残念な人とペアにされると本当に苦痛な時間になってしまうのです。いきなり一回目でハズレをひきました。僕が作ってきた企画書は授業で教えられるような模範的な枠組みとはかなり違う構成になっていたのですが、残念なパートナー氏は僕がやってきた課題について何一つ褒めずに、授業で教えられたことを杓子定規に振り回して問題点だけを指摘してきました。
以下はそのとき僕が頭の中で考えてたことです。「あのさー、さっきから講義で言ってる話は『こういう風にした方がうまく行くことが多いよ』という経験則の話でしかなくて、その通りじゃないものはダメって言ってるわけじゃないはずなんだよ。どんなモデルやテンプレートにも適用可能な限界は必ずあるし、それだけが正解ではないんだよ。たぶんアンタ、自分の頭で考えてないことに自覚ないよね?あとさ、ダメ出しはしてもらって構わないんだけど、相手のいいところをいくつか見つけて褒めてバランス取るでしょ、普通?ダメ出しなんてアホでもできるんだけど、相手のいいところ見つけて褒めるほうがはるかに難しいんだよ。」

ちなみに「ビジネススクール」の講座は欧米のビジネススクールのものをそのまま教えているんだそうです。欧米人の思考様式や習慣という大前提が共有できていない日本人に表面的なテクニックとして欧米人の猿真似をやらせるからこんなことになるんだと思います。欧米人は例えばプレゼンなどに対して反対意見を述べるときでも、まずプレゼンした人の話のいいところを見つけて褒めるところから話を始めます。ビジネススクールは、まずこういうところでの「欧米人のフォーム」を教えることから始めてくれないかな。。

あと数回、先が思いやられる。。

2019年1月2日水曜日

「西郷どん」から大河ドラマを経て、結局最後は西田敏行

あけましておめでとうございます。「読者」が存在するのか最早分からないまま、早幾年。このblogもとうとう6年目に突入しようとしています。これを書いている現在はお正月のお休みで、例によってこういう長期休暇でちょっと時間的に余裕があるときには日頃温めていたアレやコレについて思うところをしたためてみようかと思います。
そんなこんなで、2018年の大河ドラマ「西郷どん」なのですが。四半世紀以上前ではありますが、1990年に一度大河ドラマとして取り上げた(このときの主演は西田敏行でした)ことのある「西郷隆盛」を改めて取り上げたということには、「どうしても我々日本人は西郷隆盛のような人が好きでしょう?」というメッセージを感じます。これについては、何も反論できない。確かに我々日本人は大久保よりも西郷みたいな人が大好きです。

今回の大河ドラマを見てて気になったのは、主演の鈴木亮平が今の世相とのシンクロぶりです。西郷の年齢に合わせて段階的に太っていくなど、通常あり得ないくらいのストイックさで鈴木亮平は役作りにのめり込んでいたのだと思います。役作りのために太ったりするということ自体は、いちいちロバート・デ・ニーロを引き合いに出すまでもなく、昔からやられていることなのでこれといって特別目新しいことではないのです。しかし、鈴木亮平の取り組み方はどこか過剰で病的に見えるのです。
彼の姿には「伸びしろのないこの国で、何かを犠牲にしてでも、まだ伸びしろがあるかのように見せる」という日本の有り様がそのまま投影されているように見えてしまいました。ここまでの世相と特定の役者が繋がって見えたのは、00年代後半の佐藤隆太(どこか空虚で中身のない前向きさ)と半沢直樹をやっていた頃の堺雅人(震災後の「他人を許す能力のない日本人」)くらいなのではないかと思います。

さて、その西郷どんの次の大河ドラマは東京オリンピックなんだそうです。東京オリンピックに向けての挙国一致体制やメディアスクラムについてはもう今更くどくど申しませんが。大河ドラマというのは幕末~明治くらいまでの時代が僕にとって大河ドラマと思える限界なので、東京オリンピックという時代設定が大河ドラマとしてアリなのか?ということがどうしても気になるのです。僕が覚えている大河ドラマは「独眼竜正宗」からなのですが、そこから西郷どんに至るまで大河ドラマは幕末~明治までの、つまるところ「現代と地続きではない過去」の範囲に収まっているのです。
せっかくの機会なので調べてみました。結果としては、ほとんどの大河ドラマは幕末~明治くらいまでの時代設定で、つまり、平たく言えば時代劇なのですが。丁度僕が覚えている「独眼竜正宗」の前の三作だけはこの例外にあったようです。ここから、このバブル前夜(1984-1986)の時期の3作だけが例外だった理由をちゃんと調べずに勝手に想像してみます。この時期まで20作以上大河ドラマを作って、ひとしきり時代劇に飽きてきたので別の方向に進みたいということも一つの背景だったんだろうと思います。そして、バブル前夜という時代にまで差し掛かったところで、戦争~敗戦~復興を経てバブル前夜に至る昭和という激動の時代を総括したいという機運もあったのではないかと思います。

大河ドラマの王道は、平均的な日本人のおじさんが快哉の声を上げそうな「スケールのデカい合戦モノ」か「幕末~明治サイコー」のどっちかです。ここには司馬遼太郎の影響が垣間見える気もするのですが、日本のおじさんは「敗戦国日本」を突き付けられるのを忌避する傾向にあるように思います。これは一昔の朝の連続テレビ小説では必ず太平洋戦争がやってきて女性目線を通して「被害者としての日本」だけが描かれていたのと相補的な関係を形成していると思います。
話をバブル前夜の異色の3作に戻しますが、この3作の中でも1984年の「山河燃ゆ」は、webの情報を見た限りでは今のNHKからは想像できないくらい攻めてる気がします。この「山河燃ゆ」は太平洋戦争というトラウマに対して真正面から挑んでいるようで、当時まだ御存命だった昭和天皇まで登場します(当然本人ではなく役者が演じているのですが)。そして、この作品は準主役が西田敏行だったみたいです。。

というわけで、大河ドラマの話をしてたら、なぜか西田敏行祭になってしまいました。よくよく考えてみると西田敏行ってすごく不思議なんですよね。特に顔が整ってるわけでもないし、歌が上手いわけでもない。「西田敏行がすごく好き」という人には会ったこともないけど、「西田敏行が大嫌い」という人にも会ったことが無い。冷静に考えるとなんであんなにテレビや映画に出てくるのか謎なんですよね。お笑い芸人でいうと鶴瓶のようなポジションにいる人だと思います。
最後にこの勢いで我が家の年賀状の話を一つ。我が家のここ数年の年賀状には「酉年:火の鳥」とか「戌年:獅子丸(忍者ハットリくん)」のように干支にちなんだキャラクターを使ってきたのですが。今年の猪年については、これといって思いつくキャラクターがなかなか思い浮かびませんでした。そんな中で西郷どんの総集編を年末見てた時に、「西田敏行の猪八戒でいこう!」というアイデアがで電撃的に降ってきました。かくして本年の我が家の年賀状には西田敏行の猪八戒が全面的にフィーチャーされております。

当blogも解説当初ほどの勢いでの猪突猛進とまではいかないですが、暇を見つけては時々思うところをしたためてみようと思います。とはいっても、西田敏行と大河ドラマの話は少なくとも今年中はこれ以上出てこないと思います。だって、あの東京オリンピックの大河は見る気しないもん。いくら脚本がクドカンで音楽が大友でも。

2018年11月10日土曜日

プロ野球選手の茶髪の是非については高校野球の丸坊主とセットで議論すべきでは?

日本シリーズが終わって、日本のプロ野球はオフシーズンに入ってしまいました。「入ってしまいました」という言い回しには、「もうちょっと長引いて面白くなって欲しかった」という思いが裏書されています。今年の日本シリーズはホークスが福岡で流れをつかんで、そのままの勢いで一気に押し切ってしまった感がありました。新井が有終の美を飾るために広島に勝たせてあげたかったとか、そこまでは言わないにしても、カープが広島でもう一勝くらいして粘って欲しかった気持ちはります。
一方、優勝したホークスですが、工藤監督のインタビューにはどうしても気になる一言がありました。
就任時に「茶髪、ヒゲ、ガムなど禁止」と厳しい姿勢を打ち出したが、今年8月にはガムを解禁。茶髪、ヒゲも黙認している。だが工藤監督は「よくなかったかな。今は認めているけど、来年は締める。キャンプも厳しいものにする」と言った。
これを現役のプロ野球選手に求める理由が「ユニホームを脱いだ後の3年間で学んだ大事なこと」だからなんだそうです。つまり、現役の頃の自分が理解できなかったことを、現役のプロ野球選手に押し付けることに対して、彼は特に葛藤のようなものを感じてはいないんだろうということもこのコメントから読み取れます。

茶髪やヒゲがNGというのはスーツ着て働く人達の世界観で会って、僕みたいなエンジニアの職場ではそこまでは問題になりません。そして、そのしきたりの是非はともあれ、このルールは日本という国にローカルなものでしかありません。ヤクルトのバレンティンなんて腕にすごい刺青入ってるけど、あれはどうなんでしょうか?茶髪やヒゲよりも刺青の方がはるかに問題になりそうですが、おそらく「外国人は日本のローカルルールの適用外」というダブルスタンダードによって黙認されているんじゃないかという気がします。
海外のサッカー選手や野球選手は全身に刺青が入っているような人がたくさんいますが、海外でも一般市民であそこまで刺青が入っている人はあまり目にする機会がありません。彼らプロスポーツ選手の刺青は一般市民とはかけ離れた自由業の象徴のようなものなんだと思います。かといって彼らの刺青に対して一般市民が反感を持っているというわけでは…たぶんないんだと思います。プロスポーツ選手が「夢を与える職業=非日常の世界」なんだったら、刺青でも茶髪でもなんでもいいから好きにやっていいんじゃないかと僕も思います。

そもそも、茶髪ってひと昔前に比べて最近あまり流行らないですよね。茶髪が流行らなくなったことと日本の右傾向化は水面下で繋がっているような気がするのですが、それはさておき。なんで野球選手が茶髪にしたがるのかという理由を考えると
  • Jリーグなど他のプロスポーツへの対抗意識
  • 単純にヤンキー文化だから茶髪が好き
  • 高校でずっと丸坊主を強制されてきたことへの反動
こんなところでしょうか?特に最後の丸坊主の恨みというのは結構根深い問題なんじゃないかと思うのです。高校野球を見ると、未だに大半の球児は丸坊主です。高校球児の丸坊主も僕から見れば高校野球は旧日本軍を慰霊するために上演される能であるという文脈に連なっているように見えるのですが。ともあれ、思春期にずっと丸坊主を強制されて野球をやってきた彼らは、それに耐えて高校卒業後にプロ野球選手になって「ようやく頭髪の自由」を手に入れたのではないでしょうか。だから彼らはその自由を最大限行使するために茶髪にしたがるように思えるのです(あんまり長すぎると邪魔になるので、長さ方向に限界があるので色に向かってしまうという理由もあるのかもしれません)。

中島らものエッセイに、中学生くらいまで丸坊主を強制されていたことの反動で、高校生くらいになって服装や頭髪が自由化されたら途端に長髪で奇抜な服装になった…という話が時々出てきます。もしも野球選手の茶髪が問題だというのであれば、高校野球の丸坊主を見直すこととセットで議論すべきなんじゃないでしょうか?

2018年10月28日日曜日

ハガレンの実写はコスプレ大会に見えた

我が家はWOWOWと契約しております。シングルインカムのサラリーマン家庭では、月々2500円だってバカにはできないのですが、それでも僕がリーガ・エスパニョーラを見たいので契約しているのです。そのついでと言ってはなんですが、WOWOWは映画プログラムが充実しているので、ときどき映画も録画してみています。
さて。先日、WOWOWで「鋼の錬金術師」(以下、面倒なのでハガレンと略します)の実写版の映画をやっていたのですが、今回はそれを見てて色々と思ったことをしたためてみようと思います。言いたいことを簡潔な一言にすると、タイトルにあるようにこの映画は原作の世界を踏襲した映画というより日本人によるハガレンのコスプレ大会に見えてしまいました。

まず。ハガレンの世界は西部開拓がひと段落した後のアメリカみたいな雰囲気がなんとなく漂っています。蒸気機関車は存在するけど自家用車はまだ存在しない…という世界感はあの作品の根幹を成す非常に重要な要素です。しかし、実写映画のロケ地はこの作品の世界観とかなり乖離していてかなり残念でした。ここにロケ地の情報がありましたが、欧州とアメリカの区別もぐちゃぐちゃで、「なんか欧米っぽかったらいいんでしょ?」と言ってるように見えます。
そして何よりも問題なのは、主要キャストが全部日本人だということです。これも実写にしてしまう以上仕方ないと言えば仕方ないのでしょうが、どのキャラクターも日本人が演じるとコスプレにしか見えないのです。僕が監督だったらキャストは全員外国人にして、セリフだけ全部日本語に吹き替えにすると思います。そっちの方がまだ原作の世界観に対して誠実な気がします。

つまり、ハガレンの実写化は「漫画やアニメで既に高い完成度で作品の世界観を確立しているものを、わざわざ後発で実写にすることで劣化させた」ように見えるのです。ただでさえ小説や漫画の原作が存在するものを実写やアニメなどの他のメディアに持っていくと、がっかりすることは往々にしてあります。しかし、ハガレンの場合は漫画→アニメと来た流れの後でわざわざ無理のある実写を作って大失敗しているように見えるのです。ハガレンだけ非難するのもどうかと思うので、ちゃんと見たこともないことは正直に断った上で言いますが、進撃の巨人の実写版が散々酷評されていたのもハガレンと全く同じ話だと思います。
僕が現役でアニメオタクだった1990年前後の時代には、かたや宮崎勉事件の名残がまだあり、他方ではトレンディドラマ華盛りし時代で、我ながら一番厳しい時代にアニメオタクをやっていたと思います。それでも当時の僕は「アニメだったら人が空を飛んでても何も違和感が無いけど、実写だったらどうしても違和感が出てしまう。アニメの方が実写よりも表現手段として自由度が高いはずだ。」と、思ってました。あれから四半世紀以上経ちましたが、今もこの見解は妥当であると思っています。

以前このblogでも言及したのですが、ガンダム以前のアニメはなんとなく第二次世界大戦を引きずっていました。だからガンダムより前の時代、例えばちょっとガンダムより前の長浜ロマンロボくらいまで主人公側は基本的に日本人風のキャラクターだったのです。ガンダムはロボットアニメにリアリティを持ち込んだりと色々な革命をもたらしたけど、「日本人ぽくない人が主人公側にいる」という意味でも非常に意味深い作品だったと思います(後日譚として、主人公が日本人ぽくないのはよろしくないという当時の風潮があったので、アムロは鳥取にルーツを持つ日系2世という言い訳をしていたそうです)。
以上の歴史を踏まえた上でハガレンや進撃の巨人の後発の実写版のキャストを見ると。40年前にガンダムがようやく手にした「日本人ぽくないキャラでもよい」という自由を、わざわざ後発で日本人キャストによる実写映画を作ることで台無しにしているように見えるのです。これを円環が一巡りしたんだと考えることももちろん可能ではあるんだろうけど、やっぱり僕には漫画→アニメときた後で、不用意にコスプレごっこの実写映画を作ったことには「退化」に見えてしまうのです。

2018年10月16日火曜日

レンタル店に未来はあるのか?

「お父さん、休みの日だからってゴロゴロしないで!」と言われながら、掃除機をかけている奥様に邪見に扱われる…そんな漫画みたいなおじさんになる日が自分に訪れるとは全く思ってませんでした。少なくとも、子供が生まれるまでは全くそんなこと考えていなかったと思います。しかし、子供が生まれてひと段落して気が付いてみたら、僕は休日をほぼ「漫画みたいなお父さん」のように過ごしています。
なんでそうなるか?という問いに一言で答えると、「日本の育児においてお父さんは実質的には大して役に立たない」からです。もうちょっとちゃんと説明すると、役に立たないからといって、家族を放ったらかしで遊んでていいかというとそんなこともない。つまり、日本のお父さんというのは「育児において役に立たないけど、その役に立たなさにじっと耐える」ことが要求されているのです。
これを具体的に実践すると、休日は「ただ家でゴロゴロしている」しかないのです。奥様と子供の間の関係は平日も含めた日々の生活の中でしっかり構築されていて、そこに僕が休みの日だからといって張り切って混ざりに行ってもウザがられて終わるだけなのです。だからといって、自分ひとりで好き勝手に遊びにも行けない…となると、家でゴロゴロしている以外にできることか無いのです。

さて、こんな冴えない休日ではありますが、たまに子供と僕の二人だけで外出できるチャンスがあるなら、そういう時はなるだけ二人で外出するようにしています。理由は単純で、普段子供の相手をほとんど押し付けっぱなしになっている奥様に一人きりになれる時間を作ったり、普段なかなか無い母親不在での子供と二人だけの時間を作ったりできるわけです。それは、基本的に「役に立たないお父さん」としてゴロゴロしてるだけの休日の中では、ちょっとだけお父さんも張り切っちゃう時間なのです。
そんなわけで先日、子供が行きたいというので某大手のレンタル店にやってきました。ここは奥様が会員になっているので僕は奥様の会員カードを持っていきました。子供がプリキュアなどなどのDVDを選んできたのでいざセルフレジで会員カードで精算…とやろうとしたら「このカードはご利用になれません。カウンターまで来てください。」というメッセージが画面に表示されました。言われるがままカウンターに行くと、店員のお兄ちゃんが「これカードの名義が****様ですよね?ご本人様以外はご利用になれません」と言われてしまいました。かくして、結局一旦家に帰って奥様本人が後でお店まで行って借りることになりました。

この店員の言ってることは規約上は何もおかしくないんだろうとは思うのです。しかし。例えば「身分証明書見せて苗字が一緒だったら家族だろうと推測されるから使っていいことにする」とか、その程度の融通の利く対応はできないんでしょうか?あらゆるサービスが「個人」にしか紐づいていなくて、「家族」という単位には結びついてくれないのはなんとも不便な気がするのです。例えばスペインだと銀行口座を奥様と共有するということができました。この場合、口座番号は一つだけで、そのカードを奥様と僕のそれぞれのために個別に発行してくれるのです。このサービスは今思い出しても非常に合理的でした。
同じようにレンタル店の会員資格を家族全員で共有しちゃダメなんですかね?だって、同時に借りられるソフトの上限は1個の会員資格につき決まった上限があるわけですから、会員資格を「口数」単位で購入して家族で共有するのは理にかなっているように思います。実際、我が家のように子供のためにDVD借りに行くだけの利用方法の場合、家族の誰かが都度子供を連れていくことになるので、家族間で会員資格を共有できてくれるとすごく助かるのです。

何よりもこういう融通の利き方ができないと、リアル店舗のレンタル屋とネットの動画配信サービスの差がどんどん広がる一方だと思うのです。ネットの動画配信サービスの場合、アカウントとパスワードさえ共有してしまえば誰が実際に使っているかは不問になります。つまり、サービスを家族全体で共有することができちゃうわけです。ただでさえ、お店までわざわざ行くのが手間だったり、ほかの人が借りてると借りれなかったり、店舗に在庫を抱える以上マイナーな作品までラインナップするのが難しかったり…と、実店舗のレンタル店は動画配信サービスに比べると色々不利な点があります。件のレンタル店の対応は、規則には順じているのですが結果的にレンタル店という業態そのものの「緩慢な自殺」のように僕には見えるのです。
とまぁ、ここまで色々文句言いながらもなんで我が家が動画配信サービスではなくリアル店舗にこだわっているかというと、
・多少たりとも子供と家の外に出るキッカケにしたい
・定額見放題の配信サービスは子供のテレビっ子ぶりに拍車がかかる
と、リアル店舗のデメリットが程々に我が家にとって都合がよいからなのです。子育て世代にはこんな理由でリアル店舗を利用する人がまだそこそこいるんじゃないかと思うのですが。そんな層に対しての利便性を向上させる努力をしないと、リアル店舗に明るい未来が見える気はやっぱりしないのであります。

2018年9月15日土曜日

ネトウヨが北方領土に示す微温的な反応について

台風ニモマケズ、地震ニモマケズ、安倍晋三がロシアに行ってきた結果、北方領土問題について取り合う気の無いプーチンから「年内に平和条約締結を」と言われてしまいました。この件に対する安倍晋三の中途半端な対応については、安倍政権に対して追従的な発言が多い産経でさえ「ロシアにナメられている、断固拒否せよ」と言い出しました。産経や読売などの親ネトウヨのメディアが安倍政権を批判するというのはここ数年あまり見たことがありません。
共産党の志位議長は首相、「条件なしで平和条約」とのプーチン発言について、「プーチン氏の平和条約締結への意欲の表れだと捉えている」と。 違うでしょう。「領土返還をしない」という「決意の表れ」であり、首相、あなたを舐め切っているという「態度の表れ」ですよ。という、ごもっともな発言をしていたので、これをリツイートしたのですが。そしたら、僕のフォロワーのうち数少ないネトウヨ気味の人から「リアリスティックに言って、ロシアに北方領土を返せる訳がない。その中でどの将来を目指すのか? 批判は簡単だけど、政治家にはそこを提案してほしい。」というコメントが帰ってきました。

かつて、ネトウヨが登場する以前の右翼は、街宣車に「北方領土返還」というスローガンが書かれた横断幕を必ずと言っていいくらい掲げていました。しかし現代のネトウヨは中韓に対しては病的なまでに攻撃性を剥き出しにしてきますが、その一方でロシアや北方領土に対しては微温的な反応しか示しません。これはネトウヨとネトウヨ以前のauthenticな右翼との違いなんじゃないかと思います。
ネトウヨ以前の右翼が北方領土を目の敵にしていた理由の一つは「ソ連=赤=左翼」との敵対構造にあったのではないでしょうか。「右翼」という概念は対極にある「左翼」なくしては成り立たない、つまり、左と右という対立構造の中に当時の右翼のアイデンティティがあったのではないかと思うのです。この説明はある程度の説得力があるように思います。そして、この観点からするとネトウヨは「左翼亡き後の右翼」と言えるでしょう。

この「左翼亡き後の右翼」という観点は、ネトウヨとそれ以前の右翼とを分かつポイントなのではないかと思います。やや乱暴な言い方になりますが、
カネがあった時代のauthenticな右翼:攻撃対象はソ連=ロシア→北方領土
カネが無くなって斜陽化していく日本に生まれたネトウヨ:攻撃対象は中韓→尖閣、竹島
というイデオロギーの違いが両者にはあります。だからこそネトウヨは北方領土について「自分が反応すべき案件だと思っていない」のではないでしょうか。
かつて日本とロシアは歯舞と色丹の二島返還が実現する寸前までこぎつけていました。当時、日本とロシアの経済力の差は一番開いていて、日本もまだまだカネがあった時代だと思います。でも、結局二島返還は実現しませんでした。後から考えてみるとこの事件は、上述した「日本の斜陽化」と並んでネトウヨが日本に台頭しはじめる一つのキッカケだったのではないかと思います。

「北方領土問題」の問題を掘り下げていくと、その先は必ず「南方領土問題=沖縄の米軍」と繋がっています。これについては内田先生が折に触れて言及している通りだと思います。ロシアにしてみれば、北方領土の返還はアメリカ軍が沖縄から撤退することとセットじゃないと受け入れられないのです。つまり、「北方領土返還」の背後には「南方領土=アメリカという父」というトラウマが付きまとっていて、「父=アメリカ」に対して出ていけと面と向かって言えないので昔の右翼は「北方領土返還」だけを叫んでいたのではないでしょうか。
この「アメリカという父」に対するトラウマというのは現代のネトウヨとそれ以前の右翼の両方に共通しているテーマだと思います。旧日本軍の「英霊」の魂を慰めるためにせっせと靖国神社を参拝する割には、その「英霊」を殺傷したアメリカに対して「アメリカ憎し」と言っている右翼を僕は見たことがありません(いるのかもしれないですけど)。こうやって考えると、ネトウヨとそれ以前の右翼では表面的な攻撃対象がソ連=ロシアであるか中韓であるかという違いはあれど、一方で「アメリカという父」という共通項を認めることができます。

ちなみに件の僕のTwitterのフォロワー氏は今日見てみたら「勝てる見込み無いのになんで石破さんは選挙に立候補したのかな?玉砕?」というTweetをしていました。たぶんこの人は民主主義というシステムとか自分の信条なんかよりも、とにかく「多数派が正義」「勝てる見込みのない勝負はしない」という人なんでしょう。こうやって自分の意見を持つことを放棄して現実を容認している方が、この国では楽しく生きていきやすいんだろうとは思います。そして、そうやって知的負荷を減らしている自分は賢いとご本人はきっと思ってるんでしょうね。
なんで彼は僕をフォローしてるのかな?というのがずっと謎なのですよ。僕はtwitterではこのblogと大差ないことを言ってるつもりなんですが。

2018年9月8日土曜日

犠牲の物語としての高校野球

9月に入りました。まだ頭は夏休みボケの尾を引いたままなのですが、そうこういってる間にもだんだん涼しくなってきたので、これ以上話題の鮮度が落ちないうちに夏の高校野球の話をしたいと思います。今年の夏休みは奥様の妊娠中以来くらいで「泊りでのお出かけが無い夏休み」になってしまいました。どこかに泊りで行こうかと検討はするものの、どうしても「高い、暑い、混んでそう」なのはどこも一緒なので。だったら9月くらいの普通の土日にどこかに旅行に行った方がまだマシだろうと思うと、結局どこにも行く気になれませんでした。
そんなこんなで、どこにも行かない夏休みの間はほぼ毎日高校野球をぼんやり見ていました。僕は高校野球及びその頂点である甲子園については「どうかと思うことの方が多いけど、結局見ちゃう」のです。あんなに高校生を朝から晩まで毎日野球漬けにしたり、後の選手生命を台無しにするほどまで連戦で体を酷使するののが本当に「教育」なのか?とか、色々と思うのですが。でも、結局毎年見ちゃうのですね。

さて。決勝戦の金足農業と大阪桐蔭の試合は何から何まで好対照な両者の対決となりました。少年ジャンプのような金足農業の快進撃を期待しながらちょっとみんなワクワクしていたのに、蓋を開けてみたら大阪桐蔭の圧勝で終わって何か空虚な感じが残ってしまいましたね。あの決勝戦を見てて思い出したのは、小田嶋さんが昔言っていたように、高校野球は犠牲の物語であるという話です。まず見た目に「犠牲」が分かりやすいのは金足農業です。ピッチャーの吉田君はずっと連投で疲れ果てていたせいもあって、大阪桐蔭の打線を抑えることはできませんでした。これは「連投で体を酷使する」という犠牲の物語です。
一方の大阪桐蔭ですが。こちらは選手層も厚くてピッチャーも複数人いるようなチームです。はたから見ると金足農業に比べて余裕たっぷりに見えますが、大阪桐蔭、強さの秘密は過酷な寮生活 外出禁止、楽しみは月1の“コンビニ旅行”というウェブ上の記事を読んで納得しました。彼らも普通の高校生としての生活を犠牲にしているのです。コンビニさえ自由にいけないということは恋愛なんて尚の事無理なんでしょう。そんな生活を3年間も続けることで、彼らだって多大な犠牲を払っているのです。

大阪桐蔭(ワルモノ側)に金足農業が挑戦するという少年ジャンプ的な展開に対して日本人があそこまで盛り上がらずにはいられなかったことも、色々な示唆に富んでいると思います。昔から「判官びいき」という言葉に見られるように日本人が劣勢にある側を応援したがる心的傾向を持っていることはもちろん背景の一つとしてはあると思います。
しかし、どうもそれだけではないような気がするのです。以前から提唱している、「高校野球は旧日本軍を慰霊するために奉納される能である」という観点からすると、金足農業と大阪桐蔭の圧倒的な戦力差は第二次世界大戦における日本とアメリカの関係を再現しているように見えてならないのです。だからこそ「大阪桐蔭=ワルモノ=アメリカ」に「金足農業=日本」が挑む物語をどうしても日本人は応援したくなってしまったということなのではないでしょうか?

しかし話は「大阪桐蔭=アメリカ」という短絡的な話でもないんだと思います。大阪桐蔭はアメリカの代理表象というよりは「日本式メソッドで強力なアメリカみたいな軍事大国にのし上がった、架空の日本」なのではないでしょうか?こう考えると、あの決勝戦は「大阪桐蔭=あの時になりたかったけどなれなかった架空の日本」と「金足農業=あの時の日本」の戦いだったことになります。このように、あの決勝戦は精神分析的には非常に興味深い試合だったと思います。
以上、今回のblogは「こんな感じの事を誰かが書いてくれないかなと思って毎日twitterとかで検索してみたけど誰も言及しないから自分で書いてみた」というよくあるパターンです。そろそろこういうハッシュタグ作ろうかな。。