2015年1月26日月曜日

イスラム国人質事件と戦後の終わり

これを書いている現在、イスラム国に二人の日本人が誘拐されて身代金を要求された事件は「タイムリミットの72時間を過ぎ、どうやら湯川さんだけが殺害されたようだ。」という状況です。
本件に関連して、イスラム国と日本の間をつなぐことが可能と思われるイスラム法学者の中田考先生(http://blogos.com/article/104005/)は、公安に押さえつけられて身動きが取れなくなっている立場を押して会見を開きました。彼の会見からは「日本人に理解されるとはそもそも期待してないけど、それでもここで何もしないよりはマシ」という、諦めが大前提にあった上での切実で真摯な空気が感じ取れると同時に、安倍晋三および日本政府の外交がいかに中東情勢を理解しない素人の立ち振る舞いであるかを静かに糾弾しているように見えました。
この事件に対する安部晋三及びその支持者であろう右寄りの方々の反応を見てると、この国の国民やってるのがどんどん嫌になってくるのですが、まぁその辺の話を順を追って。

まずネット上のニュース等でよく見かける「自己責任」という言葉を使う人々について。
自己責任という言葉の根底にあるのは以前取り上げた恥の文化という日本独自の心性なんじゃないでしょうか。わざわざ危険な場所に出向いてイスラム国に人質になるようなことは「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦前の戦陣訓と同じ「恥の感覚」に基づいて人質になった二人を非難しているように思えるのです。
この件に対する反応はアルジェリア人質拘束事件のときと極端までに正反対のように見えるのです。あの当時の日本の論調は「イスラム過激派に襲われて不慮の死を遂げた企業戦士の英霊」みたいな形で、亡くなった方々を悼む作業に過剰なまでに日本全体が熱中しました。そこに乗った安倍晋三は遺体回収に政府専用まで出すお手盛りぶりで犠牲者を遇したのでした。当時、細々ながらネットに「ハイリスクハイリターンの油堀りに自分から行って死んだんだから自業自得だ」みたいなことを言う人もいましたが、ものの見事に叩かれていたのを覚えています。でも、職業的必然性によって危険な場所に赴いたという点では今回人質にとられた二人とアルジェリア人質拘束事件の被害者は何も変わらないんじゃないかと僕は思います。
彼等の評価を分けた要因は「生きて虜囚の辱めを受けた挙句に身代金を要求される事態に至り、日本政府を含む多くの人に迷惑をかけた」か、「テロリストに問答無用で殺害されて非業の死を遂げた」かの違いでしかありません。つまり「生きて虜囚の辱めを受けず」を守ったかどうかの違いでしかないのです。もしかしたら現代の日本では人様に迷惑をかけない教の支配がもしかしたら戦前以上に強いんじゃないかとさえ思います。
さらに何が問題かというと、「自己責任」という言葉を使う人の頭の中では「わざわざそんな危険な場所に自分から出向いていったのが悪い」ということと「殺されても仕方がない、身代金なんて払う必要はない」が何の躊躇もなくイコールで結ばれてしまっているように見えるのです。
二人の日本人がイスラム国に捕らえられて人質になったのはだいぶ前の事ですが、殺人予告ビデオに引っ張りだされて身代金を要求された挙句に殺害される結果になったのは安倍晋三が中東の西側寄りの国を外遊して不用意にイスラム国を刺激したり「戦う」なんていう言葉を不用意に持ち出したからです。
「自己責任だから殺されても仕方ない」と言っている人たちは僕の想像ではネトウヨなどに代表される安倍晋三支持層なんだと思いますが、この人達は二人の日本人が殺害予告の対象になるような結果を招いたことが御自身の支持する安倍晋三にある、翻って自分にもわずかながら責任があるという意識が全く無いんだろうと思うのです。

そして、安倍晋三の「テロには屈しない、戦う」と向かって言い張る姿勢を評価する人達って、「テロは許されるべきでない」と「戦う」が何の躊躇もなくイコールで結ばれているように見えるのです。テロは許されるべきではないのは誰だってわかります。だからって不用意に「戦う」なんて言うと尚のこと日本および日本人がテロの標的になってしまいます。この辺りを「煮え切らない態度の末にやりすごす」という一昔前までの日本の政治のような立ち振る舞い方が安倍晋三には致命的にできないのです。わざわざイスラム国の反感を煽るような言動の後に「卑劣なテロの被害者」という被害者の立場を先取して自身を正当化しにかかるという外交政策は、日本を大東亜戦争へと導いた戦前の日本の外交政策のロジックそのものです。
現在の中東情勢の背景には中東のイスラム教徒が西側諸国に振り回されて不当に扱われてきた歴史があります。こういう歴史的背景をわきまえずに不用意に西側諸国の側について「戦う」とか言ってしまうと、イスラム教徒の立場からは「十字軍に参加した」と見做されて、積もりに積もったイスラム教徒の西側諸国への恨みまで一緒に引き受けてしまうことになってしまうわけです。そのことがもたらす災厄を安倍晋三およびその支持者は過小評価しすぎているんじゃないかと思います。
もっと言うと、外交というのは「僕ちゃんの正義」が最初から通用しない相手と交渉することだという感覚が彼等には無いんだろうと思います。あんまりこういうこといいたくないけど、これこそが「島国根性」という心性(分かり合いたがりすぎる、分かり合えると期待し過ぎる)のように僕には思えます。

しかしながら、日本政府というか安倍晋三が目指していたのって最初から今回のような結果になることだったんじゃないかなと思うのです。つまり、西側諸国と同じように「テロの標的になる」「テロと戦う態度を示す」「イスラム国と交渉する」ことこそ彼らが望んでいたことなのではないかと。だから中田考氏のようなイスラム国の側の考え方を理解できる人材を人質解放の交渉に活用するなんて彼は最初から望んでいないんだろうと思うのです。
繰り返しになりますが、かくして「相手のことを考えない、相手の土俵に乗ろうともしない」という稚拙で一本調子な外交の末に「悪のテロ組織によって貴重な人命が失われた」と、被害者の立場を先取して自身を正当化することは、日本を大東亜戦争へと誘導した戦前の日本政府と何も変わりません。政治に携わる人は「僕ちゃんの正しさをわかってもらう」ことよりも国民の生命、自由、権利といった「国民の利益」に重点を置くべきですし、そもそも「僕ちゃんの正しさ」だけ吠えてればいいんだったら政治なんて必要ありません。

かくして日本という国は戦後70年にわたって平和憲法と煮え切らない外交によって維持してきた「他国から敵と見做されない立場」をとうとう捨ててしまいました。この状況は別の言い方をすると「戦後」が終わり、新たな戦争の「戦前」かもしくは「戦中」に入った事を意味しています。というような事を誰かが言ってたのを読んだ気がするのですが、誰だったか思い出せないので参照もせずにそのまま使わせていただきます。若しくはこうやって戦争に巻き込まれに行くことが安倍晋三の言う「戦後レジームからの脱却」なんでしょうかね?
今度の戦争においては従来型の戦争のように明確な戦場という場所がたぶんありません。テロは当たり前のように市民生活が営まれている場所で発生します。日本でテロ事件が発生したときに被害に遭うのは、今回のイスラム国による人質事件の被害者を「自己責任」と断罪した方々かもしれませんし、僕なのかもしれません。「自己責任」や「卑劣なテロ」という言葉を使って事態を「正義」と「悪」のような簡単な図式に落とし込むことで知的負荷を減らしたがる方は、一度その事について考えていただけないかなぁ。と、日本国民の一人として思うわけです。

2015年1月3日土曜日

ヨルタモリは能に見える

30歳になったときに「そこから40になるまでびっくりするくらい早いよ」と職場のおじさんに言われたのですが。これ、本当にその通りで、気がついたら四捨五入して余裕で40歳になってしまうような年頃になりました。こうやっておじさんへの道を着々と歩んでいると、新しい何かを自分に取り入れるのがどんどん面倒になってくる反面、これじゃいかんという危機感も相まって、新しい何かに出会うとすごくうれしく思えるようにもなりました。
そんなこんなで、昨年新たに自分の興味の対象に「能」が加わったときにはなんだかすごくうれしかったのですよ。興味を持ったきっかけは例によって内田樹先生です。内田先生はフランス現代思想と合気道に加えて趣味として能をやっていて、能に関する講演や著作活動もしています。その影響で去年は何度が能楽堂まで実際に見に行ったのですが、そしたらこれが面白かったんですよ。あれはオーケストラなんかと一緒でテレビではなくライブの場で見るべきだと思います。

能の何がいいのかと聞かれると明快な答えはなかなか見つからないのですが、いろんな人に言われているように能は「祈りの芸能」なのです。あらゆる芸能は源流に遡ると大なり小なり宗教儀式という性格を持つのですが、中でも能は宗教儀式という側面をそのまま色濃く残している芸能なのです。だから、能を見に行くというのはお芝居を見に行くのと神社に参拝に行くのを混ぜたような不思議な感覚なのです。
そんなこんなで能や能に関する本ばっかり見てたら日本人のつくる物は妖怪ウオッチまで含めてなんでも能に見えてしまうようになりました。例えば、「千と千尋の神隠し」はあからさまに能の影響が見て取れます。川の神様(顔が能の神の面そのもの)を浄化する浴室の壁には老松が描かれていて能舞台を意識していますし、なにより話の構造自体が「ワキ(千尋)が異界へ引き込まれる→そこでシテ(川の神様、ハク、カオナシ)の苦しみを、ただ聞いて寄り添ってあげることによって浄化する」という、典型的な能の曲の構造になっています。

で、ようやく本題のヨルタモリなんですが。これも見事なまでに能の構造をしているように見えるのです。ざっくり番組について少し説明しますと、舞台は宮沢りえがママを務めている東京の架空のバーです。そこでゲストとタモリ扮する架空のキャラクターによるトークを基本として番組は進行するのですが。30分の番組の進行を時系列をおって記述するとだいたいこういう構成になっています。

  1. 宮沢りえとゲスト出演者とのトークで始まる
  2. しばらくするとタモリ扮する架空のキャラクターが登場する
  3. トークを繰り広げた後にタモリ扮する架空のキャラクターがトイレに行く
  4. トイレに行ってる間はタモリが別のキャラクターに扮する架空のテレビ番組が流れる
  5. 架空のテレビ番組が終わるとタモリ扮するキャラクターがトイレから戻ってくる
  6. しばらくトークして、タモリ扮するキャラクターがお金を払わずに帰っていく
能でいうと、宮沢りえ=ワキ、タモリ=シテです。
タモリが架空のキャラに扮して登場して、さらに途中で別のキャラクターになって架空のテレビに出てくるというフラクタル的な虚構の構造は能のシテが途中で正体(妖怪とか神とか)を現すのと同じように見えます。
そして。実は宮沢りえも暗黙のうちに「芸能人:宮沢りえ」と「架空のバーのママ」の間を行き来するのです(これは能のワキには普通見られないのですが)。宮沢りえが上記の1の場面では「芸能人:宮沢りえ」として昔話をしていることが多いのですが、タモリ扮する架空のキャラクターが出てくるといつの間にやら「架空のバーのママ」のキャラになります。その後また「芸能人:宮沢りえ」との間を暗黙のうちに行ったり来たりするのですね。
能の面白いところの一つは、同じ演者のキャラクターがいつの間にやら変わっていたり、時間がいつの間にやら何十年も後になってたり、場所が全然違う場所になってたりと、時空間が能舞台の上で変容していくところだと思うのですが。こういう観点からするとヨルタモリはとても能と共通する印象を受けるのです。


蛇足ですが「時空間の変容」という観点からすると、「ハウルの動く城」もとても能に近い印象を受けます。ソフィーが少女と老婆の間を行き来することや、城の中のいくつかの扉が全く違う世界に繋がっていることなんかが能っぽく見えるのですね。「千と千尋」と「ハウルの動く城」は製作時期も確か繋がっていると思うのですが、この二作は宮崎作品の中でも特に能に近い感性を感じるのです。

2015年1月1日木曜日

マニュアル本信者とスピリチュアル

だいぶ間が空きました。気がついたらもう年が明けてしまいました。そんなこんなでこのblogもほとんど文句ばっかり書いてる割には気がついたら一年半も続いてしまいました。昔から、一度始めたことを延々と続けることに妙に固執する性癖があるのです。小学生二年生のときには「冬でも半袖半ズボン」をやせ我慢の末に達成し、20代の頃はお正月に注連飾りを車につけてそのまま一年間走り続けたことがありました。というわけでこのblogも案外このまま続くかもしれませんし、突然ぱったりやめちゃうかもしれませんが、ともあれ今年もよろしくお願いします。
さて、例によっていきなり結論から入りますが、今回言いたいことは以前ネタにした「ビジネス書に対する態度がモテるためのマニュアル本信者と変わらない人達」とジェーン・スー女史が言うところの「スピリチュアルにハマる女子」はほとんど一緒なんじゃないかなと思ったという話です。
上記の両者のどっちらも根底にあるのは自身のポテンシャルと「特別な自分になりたい」という願望の間にギャップがあるということです。で、それを埋めるために女子の場合はスピリチュアルにハマり、男子の場合は何かしらのビジネス書などをマニュアル本として信仰する結果につながっているように見えるのです。いずれにせよ、願望と現実のギャップを埋めるための手段が「信仰」になってしまうということはこの両者に共通していると思います。

なんでこうなるかというと、小田嶋隆氏が小保方氏の事件に際して指摘していたいように、この国では「女子力」や「コミュ力」のような「虚力」によって実力が水増しできるというよく分からない信憑があるからなんじゃないかと思うのです。もちろん所詮は虚力なのでいざとなると役に立た無かったり、それだけに頼ってると小保方氏みたいになっちゃうんですけどね。
もうちょっと飛躍した話をすると、「全員が神に愛された特別な人間である」という前提でできているキリスト教文化から中途半端に表面的な教育制度をコピペしてしまったのが問題の出発点なんじゃないかと思うのです。結果として日本の教育って「虐げられる者として収奪される庶民として生きること」と「特別な自分になるための自分探し」という矛盾したテーマを同時に突きつけていて、これが「誰でも特別な自分になれる」という信仰に傾倒する人々を生んでるように思えるのですね。
こんなことにならないためにどうしたらいいかというと、だいぶ説教臭いんだけどやっぱり教養というのはすごく重要なんじゃないかと思います。教養って、それを知っているからといってお金が儲かるとかモテるとかそういう実用的な価値はまるで無いけど、それを知っていることで人生が豊かになるような物だと思います。そういう資質が育てば、虚力によって実力不足を補おうとするのがどれだけカッコ悪いか生理的な反応のレベルで理解できるようになると思います。最近読んだ天才数学者岡潔の本に書いてあった言い方を借りると教養というのは「物の良し悪しがわかる」ということなんだと思います。

しかしながら、自称「未婚のプロ」であるジェーン・スー女史の本を読んでると、まだスピリチュアルにハマる女子のほうがマニュアル本信者の男子よりもマシなんじゃないかと思うのです。だって、スピリチュアルにハマる人はそれが虚力であるということをある程度わかってますが、マニュアル本信者ってマニュアル本によって自分に新たな力が加わったと本気で思ってるみたいですから。
そして、女子のスピリチュアルは身体性を伴うのに対して、マニュアル本信者の男は身体的要素が欠落していてたいてい脳的な快楽の追求だけを志向しているように見えるのですね。またしてもだいぶ飛躍しますが、女子って「自分が子供を生むか」について子供の頃からずっと意識的なわけで、自分が身体性と不可分な関係にあることを生まれながらに理解しているように思えるのです。一方、自分の身の回りの経験からの話でしかないのですが、「特別な自分になりたい」と言ってマニュアル本信者になる男子は子供を持ちたがらない人が多いように思います。
彼等の好きな"純粋に脳的な快楽"の対極にある「自然そのもの = 当たり前の手順で当たり前のように育つ(セックスしたら妊娠して普通にお腹が大きくなって血まみれで生まれてきて、ちっとも言うこときかない) 」として生まれてくる子供が彼等は怖いんじゃないかと思うのです。子供が生まれる=「自分にとって世界で一番大事な存在を人類が累々として積み重ねてきた当たり前の手続きで得る」ということは、自分が人類全体の営為の一部として生きているという実感を得る機会になるんじゃないかと思うのですけどね。

でもこれって、マニュアル本信者が志向する「特別な自分」という自意識と相反する感覚だから彼等は子供を忌避するんじゃないかと思うのです。もしくは、マニュアル本信者は「特別な自分」の実現(どうせできないんだけどね)という物語に夢中で子供なんて邪魔にしかならないと思ってるのかもしれません。でも子供ができるのって「特別な自分」という執着から自由になれるせっかくのチャンスなんじゃないかと思うのですけどね。
別の言い方をすると、子供ができるという経験によってはじめて男性は人類が累々と積み重ねてきた時間方向の営為の連鎖に取り込まれていくのではないかと思うのです。例えて言うなら、(ベタな例え話としてSNS等にように)同時代的に横方向にしか繋がっていなかった人が、子供の誕生によって縦方向に何万年と続く人類の時間の流れに接続されるわけです。女性はこうやって命が連鎖していることを誰に教わるでもなく最初からなんとなく理解しているように思えるのですけどね。

うーん。気がついたら、なんか消耗品として20世紀末に消費されつくした村上龍の本みたいな話になっちゃったぞ。

2014年11月3日月曜日

妖怪ウォッチと能

先日、姉が甥っ子達を連れて実家に帰省(別に込み入った話ではなく、単純に子供が小学校に上がって気楽に帰省できなくなる前に子連れで帰省したかったそうです。念のため。)してきたので、そのタイミングにあわせて久々に実家に帰ってみました。4歳と6歳になる甥っ子達は妖怪ウォッチ(と昆虫)に夢中らしく、聞いてもいない妖怪ウォッチのキャラ(コマさんが一番人気だとか)の話を散々聞かされたり、ようかい体操第一の振り付けを無理やり一緒にやらされたり、"肉球百烈拳"(ジバニャンの必殺技だそうです)と叫びながらポカポカ殴られたりしてきました。
甥っ子達の話を聞いていると、ジバニャンは交通事故で亡くなった猫の自縛霊だとか、大人目線で考えて「子供相手のアニメにそんな設定を盛り込むのか?」と思うような事が沢山盛り込まれていたので、とりあえず妖怪ウォッチを一度見てみることにしたのですが。いやはやこれが結構面白いんですよ。そして、妖怪ウォッチは「妖怪=この世ならざるもの」のもたらす災厄を呪鎮するという意味で、能に極めて近い存在なんじゃないのかという事を考えたのですね。というわけで、今回は久しぶりに文句ではなく割と楽しい話です。

まず。最初に申し上げますが、僕が言いたい事は例によって内田先生の受け売りです。これを読んでもらえれば、妖怪ウォッチが能と同じ機能を果たしているという事はご理解いただけるんじゃないかと思います。
一回しか生で能を見に行った事の無い僕が言うのもどうかと思うくらいおこがましい事ですが、能の多くの作品は妖怪や怨霊などこの世に災厄をもたらす存在を鎮めるという物語にになっています。このような「この世ならざるもの」のもたらす災厄を軽減するために能は上演されてきたわけです。
妖怪ウォッチのアニメも基本的にはこういう話になっているように見えました。ただし、妖怪のもたらす災厄を鎮めるための方法として、ポケモンのように友達になった別の妖怪をぶつけて解決するのが基本なのです。この辺はさすがに妖怪ウォッチは元々はゲームから始まってるので能とは違っていて、ポケモンや女神転生、古くはゴジラvsモスラのような「この世ならざるもの同士の戦い」の形式をとっています。

たぶん京極夏彦とかいろんな人に言い古されているだろうと思うのですが、妖怪というのは日本人のアミニズム的な霊的感受性が生み出した伝統文化なんだと思います。中世には妖怪画というジャンルが存在して多くの妖怪画が描かれていますし、そこからゲゲゲの鬼太郎や妖怪ウォッチに到るまでいつの時代にも妖怪は大衆文化のモチーフとして身近な存在でした。
wikipediaによると、妖怪はこのように説明されています。
自然との境界の曖昧さによる畏怖や、里山や鎮守の森のように自然と共にある生活が畏敬や感謝になり、当時では解明できない自然現象・物や人に対しての畏怖など妖怪は、これらの怖れや禍福をもたらす存在として具現化されたものである。
この感性って科学が発達した現代になっても日本人には「血」のように受け継がれていると思うのです。

「表面的に器用だけど内面的に不器用」な日本人の「内面的な不器用さ」の源流の一つであるアニミズム的な感性を前面に打ち出した妖怪ウォッチのようなアニメが子供の間で流行っていることを深読みしてみると、世界のグローバル化という趨勢に対するカウンターとして日本人独自の感性への回帰という志向が見て取れるような気がするのです。
ポケモンも十分アミニズム的といえばアミニズム的(あれって言ってみれば精霊とかそういう類の、架空の動物ですよね?)なのですが。ポケモンって外国人にもまだ咀嚼可能なレベルだったんじゃないかと思うのです(本当にポケモンが海外で大人気だったのか、僕はやや疑わしいと思っていますが)。しかし、妖怪ウォッチはアミニズム的な感性を持つ国々(たとえばインドネシアなど東南アジアの国々)でさえ咀嚼できるか怪しいんじゃないかな?と思うのですよ。

2014年10月7日火曜日

マッサンはクールジャパンと同じ香りが漂ってる気がする

朝の連続テレビ小説を一番ちゃんと見てたのは小学生だった昭和末期の頃なんじゃないだろうか。夏休みとかになるとヒマだから毎日のように母親と一緒になって見てたのですよ。その頃の朝ドラは必ず明治~大正~昭和初期という時代設定で、必ずと言っていいくらい主人公が空襲で焼け出されたり、「おしん」みたいに苦労したり、とにかく苦労や災難やトラブルの間になにかしらの幸せ(意地悪な人が優しくなってくる、恋愛~結婚~出産、ダンナが戦地から生きて帰ってくるなど)が挟まって話ができているという王道パターンを踏襲していたような記憶があります。
苦労する人を見て感情移入したり涙を流したりするのがエンターテイメントとして成立するという感覚ってたぶんアジア人に独特なんでしょうね。韓流ドラマとか見てても同じこと思いますし、インドネシアで「おしん」が大ヒットしたのもきっとそういうことなんだろうなと思います。

実は大人になってからはこういう喜怒哀楽のローテーションで構成されているドラマ(敢えて言うと、女性の好きそうなドラマ)がなんだか苦手になってしまったのです。「わざわざそんなアップダウン激しくなくても、小津安二郎の映画みたいに淡々と日常が描かれてるドラマでもいいんじゃないかな?」とか思ってしまうんですけど、それを奥様に言うと「そのアップダウンが面白いんじゃん!」て言われるんですね。まぁ、そうなんだろうな。。
朝ドラの時代設定が「あまちゃん」以降3作連続で戦前に戻った理由には、「あまちゃん」のインパクトが大きすぎたので現代劇を持ってくるのに勇気がいるというのもあるのでしょうが。あの戦前の時代を舞台にすると苦労や貧乏を現代劇に比べてより鮮明に描ける上に、そこまで差し迫った現実感の無い「バーチャルな苦労や貧乏」としてほどほどの距離感を保ちながら安心して受容できるんじゃないかと思うのです。例えば現代劇でダンナのDVの末に離婚して生活保護受けながら子供を育てる女性の苦労を朝ドラで毎日のように見せられたとしたら、たぶんあまりに現実的すぎて見てる側がいたたまれなくなりそうでしょ?

さて。そんなこんなでようやく本題、先日から始まった朝の連続テレビ小説「マッサン」の話です。朝ドラ史上初の外国人ヒロインということでどんなものかと初回から数回見てみたのですが。早くもクールジャパンにも通じる「日本人による、日本人のためのセルフ接待に外国をワンクッション噛ませただけ」という空気をなんとなく嗅ぎ取ってしまったのです。
まず、スコットランドでの回想シーンが全部吹き替えっていうのはさすがにどうかなー?と思うのですよ。前作の「花子とアン」は「戦前の日本で山村の貧民出身ながら英語が喋れるようになった日本人」の話だったので、とにかく登場人物に英語を喋られせては全部日本語字幕で表示してたのですが。今回の「マッサン」は「ガイジンが日本に来る」という話なので、「ガイジンが英語で喋ってる会話なんてどうでもいいから全部吹き替えにしちまえ」という空気を感じるのですね。別の言い方をすると、アウェイ(花子とアン)の後にホーム(マッサン)を対置したような関係になっているから、ホームではガイジンの会話も全部吹き替えにしちゃったということなんだろうと思います。
吹き替えっていうのはリアリティとか外国語とか、色々な物に対する冒涜なんじゃないかなと思うのですよ。しかもそれをスコットランドでの回想シーンだけに限定して適用するのってなんかヘンじゃないか?と思うのですね。二回目の放送なんて主人公の二人が初めて出合った重要なシーンなのに、そこでの会話が全部吹き替えなんですよ?さすがにあんまりだと思いました。これについては僕だけじゃなくて、同じ指摘をしている人は沢山いるそうです。

マッサンは「世界のこんなところに日本人が」とちょうど真逆の構造なのですね。この手の番組ではたいてい日本人が外国に嫁いで色々と苦労もしながらも現地に馴染んで暮らしている(けど時々日本のアレが食べたいとか日本のアレが懐かしいとかそんな)絵を流しているのですが。不思議なことに日本人妻が日本の悪口を言うところを一切流さないんです。
海外にローカライズされて長年暮らしている人から見たら、日本は忘れられない祖国であると同時に今更あの国で暮らすのはちょっと無理って思ってるだろうと思うので。当然「ココがヘンだよ日本人」的な指摘があってもいいはずなのですが、そういう言動は全く放送されないのですね。結局は日本人の視聴者に「海外での暮らしぶりをを少しだけ追体験させる→でも結局海外よりも日本で暮らすのが一番」という満足を与えるためにあの手の番組は存在しているように見えるのです。

話をマッサンに戻しますが。なんとなくこの先を予想すると、エリーが苦労しながらも日本人の人情に支えられて日本の「お・も・て・な・し」の心を学んでいくとか、そんな話になっていくんじゃないんだろうかと思うのです。つまり、国民全員が小姑目線で「日本の生活習慣に不慣れな外国人が色々失敗するのを優しい目で応援してあげる」とか「だんだん日本の素晴らしさが解ってきたか、よしよし。」みたいなイイ気分にしてあげる方向に向かいそうな気がするのです。
前作の「花子とアン」と「マッサン」をセットで考えると「少しずつだけど国際化しつつある日本」という現実に対して日本人の心象を何かしら投影しているようにも見えるのですが。前作の「花子とアン」は戦時中の日本で一部の知識階級が無知蒙昧な差別を受ける姿を通して右傾向化する日本をやんわりたしなめているように見えたのに対して、こうも真反対のクールジャパンバンザイ方向に急に振れてしまっているのは本当に不思議なんですよね。やっぱりあのNHKの会長とか経営委員とかのせいなのかなぁ。。

2014年9月15日月曜日

はしゃぎたがる日本人

これを書いている現在、朝日新聞の吉田調書問題が取り沙汰されて一週間くらい経過したのに収束する気配が見えないところです。朝日以外のマスコミはここぞとばかりに集中砲火を浴びせていますね。
僕には朝日新聞の誤報がどうとかよりも、吉田調書の「われわれのイメージは東日本壊滅ですよ」「本当に死んだと思った」という言葉や、この調書を朝日がリークするまで隠蔽しようとしていた政府の方が心底恐ろしく思えます。これでもまだ経済のために原発を動かそうとかいう人達はどうかしているんじゃないかと僕には思えるのですけどね。
ともあれ、今回は安倍晋三と彼を支持する右寄りの方々、さらに僕から見るとApple信者とかビジネス本信者なんかもそうなんですけど、とにかく「はしゃぎたがる人」というのが日本という国全体でどんどん増えていることについての話です。
例に寄って先に結論だけ述べると、ジャンルを超えて日本全体でこうなっちゃった理由はやっぱり震災と原発事故がキッカケなんじゃないかな?と思うのですが、まぁ順を追ってご説明しますね。

これだけ吉田調書誤報問題が長引いているのはなぜか。というと、単純にこのニュースにはしゃいで大喜びして朝日新聞を攻撃したい人が沢山いるからなんじゃないかと思うのです。安倍晋三のはしゃぎっぷりなんてヒドくて、「ついでに慰安婦の件も誤報だったと世界中に伝えろ」と、ついでの勢いで慰安婦問題も無かったことにしようとしにかかっていたりします。またこれで中韓との関係が悪化する方向に向かうでしょうね。。
国家間の外交というのは、物の考え方の度量衡がそもそも異なる外国と利害関係を交渉をするわけですから、「僕ちゃんの理屈」だけ振り回しているのではなく相手が言ってきそうなことを想定した上で立ち振る舞ったり、相手の言い分との間を取ったりする必要があるのですが。どうも安倍晋三ってそういう複雑な話を複雑なまま受け入れることができないので「僕ちゃんの理屈」の中で閉じてはしゃぎたがっているように見えるのです。内田先生もだいたい同じことを言ってますね。

”はしゃぐ人達”とひとくくりにした安倍晋三及びそれを支持するネトウヨを含む右寄りの日本人、さらに僕から見るとApple信者とかビジネス本信者も全部そうなんですが、彼等の表面的な態度は判で押したように「はしゃいでいる」ように見えるんです。
いい大人にもなってはしゃいでるように見える彼等に共通しているのは「僕ちゃんは僕ちゃんの信仰や、僕ちゃんを理解してくれる人のことだけを考えています。それ以外の人のことは一切考えていません。」といった具合に、自分に都合の悪い事の存在を一切無視して自分の価値観の中に閉じこもりたがるということです。
で、ようやく本題なのですが。「なんで彼等がこのようにはしゃいで閉じこもりたがるのか?」ということについて考えると、やっぱり震災と原発事故にたどり着くように思えるのです。それまで磐石の安定感の上で暮らしていると信じていた日本人は、震災と原発事故によって自分が今まで磐石と信じていたものが実はものすごく不安定なもので、思ってたよりずっと簡単に死んじゃったりするということに気づいてしまいました。しかも、関東~東北の日本人は誰もはっきりとは言いませんが大なり小なり被爆してしまいました。ケガレに対して異常なまでに敏感な日本人は、ケガレないようにすることには一生懸命になりますが、放射能によってケガレてしまった後に生きていく術に関してはびっくりするくらい方針が立たないのです。この結果として日本全体がやんわりヤケクソになってはしゃぎはじめたんじゃないかな?と僕は思うのです。

震災以降の日本を見ると、中韓には歴史問題でも領土問題でもとにかく強行な態度に出ようぜとか、オリンピックが決まったぜイエーイとか、クールジャパンで日本は世界中から尊敬を集めてると思い込んだり、憲法も変えちまえとか、もうどうせ被爆しちゃったし原発は再稼動して金儲けを最優先しようぜとか…これらはすべてやんわりヤケクソになってはしゃいでいるように僕には見えるのです。
一方で、じゃぁみんながみんな同じようにはしゃいでいるか?というと、勿論そんなわけでもないのです。全員がそうってわけじゃないけど、例えば子供がいて命を未来につないでいかなくてはいけないと思ってる人はあんまりヤケクソになってはしゃいだりしないように見えるのです。だって、自分にもし子供がいたら、再び原発が事故を起こして子供達が汚染されることや、憲法を変えたことで子供達が徴兵されることなんて絶対に避けたいだろうと思いますよ。
勿論、子供がいるけどはしゃいでる人もいれば、子供がいないけどはしゃいでない人もいるんですよ。子供がいる/いないという短絡的な話ではなくてもう一段掘り下げて言うと、はしゃいでいる人に共通しているのは「今、ここ」の事しか考えていなくて、その先の未来に対して責任を持とうという意思を感じないのです。
先日ふと気になって検索してみたら、歴代首相の中で子供がいないのは安倍晋三にくらいなんだそうです。最初に述べたように安倍晋三が「僕ちゃんの理屈の中に閉じこもって、はしゃぐ」という子供じみた振る舞いをするのもなんとなく理解できるような気がするのです。彼はおじさんとして成熟する機会を逸したまま社会的な立場だけ大人になって、しかもあろうことか総理大臣にまでなってしまったんじゃないかと思うのです。だから、彼の目線は常に祖父(岸信介)や父親といった過去~現在にしか向かっていなくて、未来を見据えているようには見えないのです。

2014年9月9日火曜日

エヴァンゲリオンはイマドキの若者にはそれほどササらないんじゃないかな?

だから日本はズレているという本を読みました。リーダー不要論やクールジャパン、ポエムの蔓延など、最初の方に書いてあることにはそれなりに同意できて面白いところもたくさんあったのですが、結局のところ諸悪の根源は「おじさん」であるとする世代格差論に帰結するところには、どうにも残念という気分になりました。
現在29歳の著者古市氏は賞味期限が切れかけつつあるものの「若者代表」の立場で発言しているようなのですが、自分が歳とともに変化していった果てにおじさんになることに自覚がないのって本当に若者の特権なんだなと思います。氏の話には若者がソーシャルメディアなどで「つながる」という話が度々出てくるのですが、あくまで若者同士の横のつながりなんですね。「おじさん」や老人や子供が位相を変えた別の自分であって、彼等とも縦方向につながって社会を築いていくという気はどうやら頭に無いっぽいのです。

氏の著書では若者の新たなライフスタイルとしてダウンシフターズ(減速生活者)という人々が紹介されていました。彼等はお金への執着が薄くて、生活するための最低限のお金だけを稼いだら後は好きな事をやって時間を過ごすのだそうです。中には農業をやって自給自足で生活するダウンシフターズもいるそうな。
ところが、このダウンシフターズについて語る際に「でも彼等は隔離されて閉じているのではなく、スマホやパソコンで社会とつながっている」ということを著者がしきりに強調するのがすごく不思議に思えたのです。全体的にダウンシフターズはユルそうで賛成なのですが、ソーシャルメディアなどで人とつながっていることがそこまで強調するほど重要なことなのかな?と僕には思えたのです。

そんなことを考えているときにテレビをつけたら、たまたまヱヴァンゲリヲン新劇場版Qをテレビで放送しているのを見て、はたと閃いたのです。若者にとって、ネットやソーシャルメディアというのは人類補完計画のように機能しているんじゃないんだろうか?と。
当たり前といえば当たり前なのですが、最初のエヴァンゲリオンから20年近く経った今となってはシンジ君がイマドキの若者とはだいぶ乖離してるように見えるのです。なんでこうなるかって、シンジ君のような「自分の存在に悩む内省的な少年」というのは、ネットやソーシャルメディアが人類補完計画のように機能している社会にはあんまりいないんじゃないかと思うのです。

以前も触れましたが、進撃の巨人やONE PIECEみたいにちゃんと丁寧に伏線を回収して終わってくれそうな安心感のある物にしか今の若者は飛びつかなさそうな気がするのですね。だって、wikipediaでなんでも調べられるのが当たり前で育っているんですよ?そんな彼等に、答えの用意されていない謎だらけで悶々としなければいけないエヴァンゲリオンみたいなものがササるようには思えないのですよ。想像ですけど、イマドキの若者がエヴァンゲリオン見ても「なんか謎だらけでよくわかんないけどまぁいいんじゃん?」くらいでサラっと流されそうな気がするのですよ。