あのー。色々溜まってきたのでApple信者の文句を書きまーす。
といっても先にお断りしておきますが、デザイナーとかミュージシャンとかプログラマーとか学者とか、そういう何かしら創造的な仕事をなさっている方々はコンピューターを商売道具として使っているので、Apple信者でも全然いいんじゃないかと僕は思います。
僕がどうかと思っているApple信者というのは、
・Apple製品にただ使われてるだけの人(=創造的な仕事にコンピュータを使ってない人)
・ガジェット好きの延長でApple信者をやってる人(=昔はSONY信者だった人)
こういう人達です。ほら、身近に一人くらいいません?ジョブズの思想がどうとかいう理屈をやたら語って、新しいApple製品が出るとすぐに買う(でもそれを何に使っているのかよく分かんない)人。
こういうApple信者という方々と話してて感じる違和感について考えてみたのですが。彼らが「ジョブズの思想」「Apple製品の素晴らしさ」なんかの話を得意げに語っているときに感じる、どうしようもないくらい僕と根本的にねじれているような感覚というのは、「本を読まない映画ファン」が映画について語っているときに受ける印象とすごく似ているのです。
もうちょと別の言い方をすると、あらゆる物事に対する度量衡が人それぞれ異なるかもしれないという可能性に対する配慮、まぁ、平たく言うとデリカシーが無いように感じるのです。この「躊躇の無さ」というか、自分は世の中の中心に立っているという根拠のよく分からない確信みたいなのが大前提になっているのって、Apple信者と「本を読まない映画ファン」に共通しているのですね。
単に彼らをKYだとかバカだとかって言ってるわけではなく、純粋にそういう可能性について考えるという習慣を彼らは最初から持ち合わせていないだけのように見えるのです。
みんながみんなそうってことは無いと思いますが、Apple信者の人って仕事と一切関係の無い本を純粋に娯楽として読むような習慣がなさそうな人が多いように思えるのですね(彼らのバイブルであるジョブズの自伝とかAppleを褒めちぎるだけの本は除外して)。まぁ、本っていっても色々あるので何でも読めばいいってもんでも無いんでしょうけど、本を読むことの効用であり楽しさの一つに「他人の思考に一時的にでも同調する」ということがあると思うのです。こういうことを繰り返していると、例えば武道や芸能の達人と稽古を一緒に続けるとだんだん動きが達人に近づいてくるのと同じように、頭のいい人の思考フォームを獲得できるようになるわけです。
読書を娯楽として楽しめる人って、たぶん一度くらいは本を通して今まで自分になかった他人の思考フォームに同調して感銘を受けたことがあるんじゃないかと思うのです。そして、様々な先賢の思考フォームに同調する経験を通して、他人の思考フォームが自分とどのくらい違っているか慮る習慣や、特定の人の言ってる事だけを過度に狂信しないバランス感覚を涵養するのではないかと思うのです。
「本を読むことでしかそれができない」わけでもなければ、「なんでも本を読みさえすればそうなる」というわけでも勿論無いとは思いますが、おしなべてそのような傾向はあるんじゃないかと思いますよ。
森毅先生の名言botにこういうのがありました。
美学がなくなっている。学生が本を読まなくなったというのも美学の問題だと思う。大学生になったからと難しい本を読みだしてもどうせわからんに決まっている。わからん本なんか読んでもむだというのでは美学にならぬ。むだを承知で読むところに美学があるのだ。効率優先合理主義では美学は生まれない。
この森先生の発言がいつ頃の物かはわかりませんが、この「本を読まない学生」が後にApple信者になったんじゃないかと思うのです。信者になれば、美学も含めて全部Apple様からコピペできますから、それは最も効率的で楽な方法なのです。
2014年8月29日金曜日
2014年8月24日日曜日
今更ですが進撃の巨人の話を
今回はかなり今更ですが進撃の巨人の話をします。と言っても、僕は原作の漫画は読んだことがなくて、去年アニメを見ただけの関わり方しかしていません。漫画はアニメよりだいぶ先に進んでいるらしいので、もしも最新の漫画の展開からすると見当違いなことを書いちゃう可能性はありますが、その際は平にご容赦を。というのも、あの作品は世の中に数少ない「漫画よりアニメで見たほうが面白い」作品なので、アニメでしか見る気が起きないのです(この逆のパターンは佃煮にして売れるくらいたくさんあるんですけどね)。
さて。進撃の巨人ですが。去年は社会現象と言われるまでに大ヒットして、主題歌は紅白にまで出ちゃいましたね。すっかりクールジャパンのキラーコンテンツの一つに仲間入りした感があります。確かにバルセロナの漫画フェスティバルでも進撃の巨人のコスプレは大人気だったらしいですし、半年くらい前に出張でバルセロナに行った時には中心街の大きな書店の一区画に特設コーナーがあって、そこで進撃の巨人のDVDをずっと垂れ流していました。
進撃の巨人についてはいろんな人がいろんなところで言及しているのですが、なんであそこまであの作品が世界中の人をひきつけるのかについては、街場の漫画論の文庫版に収録されている内田先生と高橋源一郎の指摘が一番妥当だと僕は思います。
「生まれたときから不条理なルールを一方的に押し付けられてきて、どうすればこんな世界を変えられるのかよくわからないけど、とりあえずその場その場をしのいで生きていくしかない」という状況は日本だけでなく世界中のあらゆる国で同じような状況なんじゃないのかなと思います。少なくともスペインやギリシャはリーマンショック以降そういう状況だと思います。
僕が付け加えるとすると、進撃の巨人は我々人類の遺伝子に刻まれていている「大型動物に捕食される恐怖」に訴える物があるのではないかと思うのです。人類の祖先であった小型哺乳類は大型動物に捕食される危険に常にさらされてきたわけですから、その記憶は我々に引き継がれていていも不思議ではないでしょう。
フロイドは、乱暴に言えば「なんでもかんでもとにかく人間の心的活動は性欲に起因している」という彼の主張の根拠として、性=生物として種の存続は人類の祖先にとって最優先事項であったため、人類にもそのまま遺伝して引き継がれているからだと言ってます。僕はこの説明はあまりに強引過ぎて賛同できないですが、このロジックだけを援用すると、同じように生き残るために必要な「エサを探して食べる」「エサとして食べられることを避ける」ということもたぶん大なり小なり我々の遺伝子には刻まれていると思います。まぁ、そのくらいは言ってもいいんじゃないですかね。
上記のうち、性欲と食欲については"欲"と名のつく通り今日ではAVやグルメなどのエンターテイメントとして昇華されていたり、一方ではカウンターとして宗教などの"禁欲"の対象ともなっています。しかし、「エサとして食べられることへの恐怖」をエンターテイメントとして見せた物ってあんまり無いですよね?いやまぁ、"ジョーズ"とか言い出したら前例はあるにはあるでしょうけど。
さらにもう1個、付け加えると。進撃の巨人はストーリーが緻密に練られていて、見事なまでにここまで張った伏線をちゃんと全部回収していますよね?今まで浦沢直樹(MONSTER, 20世紀少年)やエヴァンゲリオンなど、謎や伏線を散々張り巡らした挙句に「えー、で、結局終わり方それなの?」というのを散々僕らは眼にしてきたわけですが。進撃の巨人はもう連載が終了した漫画で言うとナウシカ、からくりサーカスぐらい、ちゃんときれいに伏線を回収して納得させてくれそうな気がするのです。
この、「スッキリ終わらせてくれそうな期待感」に関しては、進撃の巨人はONE PIECEに匹敵すると思います。だから我々はどこか前向きに安心してドキドキできるのです。逆の言い方をすると、これらの作者には「辻褄があっててスッキリちゃんと終わらせなければいけない」という現代的な空気を感じ取れてしまうのです。だから、珍遊記みたいに途中で連載を投げ出して終わったり、ドラゴンボールみたいに強さのインフレを続けた挙句に「絶体絶命になったところでスーパーサイヤ人として目覚める」なんていう子供だましみたいな展開にはまずならないという安心感があるのです。
ちなみに、張り散らかした伏線が全く回収されないまま終わってしまう漫画を読みたければ、車田正美先生の「男坂」をお勧めします。伏線を張るだけ張り散らかしたところで何一つ回収しないまま見事に打ち切りになっています。しかし、30年のブランクを経て最近続編の執筆が始まったそうです。読みたいような、読みたくないような。。
2014年8月23日土曜日
野球と美学
夏休みが開けて一週間が経ち、渋々サラリーマンとしての日常にようやく戻りました。と言っても夏休みだからって特別どこに行くわけでもなく、ぼんやり本読んだり高校野球見たりしてる間に過ぎていったんですけどね。
さて、今年の高校野球で健大高崎というチームが大差が開いた後もひたすら盗塁を繰り返していたのが色々物議を醸している(これとかこれをご参照ください)ようなのですが。高校野球っていつもこういう議論がありますよね?去年の「カット打法禁止」とか、その前の「クロスプレーでのタックル禁止」とか。
高校野球に限らずプロ野球にしてもそうなんですけど、「勝ち負け」にこだわると、やる事がどうしてもチマチマしてたり陰湿な方向に向かってしまうのって日本人の「民族的奇習」の問題なんじゃないかと思うんです。そういう意味では高校球児達は「勝つためにチマチマと陰湿な事も厭わない」という軍人的側面と、「高校球児らしいハツラツとした爽やかさ」という見ている側の幻想の二つを同時に要求されるダブルバインドの状況に置かれてるように見えるのです。
そして、プロ野球も同じように「お客さんにお金払って見てもらうエンターテイメントとしてのプロスポーツ」という側面と、「チマチマとしてて陰湿で細かいインサイドワークの積み重ねで勝つことにこだわる」という二つの矛盾した要求にさらされています。特にここ数年のプロ野球って後者の比重が強くなった末に総力戦の傾向が強くなっているように見えるのです。例えば
・主力選手でも状況(ピッチャーが左から右に変わったとか)によっては割と簡単に替える
・代打、代走などは使える限りとにかく使う
・セ・リーグの場合、試合終盤の選手交代の際にピッチャーを9番以外の打順に置く
こういうことやり始めると、余程のことが無い限り選手層の厚い巨人みたいなチームが有利になるでしょう。でも僕には逆に「そうやって潤沢な資金で獲得した選手をありったけつぎ込まないと勝てない、若しくは、それだけ金で買った戦力をありったけつぎ込んでまで勝つことに執着する」という風に見えてしまって、ちょっと引いてしまうのです。90年代に江藤や清原など他チームの4番バッターをFAで取ってきて並べてみたものの鳴かず飛ばずだった頃の巨人の方がまだほほえましかったとさえ思えます。ええっと。だいたいもうなんとなく察しがつくと思いますけど、僕はアンチ巨人なのですけどね。
上述したような矛盾した二つの要求にさらされるのは今に始まった事じゃなくて、ずっと昔からプロ野球が抱えてる問題だったんだろうと思うのですが。単に僕の好き嫌いの問題だけじゃなく、ここ数年の「勝つ」ということに重きを置いた総力戦の野球と、プロ野球ファンが思い描く理想のプロ野球像が乖離してきているんじゃないかと思えるのです。
森毅先生は「効率優先合理主義では美学は生まれない。」とおっしゃってますが、まさにそういうことなんだと思うのですね。勝つことを最優先してそのために効率を重視したために今のプロ野球が失ってしまったものは一言で言うと美学なんじゃないかと思うのです。
もっと言うと、「美学とかは度外視で、手持ちのカードを使えるだけ使って『自分が起こしたアクションによって世界を動している』という満足を最大化したい」という幼児性は安倍晋三と原監督に通じているように思えるのですが、その話をすると長くなるのでそれはまたいずれかの機会に。
さて、今年の高校野球で健大高崎というチームが大差が開いた後もひたすら盗塁を繰り返していたのが色々物議を醸している(これとかこれをご参照ください)ようなのですが。高校野球っていつもこういう議論がありますよね?去年の「カット打法禁止」とか、その前の「クロスプレーでのタックル禁止」とか。
高校野球に限らずプロ野球にしてもそうなんですけど、「勝ち負け」にこだわると、やる事がどうしてもチマチマしてたり陰湿な方向に向かってしまうのって日本人の「民族的奇習」の問題なんじゃないかと思うんです。そういう意味では高校球児達は「勝つためにチマチマと陰湿な事も厭わない」という軍人的側面と、「高校球児らしいハツラツとした爽やかさ」という見ている側の幻想の二つを同時に要求されるダブルバインドの状況に置かれてるように見えるのです。
そして、プロ野球も同じように「お客さんにお金払って見てもらうエンターテイメントとしてのプロスポーツ」という側面と、「チマチマとしてて陰湿で細かいインサイドワークの積み重ねで勝つことにこだわる」という二つの矛盾した要求にさらされています。特にここ数年のプロ野球って後者の比重が強くなった末に総力戦の傾向が強くなっているように見えるのです。例えば
・主力選手でも状況(ピッチャーが左から右に変わったとか)によっては割と簡単に替える
・代打、代走などは使える限りとにかく使う
・セ・リーグの場合、試合終盤の選手交代の際にピッチャーを9番以外の打順に置く
こういうことやり始めると、余程のことが無い限り選手層の厚い巨人みたいなチームが有利になるでしょう。でも僕には逆に「そうやって潤沢な資金で獲得した選手をありったけつぎ込まないと勝てない、若しくは、それだけ金で買った戦力をありったけつぎ込んでまで勝つことに執着する」という風に見えてしまって、ちょっと引いてしまうのです。90年代に江藤や清原など他チームの4番バッターをFAで取ってきて並べてみたものの鳴かず飛ばずだった頃の巨人の方がまだほほえましかったとさえ思えます。ええっと。だいたいもうなんとなく察しがつくと思いますけど、僕はアンチ巨人なのですけどね。
上述したような矛盾した二つの要求にさらされるのは今に始まった事じゃなくて、ずっと昔からプロ野球が抱えてる問題だったんだろうと思うのですが。単に僕の好き嫌いの問題だけじゃなく、ここ数年の「勝つ」ということに重きを置いた総力戦の野球と、プロ野球ファンが思い描く理想のプロ野球像が乖離してきているんじゃないかと思えるのです。
森毅先生は「効率優先合理主義では美学は生まれない。」とおっしゃってますが、まさにそういうことなんだと思うのですね。勝つことを最優先してそのために効率を重視したために今のプロ野球が失ってしまったものは一言で言うと美学なんじゃないかと思うのです。
もっと言うと、「美学とかは度外視で、手持ちのカードを使えるだけ使って『自分が起こしたアクションによって世界を動している』という満足を最大化したい」という幼児性は安倍晋三と原監督に通じているように思えるのですが、その話をすると長くなるのでそれはまたいずれかの機会に。
2014年8月6日水曜日
STAP細胞と技術立国ニッポンの落日
約一ヶ月ぶりの更新です。今回はSTAP細胞や小保方氏の話を書きます。
この件については何度かこのblogに書こうかと思った事はあったのですが。捏造疑惑以降の世の中のバッシングぶりが余りに酷かったので、否定にせよ肯定にせよ、とにかくこの件について触れることに気が進まなかったのですが。昨日とうとう笹井氏が自殺しちゃったのを見てなんだか気分が変わって、僕もようやくこの件に触れる気分になりました。
この心境の変化をもうちょっとちゃんと説明すると、長い間日本人が異常ともとれる熱意を傾けてきたこの件を、笹井氏が自ら人柱となって"供養"したことでようやく「過去の事件」となったように思えたのです。僕の想像ですが、これでSTAP細胞や小保方氏についての一連の騒動は収束すると思います。この「供養された感」は佐村河内氏(の記者会見)にはあったけど小保方氏とSTAP細胞には今まで全くありませんでした。だからこそこれだけ長々とバッシングされ続けたんじゃないかと思うんですけどね。
僕自身はなんちゃって研究職という職業上、一応世の中の区分としては理系に該当します。確かに記者会見の小保方氏の受け答えを見た限りでは、まともな科学者には見えなかったのは事実です。しかしながら、僕はなんちゃって理系だけど実験ノートをつくるような分野ではなかったしそんな経験も無いので、彼女の実験ノートがマトモなのかどうなのか判断できません。だから、自分が分からない事や知らない事には判断を保留するのが妥当だと思いますし、硬い言い方をするとそれこそが科学的な態度だと思うのですが。
自民党は理研や産総研の給与の上限をなくす法案の成立を検討していましたが、結局STAP細胞騒動の煽りで見送りました。かくして技術立国ニッポンは、自分が全く専門知識を持たない事象に対しても審級を下す権利が自身に備わっていると考える正義の庶民によって足を引っ張られて、諸外国に遅れをとっていくように僕には見えるのです。
青色ダイオードを発明した中村修二氏は「文系が金持ちの国は後進国」とまで言ってのけました。まぁ彼の場合、この言葉の裏にはそれまでの日亜化学の永年の仕打ちに対する積年の恨みもあったのでしょうが。それはさておき、結果として彼は日本を離れてUCLAに行っちゃったわけです。このように能力のある人を遇することのできない国からは、より良い待遇と研究環境を求めてどんどん優秀な人材が流出していきます。
もうすでに小保方さんは有名になりすぎた上にNHKのパパラッチに追いかけ回されたりで、日本ではまともな社会生活が送れない状況だろうと思います。捏造ではなくSTAP細胞が本当に存在して、それを発見できるほどの能力があったのだとしたら、小保方氏は外国に飛び出すべきだと思います。
この件については何度かこのblogに書こうかと思った事はあったのですが。捏造疑惑以降の世の中のバッシングぶりが余りに酷かったので、否定にせよ肯定にせよ、とにかくこの件について触れることに気が進まなかったのですが。昨日とうとう笹井氏が自殺しちゃったのを見てなんだか気分が変わって、僕もようやくこの件に触れる気分になりました。
この心境の変化をもうちょっとちゃんと説明すると、長い間日本人が異常ともとれる熱意を傾けてきたこの件を、笹井氏が自ら人柱となって"供養"したことでようやく「過去の事件」となったように思えたのです。僕の想像ですが、これでSTAP細胞や小保方氏についての一連の騒動は収束すると思います。この「供養された感」は佐村河内氏(の記者会見)にはあったけど小保方氏とSTAP細胞には今まで全くありませんでした。だからこそこれだけ長々とバッシングされ続けたんじゃないかと思うんですけどね。
僕自身はなんちゃって研究職という職業上、一応世の中の区分としては理系に該当します。確かに記者会見の小保方氏の受け答えを見た限りでは、まともな科学者には見えなかったのは事実です。しかしながら、僕はなんちゃって理系だけど実験ノートをつくるような分野ではなかったしそんな経験も無いので、彼女の実験ノートがマトモなのかどうなのか判断できません。だから、自分が分からない事や知らない事には判断を保留するのが妥当だと思いますし、硬い言い方をするとそれこそが科学的な態度だと思うのですが。
最初に小保方氏をリケジョだの割烹着だのとメディアが持ち上げらているのをそのまま鵜呑みにしていた人達が、一旦捏造疑惑が持ち上がるや否やテレビに出てくる「専門家」が実験ノートの不備などを指摘しているのをそのまま鵜呑みにしてバッシングする側に回っているのを見て、これはさすがにヒドいと思ったのでした。
「信じる」ということは多大なリスクと責任を伴うと思うんですが、メディアの情報を鵜呑みにする人達ってたぶんそうは思ってないんでしょうね。そして彼らは捏造疑惑が持ち上がるや否や、「だまされた被害者」の位置に瞬く間に移動して、自身がバッシングに加わることを何の躊躇もなく正当化することができたんだろうと思います。これはいつも僕が言ってる事の繰り返しですが、こうやって正義を背にしているとどこまでも残酷で苛烈な仕打ちができる日本人の社会が僕は本当に怖いのです。
自然科学の分野では、後に革新的だったと評されるような研究も最初は頼りなさげな仮説の一つでしか無い場合がほとんどなのですが。もし後で問題が見つかると笹井氏や小保方氏のように検証の機会もロクに与えられないまま社会から抹殺されるようなことが横行すると、この国の科学技術の発展にとって大きな障害になるんじゃないでしょうか。
だいたい、アインシュタインでもケプラーでもそうですけど、後に名を残すような大科学者も間違った事も沢山主張してますし。現在我々が自然科学と思っているのは「みんな間違った事もいっぱい言ったけど、わずかに残った正しいっぽいもの」だけが残って体系づけられたものです。
科学そのものの定義も「今のところどうやらそうであるらしい」であって、これはつまり「絶対に正しいかどうかはどのような人間も知ることができないので、常に間違っている可能性を考量しつづける責任を負わなくてはいけない」ということを意味しています。
だいたい、アインシュタインでもケプラーでもそうですけど、後に名を残すような大科学者も間違った事も沢山主張してますし。現在我々が自然科学と思っているのは「みんな間違った事もいっぱい言ったけど、わずかに残った正しいっぽいもの」だけが残って体系づけられたものです。
科学そのものの定義も「今のところどうやらそうであるらしい」であって、これはつまり「絶対に正しいかどうかはどのような人間も知ることができないので、常に間違っている可能性を考量しつづける責任を負わなくてはいけない」ということを意味しています。
発表した仮説が後でどうやら間違ってるようだと判明した途端に小保方氏や笹井氏のように社会全体からバッシングされるようなことが起こり得るような国では、自然科学という分野の研究に従事することそのものがハイリスクだということになりますし、最先端を行けばいくほどよりこのリスクが増すことになってしまいます。
そして、一連の小保方バッシングでも特に気になったのは、小保方氏の高級ブランド服やホテル暮らしについての非難です。確かにそんな金がどこから出てきたのかというのは僕も不思議だとは思いますが。研究費横領などの不正があったかどうか以前に「年間何百億円もの税金を投入されている理研の職員がそんな贅沢な暮らしをしているなんておかしい」という世間の反応に対して、これはさすがに違うんじゃないかなと思ったのです。仮に研究費の横領などが一切なくて、ホテル暮らしができるほどの給与を理研から得ていたとして。優秀な研究者がその能力に応じた待遇を受けるのに何か問題があるのでしょうか?というより、そうでもしないと本当に優秀な研究者は日本から離れていきますし、実際そうなりつつあると思います。自民党は理研や産総研の給与の上限をなくす法案の成立を検討していましたが、結局STAP細胞騒動の煽りで見送りました。かくして技術立国ニッポンは、自分が全く専門知識を持たない事象に対しても審級を下す権利が自身に備わっていると考える正義の庶民によって足を引っ張られて、諸外国に遅れをとっていくように僕には見えるのです。
青色ダイオードを発明した中村修二氏は「文系が金持ちの国は後進国」とまで言ってのけました。まぁ彼の場合、この言葉の裏にはそれまでの日亜化学の永年の仕打ちに対する積年の恨みもあったのでしょうが。それはさておき、結果として彼は日本を離れてUCLAに行っちゃったわけです。このように能力のある人を遇することのできない国からは、より良い待遇と研究環境を求めてどんどん優秀な人材が流出していきます。
もうすでに小保方さんは有名になりすぎた上にNHKのパパラッチに追いかけ回されたりで、日本ではまともな社会生活が送れない状況だろうと思います。捏造ではなくSTAP細胞が本当に存在して、それを発見できるほどの能力があったのだとしたら、小保方氏は外国に飛び出すべきだと思います。
2014年7月5日土曜日
帰ってきた「決定力不足」と集団的自衛権
これを書いている現在、ワールドカップはベスト8が出揃ったところです。日本は予選リーグでほぼいいところが無いまま敗退となり、テレビ各局が連日繰り返していた内容の薄い「ニッポンガンバレ」報道(たいていブラジルから中継で松木やゴン中山などがハイテンションで吼えて終わるだけ)も沈静化し、椎名林檎による「国際舞台とかそういうこと一切ガン無視の右寄りな歌詞の大会テーマソング”NIPPON”」を未だに流し続けるNHKにはやんわりとした罰ゲーム感さえ漂っています。あの曲は彼女のキャリアの汚点として語り継がれるんじゃないでしょうか。なんでもNHKから曲調や歌詞についてあれこれ注文がつけられて結果ああなったらしいですね。。
今回のワールドカップで改めて印象的だったのは、サッカーというスポーツは「絆」 「仲間」とかいうポエムや農耕民的な精神論ではなく、 タフな状況にも最後まで冷静にじっと耐えてギラギラとゴールを狙い続け る狩猟民族な姿勢を最後まで維持できた方が勝つ可能性が高いということです。ギリギリのところで後半ロスタイムに点を入れて勝ったりするチームと日本との決定的 な差はこのメンタリティなのではないかと思うのです。
本田という選手はこのメンタリティの差にとても敏感であったが故 にビッグマウスと言う表面的な態度によって自分の能力以上のものを「言葉」 という日本的な手段を通して背負って、自分を追い込む道へと進 んでしまったように見えるのです。内田樹先生の言葉を借りて言うなら、彼はこうすることで「自分自身に呪いをかけた」とも言えるでしょう。
本田は「 ガイジンみたいになろうとするけど根本的なところで方法論が日本人的 でどこかズレてしまってる、結局やっぱり日本人」 という意味ではとても現代的なのです。これは、前回の投稿で言及したように海外の反応をやたら気にするけど根本的なところで自分達が世界とズレていることを理解できない日本人と相似形を成しているように僕には見えます。
あれだけ散々「ベスト8はイケる」 などと言っていた反動で「真に受ける」ということが自己責任だと思わないお客様体質の日本人から本田は「口田圭祐」と戦犯扱いを受けました。彼の言動は「汚染水はコントロールされている」とか世界に向けて言ってた人と同じで、言ってる当の御本人がそもそも100%真に受けてないと思うんですけどね。
そして日本の予選リーグ敗退以降、何年かぶりに「決定力不足」 という懐かしいフレーズが聞こえるようになってきました。でも この「やっぱり決定力不足でダメな日本」という空気に僕は一抹の安堵を覚えるのです。というのも、一方では「決められる政治」をスローガンに掲げた安倍政権がなし崩し的に集団的自衛権の容認に踏み切ろうとしているのを見てると本当に気鬱になるからです。
集団的自衛権および安倍政権に対する僕の見解はほぼ内田樹先生の受け売りなのですが、ぱっと思いつくところで列挙すると
・そもそも憲法というのは時の権力者によって国家の本質が揺らいだりしないためにある
・憲法の恣意的解釈を許すと法治国家から人治国家に向かってしまう
・ねじれて決まらないことが二院制の本質である
・政治というのは「国家百年の計」であるべきで、市場経済の"スピード感"と同じスケールで考える物ではない
・アメリカの代わりに中東で人殺しを引き受けることによってイスラム文化から憎まれることの代償を過小評価している
といったところでしょうか。
戦後60年に渡って日本に平和をもたらしたのは「急に変化しない、なるだけ同じ状態を保つ」という安定感(理系語で言うとヒステリシス)と、それを支える「決定力不足」の体質だったんじゃないかと思うんですけどね。しかし、本田と同じように安倍晋三が非難される日もそう遠くない将来にやってきそうな気がするんだけどなぁ。。
今回のワールドカップで改めて印象的だったのは、サッカーというスポーツは「絆」
本田という選手はこのメンタリティの差にとても敏感であったが故
本田は「
あれだけ散々「ベスト8はイケる」
そして日本の予選リーグ敗退以降、何年かぶりに「決定力不足」
集団的自衛権および安倍政権に対する僕の見解はほぼ内田樹先生の受け売りなのですが、ぱっと思いつくところで列挙すると
・そもそも憲法というのは時の権力者によって国家の本質が揺らいだりしないためにある
・憲法の恣意的解釈を許すと法治国家から人治国家に向かってしまう
・ねじれて決まらないことが二院制の本質である
・政治というのは「国家百年の計」であるべきで、市場経済の"スピード感"と同じスケールで考える物ではない
・アメリカの代わりに中東で人殺しを引き受けることによってイスラム文化から憎まれることの代償を過小評価している
といったところでしょうか。
戦後60年に渡って日本に平和をもたらしたのは「急に変化しない、なるだけ同じ状態を保つ」という安定感(理系語で言うとヒステリシス)と、それを支える「決定力不足」の体質だったんじゃないかと思うんですけどね。しかし、本田と同じように安倍晋三が非難される日もそう遠くない将来にやってきそうな気がするんだけどなぁ。。
2014年6月24日火曜日
ワールドカップでのゴミ拾いとクールジャパン
これを書いている現在、ワールドカップはグループリーグの途中です。日本はまだ敗退が決まってはいませんが、コートジボアールに負けてギリシャに引き分けたので決勝トーナメントへの進出が厳しい状況になってきたというところです。ちなみにもうスペインは敗退が決まりました。ここ数年のスペイン代表のパフォーマンスからすると、信じられないくらいまるでいい所がありませんでしたね。。
さて、コートジボアール戦の後で会場のゴミを拾っていた日本サポーターが世界中で賞賛されているという報道がありました。ええっと、勿論ゴミを拾うのは良い悪いで言えば良い事なのは間違いないのですよ。でも、判で押したように「世界で大絶賛の日本の美徳」みたいに大喜びしているのを見てるとなんだか息苦しいやらもどかしいやら、という気分になってきたのですよ。まぁ、負けちゃったから他に喜べるところが無いので、ナンシー関言うところのオリンピックやワールドカップに対する日本人の「感動させてくれ」欲が行き場を無くしてそこに集中してしまったというのもあるんじゃないかと思います。
このゴミ拾いの件から受ける息苦しさやもどかしさについて考えた結論を言うと「ワールドカップでのゴミ拾いが放つ違和感はクールジャパンと同質の物だ」ということになっちゃっいまして。残念ながらやっぱりまたしてもクールジャパンの悪口とかそういう話です。いや、本当はあんまり日本の悪口ばっかり言ってたくないんですけどね。
自分が知る限りの海外、特に欧州と比較してみますが。「ゴミを拾う」とか「掃除をする」ということは日本以外の国ではより単純に労働であり職業だと思われていて、それを率先して行う事が美徳と考える習慣はたぶん無いんじゃないかと思います。
例えばスペインでは「掃除する人」という職業が日本以上にポピュラーな存在で、街路樹から落ちた葉や煙草の吸い殻(基本ポイ捨て。こうやって回収されるからある意味ポイ捨ては合理的なんです。)まで、色んな物を清掃車や人間が掃除します。また、ルームシェアで複数人が同居しているアパート等で週に一回くらい掃除のプロにお金を払って掃除してもらったりするのは割と普通だったりします。このように掃除は労働であり職業である傾向が強いのです。
そして、日本の学校では掃除を道徳と絡めた教育の一部として位置づけていますが、生徒が学校を掃除をするのは世界的に見ると日本を含めた一部の少数派だけです。だから、教育とか道徳とかそういうものと掃除が結びつく以前に、そもそも外国の生徒のほとんどは学校で掃除をすることがありません。
よって、日本のサポーターがゴミを拾ってたこと自体は海外から賞賛されたのでしょうが、日本人がこのニュースから感じ取るような”崇高な美徳意識”と同じ感覚をもって外国人が賞賛しているわけではたぶんないんじゃないかと思うのです。想像ですが、「日本人ってなんかよくわかんないけどキレイ好きでびっくりするぐらい丁寧でマナーのいい人達だなー。」くらいに思われてるんじゃないでしょうか?
クールジャパンについては散々悪口を書いているのでこのblogを検索してもらえればいくらでもみつかるとは思いますが。改めて僕の見解を申し上げると、外国の人々がどのような文化的背景を持っていて日本文化のどういうところを面白がって受容していて、どの程度誤解されているのかもあんまりよく分からないまま、「とりあえずガイジンにウケるっぽいアニメや日本食や伝統芸能などをまとめて売り出そう」というのが「クールジャパン」なんだと僕は思うのです。
この「クールジャパン」に伏流している「海外から評価されたい欲」に対してはある程度国民的合意が得られていて、特にここ数年はあらゆる事に「世界で大絶賛の日本のナントカ」という国威高揚エピソードに熱狂するようになったと思うのですが。
こういう人達って、例えばロボットアニメは海外ではウケないとか、マジンガーZとクレヨンしんちゃんだけなぜかスペインでは異常に人気があるとか、そういう細々した受容のされ方に対してはあまり関心が無いままとりあえず「海外で大人気の日本の漫画・アニメ」という物語にだけ固執しているようで、僕にはなんだかねじれているというかズレているように思えるのです。
この違和感をやや細かいたとえ話で説明すると。狩野英孝が天然すぎて笑わせようと思ってもないところで「笑われてしまった」ときに、何を笑われているのかよく分からな(くて少しムッとした顔をすることもある)いけど、ウケてる事自体にはある程度満足しているのを見ているのと同じような感覚なのですね。
以上まとめると。
掃除に対する日本人の文化背景がいかに特異であるかについて自覚が無いながらも、とりあえずゴミ拾いは外国人から評価されるだろうというブリっ子的な打算も多少はあった上で日本人サポーターはゴミ拾いをしていて、それは案の定「世界が絶賛する日本人の美徳」という話形に日本では回収されました。しかし、これが放っている空気は外国人の文化的背景やその受容態度に対して意識があまり無いまま、クールジャパンという名前の下に「海外で大人気の日本の漫画・アニメ」という物語に大喜びしている日本人と全く同じようなねじれやズレを感じるのです。
さらに厄介なのは、ワールドカップの会場でゴミを拾うという美徳は「ゴミ出しのルールにいちいち細かい正義の主婦」や「オレ様の基準に合わせて掃除することを強要するきれい好きの上司」といった負の側面と表裏一体で不可分だということです。こういう「正義を背にして(いると本人が思っていると)、どこまでも他人を許す能力の低い人達」は僕にとって日本という国が住みにくく感じる大きな原因の一つなのです。
また、教育や道徳と掃除を関連付ける習慣は、大人になった今でも「ホワイトカラーも含めて全従業員に『クリーン作戦』という名目で敷地内の草むしりをさせる」という形で名残を残しています。わが社ではせいぜい半年に一回程度とはいえ、こういうのって日本人以外にはまず理解不能でして。外国人は「俺は草むしりのプロとしてここで働いているわけじゃない」と当然文句を言いますし、また彼の言ってることはまったくもって正しいのです。こういうことをいつまでもやってると日本の企業はいつまで経っても外国人にとって働きやすい場所にならないんじゃないかなと思うのです。
さて、コートジボアール戦の後で会場のゴミを拾っていた日本サポーターが世界中で賞賛されているという報道がありました。ええっと、勿論ゴミを拾うのは良い悪いで言えば良い事なのは間違いないのですよ。でも、判で押したように「世界で大絶賛の日本の美徳」みたいに大喜びしているのを見てるとなんだか息苦しいやらもどかしいやら、という気分になってきたのですよ。まぁ、負けちゃったから他に喜べるところが無いので、ナンシー関言うところのオリンピックやワールドカップに対する日本人の「感動させてくれ」欲が行き場を無くしてそこに集中してしまったというのもあるんじゃないかと思います。
このゴミ拾いの件から受ける息苦しさやもどかしさについて考えた結論を言うと「ワールドカップでのゴミ拾いが放つ違和感はクールジャパンと同質の物だ」ということになっちゃっいまして。残念ながらやっぱりまたしてもクールジャパンの悪口とかそういう話です。いや、本当はあんまり日本の悪口ばっかり言ってたくないんですけどね。
自分が知る限りの海外、特に欧州と比較してみますが。「ゴミを拾う」とか「掃除をする」ということは日本以外の国ではより単純に労働であり職業だと思われていて、それを率先して行う事が美徳と考える習慣はたぶん無いんじゃないかと思います。
例えばスペインでは「掃除する人」という職業が日本以上にポピュラーな存在で、街路樹から落ちた葉や煙草の吸い殻(基本ポイ捨て。こうやって回収されるからある意味ポイ捨ては合理的なんです。)まで、色んな物を清掃車や人間が掃除します。また、ルームシェアで複数人が同居しているアパート等で週に一回くらい掃除のプロにお金を払って掃除してもらったりするのは割と普通だったりします。このように掃除は労働であり職業である傾向が強いのです。
そして、日本の学校では掃除を道徳と絡めた教育の一部として位置づけていますが、生徒が学校を掃除をするのは世界的に見ると日本を含めた一部の少数派だけです。だから、教育とか道徳とかそういうものと掃除が結びつく以前に、そもそも外国の生徒のほとんどは学校で掃除をすることがありません。
よって、日本のサポーターがゴミを拾ってたこと自体は海外から賞賛されたのでしょうが、日本人がこのニュースから感じ取るような”崇高な美徳意識”と同じ感覚をもって外国人が賞賛しているわけではたぶんないんじゃないかと思うのです。想像ですが、「日本人ってなんかよくわかんないけどキレイ好きでびっくりするぐらい丁寧でマナーのいい人達だなー。」くらいに思われてるんじゃないでしょうか?
クールジャパンについては散々悪口を書いているのでこのblogを検索してもらえればいくらでもみつかるとは思いますが。改めて僕の見解を申し上げると、外国の人々がどのような文化的背景を持っていて日本文化のどういうところを面白がって受容していて、どの程度誤解されているのかもあんまりよく分からないまま、「とりあえずガイジンにウケるっぽいアニメや日本食や伝統芸能などをまとめて売り出そう」というのが「クールジャパン」なんだと僕は思うのです。
この「クールジャパン」に伏流している「海外から評価されたい欲」に対してはある程度国民的合意が得られていて、特にここ数年はあらゆる事に「世界で大絶賛の日本のナントカ」という国威高揚エピソードに熱狂するようになったと思うのですが。
こういう人達って、例えばロボットアニメは海外ではウケないとか、マジンガーZとクレヨンしんちゃんだけなぜかスペインでは異常に人気があるとか、そういう細々した受容のされ方に対してはあまり関心が無いままとりあえず「海外で大人気の日本の漫画・アニメ」という物語にだけ固執しているようで、僕にはなんだかねじれているというかズレているように思えるのです。
この違和感をやや細かいたとえ話で説明すると。狩野英孝が天然すぎて笑わせようと思ってもないところで「笑われてしまった」ときに、何を笑われているのかよく分からな(くて少しムッとした顔をすることもある)いけど、ウケてる事自体にはある程度満足しているのを見ているのと同じような感覚なのですね。
以上まとめると。
掃除に対する日本人の文化背景がいかに特異であるかについて自覚が無いながらも、とりあえずゴミ拾いは外国人から評価されるだろうというブリっ子的な打算も多少はあった上で日本人サポーターはゴミ拾いをしていて、それは案の定「世界が絶賛する日本人の美徳」という話形に日本では回収されました。しかし、これが放っている空気は外国人の文化的背景やその受容態度に対して意識があまり無いまま、クールジャパンという名前の下に「海外で大人気の日本の漫画・アニメ」という物語に大喜びしている日本人と全く同じようなねじれやズレを感じるのです。
さらに厄介なのは、ワールドカップの会場でゴミを拾うという美徳は「ゴミ出しのルールにいちいち細かい正義の主婦」や「オレ様の基準に合わせて掃除することを強要するきれい好きの上司」といった負の側面と表裏一体で不可分だということです。こういう「正義を背にして(いると本人が思っていると)、どこまでも他人を許す能力の低い人達」は僕にとって日本という国が住みにくく感じる大きな原因の一つなのです。
また、教育や道徳と掃除を関連付ける習慣は、大人になった今でも「ホワイトカラーも含めて全従業員に『クリーン作戦』という名目で敷地内の草むしりをさせる」という形で名残を残しています。わが社ではせいぜい半年に一回程度とはいえ、こういうのって日本人以外にはまず理解不能でして。外国人は「俺は草むしりのプロとしてここで働いているわけじゃない」と当然文句を言いますし、また彼の言ってることはまったくもって正しいのです。こういうことをいつまでもやってると日本の企業はいつまで経っても外国人にとって働きやすい場所にならないんじゃないかなと思うのです。
2014年6月1日日曜日
日本における「信者」とヤンキー度
たぶん高校生くらいの頃からずっとなんですが、村上春樹や坂本龍一やAppleなどの「信者」の方と話すのが僕はすごく苦手なのです。単純な好き嫌いで言うと上記のどれも割と好きな方ではあるのですが、これらの「信者」の方と話しているとなんだかすごく疲れるのですよ。
だって彼らって、「仮にオレが信仰しているものの素晴らしさを理解できないとしても、オレの前でわざわざ***についてネガティブな事を言うのは許さない」という空気を放っているので、それに合わせてさし上げることを暗黙のうちに強要されているような気分になるのです。特にピュアな信者の方ほど自分がそういう空気を振りまいていることに自覚が無い様子なんですが、こういう人と話しているときに限って彼らを怒らせそうなことから順番に思いついてしまうのでホント大変なんですよね。。
さて。信者君達そのものはさておき、今回の本題は「***信者」という言葉で揶揄される方々の信仰の対象はたいていヤンキー度が低いものばっかりだという話です。例えば高木壮太氏によれば村上春樹はヤンキー成分がほぼゼロなんだそうです。これは氏の言うようにほぼ全員が大なり小なりヤンキー的なセンスを持つ我々日本人の中での村上春樹がいかに特異な存在であるかを示唆していると思います。
ざっと思いつく限り「***信者」というのを並べてみても
・スタバ信者
・村上春樹信者
・坂本龍一信者
・無印信者
・Apple信者
・ディズニー信者
とりあえずスタバ、ディズニー、Appleは全部アメリカの物なのでヤンキー成分ゼロってことでいいでしょう。無印と坂本龍一はちょっと微妙な気もしますが、ニトリや小室哲哉と一緒に並べたらどっちがヤンキー成分が低いかは自明でしょう。
こうやって並べてみると、「***信者」という揶揄表現は「無くても生きていくうえで直接困らないもの」に適用される傾向があるようなのです。例えば、「ファミマ信者」とか「吉野家信者」とかっていう言い方あんまりしないですよね?こういう生活感のあるもの(=不可避的にヤンキー的なエッセンスが日本ではついて回るもの)に対しては、例えば「ファミマ派」とか「吉野家派」なんていう言い回しが使われることの方が多いんじゃないかと思うのです。
「無くても生きていくうえで直接困らないもの」というのは簡単な一言で置き換えると「文化」なんですが。「ヤンキー度が低い=自分達の文化にない」物をとりあえず有難がれるのって、よく言われているように世界的にはマイノリティなんだと思います。ええっとこれは、よくある「日本は他国に侵略されたことが無いので、外来文化を『良い物』としてすんなり受け入れる」みたいな話です。
とはいえ一方では、ヤンキー度の低い文化アイコンを信仰することは「日本人=ヤンキー的」というアイデンティティに対する重要な背信行為であり、そういう裏切り行為への呪詛と揶揄を込めて日本人は彼らを「信者」と呼んでるのだと思います。
これら二つの性質をまとめて、日本人の外来文化への接し方を簡単な一言で説明するときに僕は「表面的な器用さと内面的な不器用さ」という言い方をしているのですが。表面的にはAppleでもスタバでもなんでもそのまま積極的に受け入れてオシャレ扱いする反面、それらのヤンキー成分の少ない外来文化の信者に対する呪詛や嫌悪を隠せない内面的な不器用さはやっぱり日本人にしっかり受け継がれているということを、こういう事例を通して改めて確信するのですよ。
だって彼らって、「仮にオレが信仰しているものの素晴らしさを理解できないとしても、オレの前でわざわざ***についてネガティブな事を言うのは許さない」という空気を放っているので、それに合わせてさし上げることを暗黙のうちに強要されているような気分になるのです。特にピュアな信者の方ほど自分がそういう空気を振りまいていることに自覚が無い様子なんですが、こういう人と話しているときに限って彼らを怒らせそうなことから順番に思いついてしまうのでホント大変なんですよね。。
さて。信者君達そのものはさておき、今回の本題は「***信者」という言葉で揶揄される方々の信仰の対象はたいていヤンキー度が低いものばっかりだという話です。例えば高木壮太氏によれば村上春樹はヤンキー成分がほぼゼロなんだそうです。これは氏の言うようにほぼ全員が大なり小なりヤンキー的なセンスを持つ我々日本人の中での村上春樹がいかに特異な存在であるかを示唆していると思います。
ざっと思いつく限り「***信者」というのを並べてみても
・スタバ信者
・村上春樹信者
・坂本龍一信者
・無印信者
・Apple信者
・ディズニー信者
とりあえずスタバ、ディズニー、Appleは全部アメリカの物なのでヤンキー成分ゼロってことでいいでしょう。無印と坂本龍一はちょっと微妙な気もしますが、ニトリや小室哲哉と一緒に並べたらどっちがヤンキー成分が低いかは自明でしょう。
こうやって並べてみると、「***信者」という揶揄表現は「無くても生きていくうえで直接困らないもの」に適用される傾向があるようなのです。例えば、「ファミマ信者」とか「吉野家信者」とかっていう言い方あんまりしないですよね?こういう生活感のあるもの(=不可避的にヤンキー的なエッセンスが日本ではついて回るもの)に対しては、例えば「ファミマ派」とか「吉野家派」なんていう言い回しが使われることの方が多いんじゃないかと思うのです。
「無くても生きていくうえで直接困らないもの」というのは簡単な一言で置き換えると「文化」なんですが。「ヤンキー度が低い=自分達の文化にない」物をとりあえず有難がれるのって、よく言われているように世界的にはマイノリティなんだと思います。ええっとこれは、よくある「日本は他国に侵略されたことが無いので、外来文化を『良い物』としてすんなり受け入れる」みたいな話です。
とはいえ一方では、ヤンキー度の低い文化アイコンを信仰することは「日本人=ヤンキー的」というアイデンティティに対する重要な背信行為であり、そういう裏切り行為への呪詛と揶揄を込めて日本人は彼らを「信者」と呼んでるのだと思います。
これら二つの性質をまとめて、日本人の外来文化への接し方を簡単な一言で説明するときに僕は「表面的な器用さと内面的な不器用さ」という言い方をしているのですが。表面的にはAppleでもスタバでもなんでもそのまま積極的に受け入れてオシャレ扱いする反面、それらのヤンキー成分の少ない外来文化の信者に対する呪詛や嫌悪を隠せない内面的な不器用さはやっぱり日本人にしっかり受け継がれているということを、こういう事例を通して改めて確信するのですよ。
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