我が家はほぼリーガ・エスパニョーラを見るためだけにWOWOWに入っているのですが。WOWOWはたまにシリーズ物のアニメを10話ずつくらいに分けて集中的に放映するのですね。3月は「伝説巨人イデオン」を全話放送してたのですが、いやはや、すっかりこれにハマってしまいました。
ガンダムやマクロスくらいなら少なくとも名前くらいはみんな知ってると思いますが、イデオンって決してメジャーではないし、子供が見ても面白いと思えるような内容ではないのですよ(まぁ実際に不人気過ぎて放映が途中で打ち切りになったのですけどね)。でもこの歳で大人目線で見てたらすごく面白いんですね。例えば、主役ロボットが滅びた古代人の遺跡であるという設定とかすごくシブいのですよ。
方々で言及されているようですが、イデオンはエヴァンゲリオンにも明らかに影響を与えてると思います。例えばロボット自体が意思を持っていて、それをある時期からパイロットが恐れるようになるところとか。そしてなにより結末が…
そんなわけで、僕はロボットアニメはやっぱりいくつになっても見てて面白いのですね。もうこれって、幼児期からの刷り込みなので老人になってもたぶん僕はロボットアニメを見てるんじゃないかと思うのですが。ロボットアニメって不思議なことに外国人にはあんまりウケないんですよ。例えば僕と同年代の日本人の男子だとアニメを語るとなるとガンダムは外せないと思うのですが。「海外で人気の日本のアニメ」の中に、ロボットアニメはほとんど含まれてないと思います。強いて含めるならエヴァンゲリオンはそれなりに人気あるみたいでしたけどね。
これは、バルセロナのアニメ・漫画フェスティバルに行ったときのコスプレの人気キャラの印象と附合していると思います。男子だとドラゴンボールとかONE PIECEやナルトなどの少年ジャンプ的な漫画のコスプレは沢山見る(女子だと初音ミクとかセーラームーンとか)んですけど、ロボットアニメのキャラのコスプレやってる人ってほとんどいなかったのですね。。
なぜ日本以外でロボットアニメが受けないのか?についての考察として、検索してみたらこんな記事がありました。まぁベタベタではありますが、やっぱり宗教の影響は無視できないというのはその通りだと思います。前回の投稿で言及したように、神道のようなアミニズムでは見えない物や無生物にも魂が宿るという考え方があって、無生物と生物をあまり分けて考えていません。一方、西欧人にとっては無生物に命を吹き込むというのは神の所業であって、人間がロボットを作るということ自体が、例えばフランケンシュタインやゴーレムなどのような禍々しい魔術、呪術的な営みになるわけです。確かにそう考えると、日本人ほど気楽にロボットアニメが理解される風土ではないだろうとは思います。
しかしロボットアニメというのが海外に全く無いというわけではないのですよ。僕が自分で見たことがある唯一の事例として、アメリカ産ロボットアニメのトランスフォーマーがあります。このシリーズのテレビ放送は日本でもやってて、僕も子供の頃見ていました。ところがこのトランスフォーマー、ロボットが人間のように喋ったりするんですけど、中に人が乗っているわけではないのですね。だから何って、このアメリカ産のアニメにはひたすらロボット同士の戦いだけが描かれていて、人が出てくる印象がまるで無いのです。
一方わが国のロボットアニメは、最初こそ鉄人28号みたいに少年が遠隔で操作する方式でしたが、マジンガーZあたりからは「巨大ロボットに少年が乗り込んで操縦する」というスキームが確立されて、その後は基本的にこのパターンですよね。実は上述のトランスフォーマーの話にも続きがあって、アメリカ産アニメの放映が終わった後に日本オリジナルの続編がつくられたのですが。日本版トランスフォーマーでは最終的には人間がロボットに変身するという形態になってしまったのです。
なんで日本人がつくるロボットアニメは必ず「人間がロボットを操作する」のか。そして、その大半はなぜ「少年がロボットに乗り込む」のか。これについて例によって内田先生を引用するのですが、今回ばかりは内田先生の説に僕はあんまり納得していません。内田先生が言ってるのは「武力(ロボット)を無垢な心を持った少年がコントロールする」という話形に戦後日本人の集合的無意識が反映されているということなんだと思うのですが。僕は太平洋戦争や米軍による日本占領などが無かったとしても日本人はロボットアニメを作り出していたはずだと思うのです。
まず、少年がロボットを操縦するのは、単純に見ている子供にとって感情移入しやすいからなんじゃないかと思います。以前も指摘したように、日本という国は子供の子供らしい振る舞いに寛容な国であるので、漫画やアニメのように「子供」という消費者層に特化した文化が醸成されたのだと思うのです。だからこそ、ターゲットである子供がより感情移入しやすいように、アニメでは少年が主人公なんじゃないでしょうか。別にロボットアニメに限らず、日本のアニメってだいたい少年が主人公ですから。一方、欧米では子供というのは大人への過渡段階だと考えられているように思えるのです。だから、子供のための娯楽である漫画やアニメのような文化は発達せず、子供達は大人向けのコンテンツであるサッカーに登場する大人のサッカー選手に憧れるわけです。
そしてロボットに乗り込むという形式には、「巨大ロボットという母の胎内で守られる」という母胎内回帰願望と関係があるように思います。エヴァンゲリオンなんて、本当に母親の魂がロボットの中に宿ってますからね。「巨大なお母さんに乗る」というのは龍の子太郎みたいな昔話にも出てくるモチーフでもあります。なんで日本人がこのモチーフを好むかといえば、日本的=天皇的=女性原理という説明にやっぱり行き着くのではないでしょうか。
あと、養老猛司氏が言うところの「脳化」もこれと関係あるように思えるのです。氏曰く、日本人の身体感覚は江戸時代くらいに急速に「脳化」して、身体性を喪失してしまったらしいのです。これはつまり、我々日本人の身体感覚というのは身体というロボットを脳というパイロットが操縦している感覚に極めて近いということなのではないでしょうか?だとすると、人型の巨大ロボットに人が乗って操縦するというロボットアニメを受け入れる素地が我々日本人には備わっているのではないかと思うのです。
以上、ここまでの話では一環して「日本のロボットアニメは海外ではウケない」と言ってきましたが。実は例外がありまして。スペインではなぜかマジンガーZが国民的な人気アニメなのですよ。少なくとも30-40代の男子の大半はマジンガーZを見たことがあるのですね。かといって、ガンダムとかマクロスみたいなリアルロボット系もウケるかと思いきや、そっちにはほとんど関心を示さないのです。つくづくスペインは不思議の国ですね。
2014年4月13日日曜日
2014年3月30日日曜日
空間除菌とアミニズム
二酸化塩素による殺菌(殺ウイルス)効果を謳った空間除菌(除ウイルス)商品に対して消費者庁から措置命令が出たんだそうです。僕が理解した範囲では、二酸化塩素という薬品をウイルスと一緒に試験管に入れて放置するような実験では二酸化塩素の効果が認められたものの、開放空間においては本当に効果があるのか疑わしいということみたいです。
実は携帯タイプの物は僕も去年の冬に買って、一時期は家の外ではずっと首からぶら下げていました。本当にそんな効果があるのかは正直怪しいとは思っていたのですが、なんとなくみんなが使ってるのを見てたら買ってみたくなっちゃったのです。たぶんこの手の商品をお金出して買った日本人の大半が僕と同じような感覚だったんじゃないかなとは思います。本気で信じてないまでもなんか意味あるのかもしれないからとりあえず買ってみよう、ぐらいに考えてたんじゃないでしょうか。
この除菌アイテムに限らず、マイナスイオンとかプラズマクラスターなど「見えない物」の科学的効果を謳った商品って日本人はつくづく大好きですよね。あと、ファブリーズなんかの「禊・浄化」関連のグッズなんかも大好きですよね。まぁ、ファブリーズに関しては見えないけど「臭い」で実際に効果が分かるんですけどね。
同様の事例はいくつもあって、例えば「ココがヘンだよ日本人!」話になるとよく出てくるお約束アイテムの一つにマスクがあります。確かに僕の知る範囲では日本以外の国でマスクして歩いてる人を見たことはほとんどありません。「風邪のウイルスは飛沫感染するのでマスクが感染しない/感染さないために有効である」というロジックそのものは、たぶん日本人以外にも説明したら納得してもらえるんだろうとは思うのですが。日本人が当たり前のようにマスクをつけて外出する習慣を持つに至ったのは、「見えないウイルスがそこに存在するかのように感じる能力」に因るところが大きいんじゃないかと思います。
他にも、子供の頃に嫌われてる子に触れたら、「~菌」とか言いながら他の人に手で触って菌を感染させるのってありましたよね?ああいうのも「目に見えない菌という物の存在を身近に感じる」という文化的背景が無いと成立しないんじゃないかと思います。
このようにウイルスや菌などといった衛生(ケガレ)に関しては殊更日本人は敏感だと思います。そして、やっぱりこういう民族的奇習は神道及びアミニズム(精霊信仰)に由来してるんだろうと思います。
こういう日本人の特徴を体系的に説明した作品に「空気の研究」(山本七平)がありまして。概要はうまくまとめた紹介文があったのでこちらをご参照ください。この本は日本人特有の「空気」の事例を紹介し、その空気が日本人の間で醸成される原因として、物や言葉などに見えない力が宿っているかのように感じてしまう(山本氏の言い方をすると"臨在的把握")ことを指摘しています。そしてこの背景にあるのはアミニズム(精霊信仰)なのではないかというのが「空気の研究」の骨子です。
一例をご紹介すると、「墓地発掘の現場で毎日何個も人骨や髑髏を掘り出して運搬しているうちに日本人は病人のように弱ってしまったけどイスラエル人はなんともなかった」というエピソードが「空気の研究」では挙げられています。曰く、イスラエル人にとっては人骨は骨という物質以上の意味を持たないのに対して、日本人はその人骨から何か禍々しいものを感じ取ってしまって体調を崩してしまったのだそうです。
散々このblogで言及している表徴の帝国というロラン・バルトの日本文化論でもこれと同じようなことが指摘されているのです。wikipediaの解説をそのまま引用すると
西洋世界が「意味の帝国」であるのに対し、日本は「表徴(記号)の帝国」と規定する。ヨーロッパの精神世界が記号を意味で満たそうとするのに対し、日本では意味の欠如を伴う、あるいは意味で満たすことを拒否する記号が存在する。そしてそのような記号は、テクストの意味から切り離されたことで、独自のイメージの輝きを持つものとなる。
これ、上記の人骨の話におけるイスラエル人(=少なくとも思考様式は完全に西洋人)と日本人の話にそのままあてはまると思います。
実は携帯タイプの物は僕も去年の冬に買って、一時期は家の外ではずっと首からぶら下げていました。本当にそんな効果があるのかは正直怪しいとは思っていたのですが、なんとなくみんなが使ってるのを見てたら買ってみたくなっちゃったのです。たぶんこの手の商品をお金出して買った日本人の大半が僕と同じような感覚だったんじゃないかなとは思います。本気で信じてないまでもなんか意味あるのかもしれないからとりあえず買ってみよう、ぐらいに考えてたんじゃないでしょうか。
この除菌アイテムに限らず、マイナスイオンとかプラズマクラスターなど「見えない物」の科学的効果を謳った商品って日本人はつくづく大好きですよね。あと、ファブリーズなんかの「禊・浄化」関連のグッズなんかも大好きですよね。まぁ、ファブリーズに関しては見えないけど「臭い」で実際に効果が分かるんですけどね。
同様の事例はいくつもあって、例えば「ココがヘンだよ日本人!」話になるとよく出てくるお約束アイテムの一つにマスクがあります。確かに僕の知る範囲では日本以外の国でマスクして歩いてる人を見たことはほとんどありません。「風邪のウイルスは飛沫感染するのでマスクが感染しない/感染さないために有効である」というロジックそのものは、たぶん日本人以外にも説明したら納得してもらえるんだろうとは思うのですが。日本人が当たり前のようにマスクをつけて外出する習慣を持つに至ったのは、「見えないウイルスがそこに存在するかのように感じる能力」に因るところが大きいんじゃないかと思います。
他にも、子供の頃に嫌われてる子に触れたら、「~菌」とか言いながら他の人に手で触って菌を感染させるのってありましたよね?ああいうのも「目に見えない菌という物の存在を身近に感じる」という文化的背景が無いと成立しないんじゃないかと思います。
このようにウイルスや菌などといった衛生(ケガレ)に関しては殊更日本人は敏感だと思います。そして、やっぱりこういう民族的奇習は神道及びアミニズム(精霊信仰)に由来してるんだろうと思います。
こういう日本人の特徴を体系的に説明した作品に「空気の研究」(山本七平)がありまして。概要はうまくまとめた紹介文があったのでこちらをご参照ください。この本は日本人特有の「空気」の事例を紹介し、その空気が日本人の間で醸成される原因として、物や言葉などに見えない力が宿っているかのように感じてしまう(山本氏の言い方をすると"臨在的把握")ことを指摘しています。そしてこの背景にあるのはアミニズム(精霊信仰)なのではないかというのが「空気の研究」の骨子です。
一例をご紹介すると、「墓地発掘の現場で毎日何個も人骨や髑髏を掘り出して運搬しているうちに日本人は病人のように弱ってしまったけどイスラエル人はなんともなかった」というエピソードが「空気の研究」では挙げられています。曰く、イスラエル人にとっては人骨は骨という物質以上の意味を持たないのに対して、日本人はその人骨から何か禍々しいものを感じ取ってしまって体調を崩してしまったのだそうです。
散々このblogで言及している表徴の帝国というロラン・バルトの日本文化論でもこれと同じようなことが指摘されているのです。wikipediaの解説をそのまま引用すると
西洋世界が「意味の帝国」であるのに対し、日本は「表徴(記号)の帝国」と規定する。ヨーロッパの精神世界が記号を意味で満たそうとするのに対し、日本では意味の欠如を伴う、あるいは意味で満たすことを拒否する記号が存在する。そしてそのような記号は、テクストの意味から切り離されたことで、独自のイメージの輝きを持つものとなる。
これ、上記の人骨の話におけるイスラエル人(=少なくとも思考様式は完全に西洋人)と日本人の話にそのままあてはまると思います。
2014年3月22日土曜日
日本人の永遠のテーマ「ヤンキー論」をちょっとだけ
今回のお題は「ヤンキー」です。これ、「天皇」とか並んで日本人にとっての永遠のテーマの一つだと僕は思います。ナンシー関は生前「日本人の血からヤンキーとファンシーは消えない」と言ってましたが、彼女の没後10年以上経った今でも本当にその通りだと思います。「ファンシー」に関しては、ぱっと思いつくだけでも「ゆるキャラ」「きゃりーぱみゅぱみゅ」「初音ミク」など、佃煮にして売れるくらい日本はファンシーで埋め尽くされています。まぁ、実際に「クールジャパン」っていう名前の佃煮にして外国に売り出そうとしているんですけどね。
一方のヤンキーですが。こちらも相変わらず根強い人気です。清原や長渕や亀田一家、EXILE、最近じゃビッグダディなんかもこのカテゴリに入るんでしょうかね?「ファンシー」ほどのもてはやされ感は無いものの、このカテゴリのキャラクターには常に一定の需要があります。
前回の投稿で、日本人はある程度自律的に横並びの社会を維持することができる反面、その社会の維持には「負の感情の共有」(例えば目上の誰かの悪口を言い合うとか)が伴うことが往々にして発生する。ということについて言及しましたが。別の言い方をすると、日本人は自律的に社会秩序を形成できる反面、その社会は自動的に「虐げられた者」のマインドを持った多数の庶民で構成されることになってしまうんじゃないかと思うのです。
ところが「社会秩序にまつろわぬもの」、つまり、社会秩序の中に組み込まれない特殊な人達もいたそうなのです。さて、ここからは内田先生経由で、網野善彦の「童子」「京童」の完全な受け売りになりますが。それらについては、こことか内田先生のblog(1)、内田先生のblog(2)、などをご参照くださいませ。僕の理解した範囲では、童子というのは
・社会秩序から束縛されず
・普通の成人とは異なる容貌(子供のままの髪型)で
・異形の力を持つと恐れられていた
ということらしいのですよ。これってヤンキーそのものじゃないですかね?上記をヤンキーにあてはめると
・学校に行かない。反社会的。大学出てサラリーマンになるという標準モデルが眼中に無い
・独特のファッション
・なんといっても暴力的
と、きれいに附合するわけですよ。
平安時代にすでに「童子」というヤンキーが存在していたんだとしたら、ヤンキーは日本の伝統だと言ってもいいんじゃないでしょうか?ヤンキーは「虐げられた者達」である庶民のカウンターであり、だからこそ、社会秩序から束縛されないヤンキーは庶民にとっての憧れだったんじゃないかと思うのです。かくして、千年以上に渡ってヤンキーに憧れ続けてきたんだとしたら、そりゃ確かにナンシー関が言うように日本人の血からヤンキーは消えないだろうと思います。
特に現代においては社会秩序に沿って普通に生きるということと、人類がこれまで積み上げてきた自然な営為との乖離がどんどん激しくなっていくので、ヤンキーに対して我々庶民が持つ憧れには「人類が積み上げてきた人としての自然な営為」への憧れも含まれているんじゃないかと思うのです。例えば現代の日本で「普通に生きる」というのは、それなりに勉強して大学を出てサラリーマンになって毎日パソコンに向かってデスクワークの日々、家に帰ると核家族で子供は多くても二人で…ということになるんでしょうが。ご存知の通りわが国のヤンキーは中学か高校くらいで勉強を放棄し、多くは肉体労働に従事します。そして早く結婚して平均より多くの子供を作ります。このヤンキーのライフスタイルって、つい100年か200年くらい前まではこっちが普通だったわけですよね。こう考えると、益々もって日本からヤンキーが消えることは無いと確信するに至るのであります。
一方のヤンキーですが。こちらも相変わらず根強い人気です。清原や長渕や亀田一家、EXILE、最近じゃビッグダディなんかもこのカテゴリに入るんでしょうかね?「ファンシー」ほどのもてはやされ感は無いものの、このカテゴリのキャラクターには常に一定の需要があります。
前回の投稿で、日本人はある程度自律的に横並びの社会を維持することができる反面、その社会の維持には「負の感情の共有」(例えば目上の誰かの悪口を言い合うとか)が伴うことが往々にして発生する。ということについて言及しましたが。別の言い方をすると、日本人は自律的に社会秩序を形成できる反面、その社会は自動的に「虐げられた者」のマインドを持った多数の庶民で構成されることになってしまうんじゃないかと思うのです。
ところが「社会秩序にまつろわぬもの」、つまり、社会秩序の中に組み込まれない特殊な人達もいたそうなのです。さて、ここからは内田先生経由で、網野善彦の「童子」「京童」の完全な受け売りになりますが。それらについては、こことか内田先生のblog(1)、内田先生のblog(2)、などをご参照くださいませ。僕の理解した範囲では、童子というのは
・社会秩序から束縛されず
・普通の成人とは異なる容貌(子供のままの髪型)で
・異形の力を持つと恐れられていた
ということらしいのですよ。これってヤンキーそのものじゃないですかね?上記をヤンキーにあてはめると
・学校に行かない。反社会的。大学出てサラリーマンになるという標準モデルが眼中に無い
・独特のファッション
・なんといっても暴力的
と、きれいに附合するわけですよ。
平安時代にすでに「童子」というヤンキーが存在していたんだとしたら、ヤンキーは日本の伝統だと言ってもいいんじゃないでしょうか?ヤンキーは「虐げられた者達」である庶民のカウンターであり、だからこそ、社会秩序から束縛されないヤンキーは庶民にとっての憧れだったんじゃないかと思うのです。かくして、千年以上に渡ってヤンキーに憧れ続けてきたんだとしたら、そりゃ確かにナンシー関が言うように日本人の血からヤンキーは消えないだろうと思います。
特に現代においては社会秩序に沿って普通に生きるということと、人類がこれまで積み上げてきた自然な営為との乖離がどんどん激しくなっていくので、ヤンキーに対して我々庶民が持つ憧れには「人類が積み上げてきた人としての自然な営為」への憧れも含まれているんじゃないかと思うのです。例えば現代の日本で「普通に生きる」というのは、それなりに勉強して大学を出てサラリーマンになって毎日パソコンに向かってデスクワークの日々、家に帰ると核家族で子供は多くても二人で…ということになるんでしょうが。ご存知の通りわが国のヤンキーは中学か高校くらいで勉強を放棄し、多くは肉体労働に従事します。そして早く結婚して平均より多くの子供を作ります。このヤンキーのライフスタイルって、つい100年か200年くらい前まではこっちが普通だったわけですよね。こう考えると、益々もって日本からヤンキーが消えることは無いと確信するに至るのであります。
2014年3月15日土曜日
日本では大して人望が無くても人の上に立てる
今回は日本では「サラリーマンの愚痴」と言われるような話をします。というのも、以前はそこまで気にならなかったのですが、日本に帰ってきてから日本の会社の管理職やエライ人のクオリティの低さにイラっとくることが本当に多いのですよ。何が問題っていうと、
・人を前向きな気分にさせる能力が乏しい、もしくはそういう気が最初からまるで無い
・部下が嫌がることを命じるのに、情理を尽くして説明して分かってもらおうとしない
・上記のようなことがいちいち気になる。つまるところ人望がない、若しくは人を使うのがヘタ
ということなのです。みんながみんなそうだって言うつもりはなくて、勿論優れたリーダーだっているんですよ。でも、「人の上に立つ資質を欠いているのに人の上に立っている人」が結構な数いて、そのうちの何人かは大変残念なクオリティなのではないかと思うのです。
なんでこうなるのか。について僕なりの結論だけを先にを言うと「日本の会社はすごく安定しているので、資質が無い人が上に立っていても特に困らない」ということなんじゃないかと思うのです。
これは「会社」をひっくりかえして「社会」にしても全く同じ事が言えます。欧州で生活してみると、民主主義というのが彼らにとって必然のなりゆきとして生まれたという事が生理的なレベルでの納得感を伴って理解できるのです。個人の利益や自由を保証することと、社会を維持するという二つを両立するために、色々な試行錯誤を経た上で彼らは民主主義という社会システムを作り出したんだろうと思うのです。別の言い方をすると、そういうシステムが無いとたぶん彼らは本当に社会が維持できないんだと思うのです。実際、地震やハリケーンなどの甚大な自然災害によって秩序が崩壊すると、日本のように被災者が整然と避難所に集合して助け合うようなことにはならない国の方が多いようです。
これに対して日本という国は、ムラ的な相互監視システムによってそれなりに自律的に社会を維持できるんじゃないかと思うのです。このムラ社会では基本的に全員横並びであることが重要で、そこから逸脱しようとすると、出る杭は打たれるようなことになるわけです。そして日本では「誰かの文句を一緒に言う」などの形で「負の感情を共有する」ことによってムラの結束をより強めるという習慣があります。この辺りが外国人から見て一番理解されにくい日本の奇習の一つなんだと思いますが、日本人の「飲みニケーション」みたいな文化ってたぶん昔からあったんだろうと思います。なので、無理難題を押し付ける役人(上司)が上にいたとしても、致命的に限度を超えてない範囲ならば、かえって文句の言い甲斐があるので結果的にムラのチームワークがよくなってしまうようなことが起きたりさえするわけです。
話を会社に戻して、ここでいつもどおり海外では…という話を、例によって僕が嫌いな「欧米」という言葉を便宜上使ってしますが。人望が無かったり人の使い方がヘタな人が上に立つと、会社に対する帰属意識が弱い欧米では日本以上に組織のパフォーマンスが劣化して、それが結果に割と分かりやすく出てしまうんじゃないでしょうか。あと、何よりも日本と違って「嫌なら会社を辞めて違う仕事を探す」ということが割と当たり前なので、あんまり人望の無い人が上に立って部下に無理難題を押し付けてたりしてると、人が逃げていって組織自体が維持できなくなって死活問題に発展してしまいます。
だから、あんまり人を使うのがヘタな人や、人望が無い人が上に立ち続けることが難しいシステムになっているんじゃないかと思います。少なくとも、割と簡単に人に逃げられる欧米では人を使うということに関して日本の比ではないくらいの労力が要求され、管理職は個人の能力として単に優秀なだけではなく、それなりに人望が無いと務まらないんじゃないかと思います。
以上まとめると、日本の会社というのは、こういう風にできてるんじゃないかと思うのです。
「人の上に立つ資質を欠いた人」でも人の上に立ててしまう
↓
人望の無い上司の無理難題に振り回されても部下は簡単には会社を辞めずに我慢する
↓
部下達は上司の文句を言い合うことで連帯を深める結果、チームワークがよくなったりもする
これには一長一短あって、悪いことばかりでも無いと思うのです。能力の高い人が上に立つという弱肉強食的な競争社会って、それはそれで相当なストレスだと思いますよ。実際アメリカやイギリスなどの露骨な競争社会って精神的に病んでいく人が多いイメージがあります(という話を聞くだけで、本当にそうなのかは実体験を伴っていないので分からないですが)。
それに比べたら、資質が無くてもそれなりに上のポジションにいけるようにできてる(伝統的な)日本の会社システムってまだ平和だと思うのですよ。だいたい、儒教的な家父長制度をそのまま援用したような伝統的な日本の会社組織では一般的に年長者ほど上の立場に立つという仕組みになっていますが、こんなの完全な競争社会だったらまず実現しないですからね。
しかしこの、「儒教的な家父長制度」の上下関係だと、上司と部下は「親から子」のような関係になっちゃうんですよね。これが冒頭に挙げたように、「情理を尽くして説明して分かってもらおうとしない」とか「人の前向きさを引き出そうという気がそもそも無い」という、態度にもつながってるようにも思えるのです。
一長一短ありながらも、それにしてもこれはさすがにどうかなー?と思うのは、人望も無い上に部下を子供扱いする態度に出るおじさん達が、一方では「イノベーション」とかいう言葉を振り回しながら社員に対して何かしら自発性や創造性を求めていることなのです。社員にそこを求めるんだったら、さすがにまずは自発性や創造性を喚起するような人の扱い方をすることから始めるしかないと思うのですが。そんなおじさん達が上に立って「イノベーション」とか言ってられるうちは、まだまだ会社も安泰なのかもしれません。
こういう事を言ってると、日本人サラリーマン諸氏には「まぁまぁ、腹立つ事とか納得できないことなんてサラリーマンやってればあって当たり前だよ。いちいち怒ってたらキリが無いだろ?大人になれよ。」とか言われるんですが。彼らは「子供扱いされるのを受け入れること」を「大人になる」と言ってるわけで、このパラドクスを咀嚼できる器用さが残念ながら僕には無いのですよ。
-----------------------------------------------------------
ついでにこの文脈で我が国の政治家について言及しておきますと。ここ20-30年の日本の首相というのは、とても人望があるようには思え無いけど、ほどほどに文句の言い甲斐のある人達が大半だったと思うのです。
僕の知る限りの例外は小泉純一郎です。彼は「愛させる能力」だけで首相をやってたと思います。「小泉改革」が何を改革しようとしているのか国民のほとんどが実際は理解していないにもかかわらず、とりあえず国民に支持され続けたのって、ひとえに彼の「愛させる能力」の成せる業だと思うのです。
そしてこれを書いてる現在の安倍首相なのですが。彼は旧来の自民党首相とは違って、たぶん欧米の大統領みたいなキャラを目指しているんだろうと思うのです。が、残念ながら彼の発する全てのメッセージは「裏でジャイアンみたいな怖い奴に脅されて、お金持ちのお坊ちゃんが無理矢理言わされてる」かのように僕には見えます。まぁ、日本以外の国で大統領が務まったりする器だとは正直なところ思えません。何より彼が不思議なのは、憲法をいじったりして国家の株式会社化を進めることによって、日本という国を「安倍晋三では首相が務まらない国」に変えることに熱意を傾けていることです。
・人を前向きな気分にさせる能力が乏しい、もしくはそういう気が最初からまるで無い
・部下が嫌がることを命じるのに、情理を尽くして説明して分かってもらおうとしない
・上記のようなことがいちいち気になる。つまるところ人望がない、若しくは人を使うのがヘタ
ということなのです。みんながみんなそうだって言うつもりはなくて、勿論優れたリーダーだっているんですよ。でも、「人の上に立つ資質を欠いているのに人の上に立っている人」が結構な数いて、そのうちの何人かは大変残念なクオリティなのではないかと思うのです。
なんでこうなるのか。について僕なりの結論だけを先にを言うと「日本の会社はすごく安定しているので、資質が無い人が上に立っていても特に困らない」ということなんじゃないかと思うのです。
これは「会社」をひっくりかえして「社会」にしても全く同じ事が言えます。欧州で生活してみると、民主主義というのが彼らにとって必然のなりゆきとして生まれたという事が生理的なレベルでの納得感を伴って理解できるのです。個人の利益や自由を保証することと、社会を維持するという二つを両立するために、色々な試行錯誤を経た上で彼らは民主主義という社会システムを作り出したんだろうと思うのです。別の言い方をすると、そういうシステムが無いとたぶん彼らは本当に社会が維持できないんだと思うのです。実際、地震やハリケーンなどの甚大な自然災害によって秩序が崩壊すると、日本のように被災者が整然と避難所に集合して助け合うようなことにはならない国の方が多いようです。
これに対して日本という国は、ムラ的な相互監視システムによってそれなりに自律的に社会を維持できるんじゃないかと思うのです。このムラ社会では基本的に全員横並びであることが重要で、そこから逸脱しようとすると、出る杭は打たれるようなことになるわけです。そして日本では「誰かの文句を一緒に言う」などの形で「負の感情を共有する」ことによってムラの結束をより強めるという習慣があります。この辺りが外国人から見て一番理解されにくい日本の奇習の一つなんだと思いますが、日本人の「飲みニケーション」みたいな文化ってたぶん昔からあったんだろうと思います。なので、無理難題を押し付ける役人(上司)が上にいたとしても、致命的に限度を超えてない範囲ならば、かえって文句の言い甲斐があるので結果的にムラのチームワークがよくなってしまうようなことが起きたりさえするわけです。
話を会社に戻して、ここでいつもどおり海外では…という話を、例によって僕が嫌いな「欧米」という言葉を便宜上使ってしますが。人望が無かったり人の使い方がヘタな人が上に立つと、会社に対する帰属意識が弱い欧米では日本以上に組織のパフォーマンスが劣化して、それが結果に割と分かりやすく出てしまうんじゃないでしょうか。あと、何よりも日本と違って「嫌なら会社を辞めて違う仕事を探す」ということが割と当たり前なので、あんまり人望の無い人が上に立って部下に無理難題を押し付けてたりしてると、人が逃げていって組織自体が維持できなくなって死活問題に発展してしまいます。
だから、あんまり人を使うのがヘタな人や、人望が無い人が上に立ち続けることが難しいシステムになっているんじゃないかと思います。少なくとも、割と簡単に人に逃げられる欧米では人を使うということに関して日本の比ではないくらいの労力が要求され、管理職は個人の能力として単に優秀なだけではなく、それなりに人望が無いと務まらないんじゃないかと思います。
以上まとめると、日本の会社というのは、こういう風にできてるんじゃないかと思うのです。
「人の上に立つ資質を欠いた人」でも人の上に立ててしまう
↓
人望の無い上司の無理難題に振り回されても部下は簡単には会社を辞めずに我慢する
↓
部下達は上司の文句を言い合うことで連帯を深める結果、チームワークがよくなったりもする
これには一長一短あって、悪いことばかりでも無いと思うのです。能力の高い人が上に立つという弱肉強食的な競争社会って、それはそれで相当なストレスだと思いますよ。実際アメリカやイギリスなどの露骨な競争社会って精神的に病んでいく人が多いイメージがあります(という話を聞くだけで、本当にそうなのかは実体験を伴っていないので分からないですが)。
それに比べたら、資質が無くてもそれなりに上のポジションにいけるようにできてる(伝統的な)日本の会社システムってまだ平和だと思うのですよ。だいたい、儒教的な家父長制度をそのまま援用したような伝統的な日本の会社組織では一般的に年長者ほど上の立場に立つという仕組みになっていますが、こんなの完全な競争社会だったらまず実現しないですからね。
しかしこの、「儒教的な家父長制度」の上下関係だと、上司と部下は「親から子」のような関係になっちゃうんですよね。これが冒頭に挙げたように、「情理を尽くして説明して分かってもらおうとしない」とか「人の前向きさを引き出そうという気がそもそも無い」という、態度にもつながってるようにも思えるのです。
一長一短ありながらも、それにしてもこれはさすがにどうかなー?と思うのは、人望も無い上に部下を子供扱いする態度に出るおじさん達が、一方では「イノベーション」とかいう言葉を振り回しながら社員に対して何かしら自発性や創造性を求めていることなのです。社員にそこを求めるんだったら、さすがにまずは自発性や創造性を喚起するような人の扱い方をすることから始めるしかないと思うのですが。そんなおじさん達が上に立って「イノベーション」とか言ってられるうちは、まだまだ会社も安泰なのかもしれません。
こういう事を言ってると、日本人サラリーマン諸氏には「まぁまぁ、腹立つ事とか納得できないことなんてサラリーマンやってればあって当たり前だよ。いちいち怒ってたらキリが無いだろ?大人になれよ。」とか言われるんですが。彼らは「子供扱いされるのを受け入れること」を「大人になる」と言ってるわけで、このパラドクスを咀嚼できる器用さが残念ながら僕には無いのですよ。
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ついでにこの文脈で我が国の政治家について言及しておきますと。ここ20-30年の日本の首相というのは、とても人望があるようには思え無いけど、ほどほどに文句の言い甲斐のある人達が大半だったと思うのです。
僕の知る限りの例外は小泉純一郎です。彼は「愛させる能力」だけで首相をやってたと思います。「小泉改革」が何を改革しようとしているのか国民のほとんどが実際は理解していないにもかかわらず、とりあえず国民に支持され続けたのって、ひとえに彼の「愛させる能力」の成せる業だと思うのです。
そしてこれを書いてる現在の安倍首相なのですが。彼は旧来の自民党首相とは違って、たぶん欧米の大統領みたいなキャラを目指しているんだろうと思うのです。が、残念ながら彼の発する全てのメッセージは「裏でジャイアンみたいな怖い奴に脅されて、お金持ちのお坊ちゃんが無理矢理言わされてる」かのように僕には見えます。まぁ、日本以外の国で大統領が務まったりする器だとは正直なところ思えません。何より彼が不思議なのは、憲法をいじったりして国家の株式会社化を進めることによって、日本という国を「安倍晋三では首相が務まらない国」に変えることに熱意を傾けていることです。
2014年3月2日日曜日
エロ本世代のおじさんが日本のポルノを語ってみる
先日、出張先でドイツ人に「どうして日本のポルノはモザイクがかかってるんだ?」と突然尋ねられました。そんなこと言われても「法律でそう決まってるから」としか答えられないのですが。そう説明しても当のドイツ人は「局部だけにモザイクかけることに意味あんの?」と、まるで納得してる様子が無くてちょっと困りました。我々日本人だってモザイクが必要だということについて納得感のある説明なんて多分できないですよね。
結局は「今はネットでモザイクかかってないのとかもいくらでも見れるけど、僕らの思春期にはインターネットなんてなかったのでモザイクかかってないのを見る機会がほとんど無かった。だから、なんだか今でもモザイクかかってる方が見てて落ち着く。」とか、「局部だけでなく、ニュース映像等では死体にモザイクをかけることが慣例になっているし、逮捕・拘束された容疑者の手にかかってる手錠にもモザイクはかかってる。」とか、そんな話でごまかしておきましたが。まぁでも確かに、日本のポルノ事情ってかなり特殊なんじゃないかと思うので、今回はその話について書こうかと思います。
そもそも歴史を紐解くと、江戸時代の春画なんて局部だけが過剰に強調されて描かれていたりするので。局部を見せてはいけないというルールが昔から日本にあったわけでは無いんだろうと思います。むしろそこだけ強調するために春画の大半は顔と性器以外は服で覆われていたそうです。まぁ、江戸時代は性に関してかなり奔放な時代だった(同性愛とかもごくごく普通だった)らしいですけどね。
そこからどういう変遷で現在のモザイク文化に至ったのかはよく分かりませんが、どうも明治時代くらいにできた法律における「わいせつ物」の解釈として「モロはNG」ということになってるみたいです。とまぁ、そこだけ見ると日本ってポルノに厳しい国のように思えるのですが。外国人に言わせると、日本のポルノ事情はビックリすることもあるそうなのです。
一番外国人が驚くのは、コンビニや書店などの普通のお店でポルノが買えることです。これ、日本人としては割と普通のことなのですが、外国人からするとかなり衝撃的なのだそうです。例えばヨーロッパの大半の国ではポルノというのは"sex shop"などといった名前のポルノ専門店でしか扱っておらず、子供がポルノに接することができないように割と徹底的に管理されているのです。
だから何って、思春期にインターネットなんてなかった僕と同じ世代のヨーロッパ人は、少年時代に日本ほどそう簡単にはエロ本は手に入れられない物だったらしいのです。日本だと、一応表向きにはダメということにはなっていたけど、多少恥ずかしい思いをすれば本屋でエロ本を買うことは中高生でもできたのですけどね。
だいぶ脱線して「最近の若い奴は…」というおじさんの口ぶりの話をしますが。僕と同世代の人って、男子ならほぼ全員が恥ずかしい思いをしながらも中高生くらいの頃にエロ本を買った経験があると思うのです。どんなに勉強できる人でも、どんなにスポーツができる人でも、世代共通の通過儀礼としてみんな経験してることなのですね。地元の本屋だと恥ずかしいから隣町の本屋にエロ本買うためだけに遠征に行ったり、布団の下に隠してたエロ本を母親が布団を干したときに見つかったり(だいたい母親は何も言わない)、処分に困った飽きたエロ本を草むらに捨てたりとか、なんだか書いてて懐かしい気分になるのですが。
そんな恥ずかしい思いをする必要もなく、ネットでなんでも見放題で育ったら、そりゃ「最近の若者は失敗を極度に恐れる」とか言われるようになるのもなんだか納得できる気がするのですよ。でもそういうこと言ってると、当の「最近の若者」には陰で「あのオッサン達、中高生の頃にエロ本買ってたんだぜ、ダッセー。」ってたぶん言われてそうな気がするんですよね。
海外(スペイン)在住時に、在住暦の長い日本人の男性から「引越しのために部屋を掃除してたら、昔日本から持ってきたAVが出てきたんだけど、いる?」と聞かれたことがありました。曰く、彼がスペインに住み始めた当時は今ほどネットは発達していなかったので日本に帰国した際には日本食材や薬等と一緒に日本のAVも持ち帰っていたそうです。そりゃぁ、その当時はさぞかし貴重品だったんだろうと思います。おかげで彼にとっては「捨てるのはなんかもったいないから、欲しい日本人がいるなら譲りたい」となって、わざわざ僕に聞いてきたんだと思います。
スペインにだって勿論ポルノはあるし、そういうお店に行けば大人なんだからいくらでも買えたんでしょうが。やっぱりそこは日本の方がいいんでしょうね。そんなに何度も見たことないですけど、洋モノのポルノって女優さんが目を開けてニコニコ笑ってたりするので、なんだか見ててゲンナリするので僕もちょっと苦手です。なんていうかな、「恥」の概念が欠けているのですよ。やっぱり日本は恥の文化だからでしょうか。
結局は「今はネットでモザイクかかってないのとかもいくらでも見れるけど、僕らの思春期にはインターネットなんてなかったのでモザイクかかってないのを見る機会がほとんど無かった。だから、なんだか今でもモザイクかかってる方が見てて落ち着く。」とか、「局部だけでなく、ニュース映像等では死体にモザイクをかけることが慣例になっているし、逮捕・拘束された容疑者の手にかかってる手錠にもモザイクはかかってる。」とか、そんな話でごまかしておきましたが。まぁでも確かに、日本のポルノ事情ってかなり特殊なんじゃないかと思うので、今回はその話について書こうかと思います。
そもそも歴史を紐解くと、江戸時代の春画なんて局部だけが過剰に強調されて描かれていたりするので。局部を見せてはいけないというルールが昔から日本にあったわけでは無いんだろうと思います。むしろそこだけ強調するために春画の大半は顔と性器以外は服で覆われていたそうです。まぁ、江戸時代は性に関してかなり奔放な時代だった(同性愛とかもごくごく普通だった)らしいですけどね。
そこからどういう変遷で現在のモザイク文化に至ったのかはよく分かりませんが、どうも明治時代くらいにできた法律における「わいせつ物」の解釈として「モロはNG」ということになってるみたいです。とまぁ、そこだけ見ると日本ってポルノに厳しい国のように思えるのですが。外国人に言わせると、日本のポルノ事情はビックリすることもあるそうなのです。
一番外国人が驚くのは、コンビニや書店などの普通のお店でポルノが買えることです。これ、日本人としては割と普通のことなのですが、外国人からするとかなり衝撃的なのだそうです。例えばヨーロッパの大半の国ではポルノというのは"sex shop"などといった名前のポルノ専門店でしか扱っておらず、子供がポルノに接することができないように割と徹底的に管理されているのです。
だから何って、思春期にインターネットなんてなかった僕と同じ世代のヨーロッパ人は、少年時代に日本ほどそう簡単にはエロ本は手に入れられない物だったらしいのです。日本だと、一応表向きにはダメということにはなっていたけど、多少恥ずかしい思いをすれば本屋でエロ本を買うことは中高生でもできたのですけどね。
だいぶ脱線して「最近の若い奴は…」というおじさんの口ぶりの話をしますが。僕と同世代の人って、男子ならほぼ全員が恥ずかしい思いをしながらも中高生くらいの頃にエロ本を買った経験があると思うのです。どんなに勉強できる人でも、どんなにスポーツができる人でも、世代共通の通過儀礼としてみんな経験してることなのですね。地元の本屋だと恥ずかしいから隣町の本屋にエロ本買うためだけに遠征に行ったり、布団の下に隠してたエロ本を母親が布団を干したときに見つかったり(だいたい母親は何も言わない)、処分に困った飽きたエロ本を草むらに捨てたりとか、なんだか書いてて懐かしい気分になるのですが。
そんな恥ずかしい思いをする必要もなく、ネットでなんでも見放題で育ったら、そりゃ「最近の若者は失敗を極度に恐れる」とか言われるようになるのもなんだか納得できる気がするのですよ。でもそういうこと言ってると、当の「最近の若者」には陰で「あのオッサン達、中高生の頃にエロ本買ってたんだぜ、ダッセー。」ってたぶん言われてそうな気がするんですよね。
海外(スペイン)在住時に、在住暦の長い日本人の男性から「引越しのために部屋を掃除してたら、昔日本から持ってきたAVが出てきたんだけど、いる?」と聞かれたことがありました。曰く、彼がスペインに住み始めた当時は今ほどネットは発達していなかったので日本に帰国した際には日本食材や薬等と一緒に日本のAVも持ち帰っていたそうです。そりゃぁ、その当時はさぞかし貴重品だったんだろうと思います。おかげで彼にとっては「捨てるのはなんかもったいないから、欲しい日本人がいるなら譲りたい」となって、わざわざ僕に聞いてきたんだと思います。
スペインにだって勿論ポルノはあるし、そういうお店に行けば大人なんだからいくらでも買えたんでしょうが。やっぱりそこは日本の方がいいんでしょうね。そんなに何度も見たことないですけど、洋モノのポルノって女優さんが目を開けてニコニコ笑ってたりするので、なんだか見ててゲンナリするので僕もちょっと苦手です。なんていうかな、「恥」の概念が欠けているのですよ。やっぱり日本は恥の文化だからでしょうか。
2014年2月22日土曜日
浅田真央や長嶋茂雄と「日本的=天皇的」情緒
年明け以降だいぶ間が空いてしまいましたが、細々と更新していきます。1月末から2月頭にかけて長い海外出張とかアレとかコレがあって、ようやく落ち着いてきたのです。
これを書いている現在、ソチオリンピックは終盤にさしかかっておりまして。ちょうど浅田真央の「ショートプログラムの失敗が響いてメダルには届かなかったけど、フリーでは納得の演技ができて、演技が終わった後感極まって涙ぐんでいた。」という結末に日本中が大騒ぎしたのがひと段落したところです。ご存知の通りこの結果に対する日本人および日本のマスコミの反応は「一緒にもらい泣きしてしまった」「メダルよりも大事な物を見せてもらった。」といった具合でして(あと、なんとなくの雰囲気として「金メダルがキム・ヨナじゃなくてよかった」というのはあります。)。誰も浅田真央を非難する人なんていなくて、ナンシー関が生前指摘していた「オリンピック=感動をありがとう」という、いつもの物語に回収することに国民的合意が成された感はあります。唯一浅田真央に対して「あの子は大事な時には必ず転ぶ」とネガティブなコメントを漏らした森喜朗は見事に炎上して方々から袋叩きに遭いました。
もうずっと前から思ってることなのですが、浅田真央という人に対する日本人の思い入れって常軌を逸して特別だと思うのですよ。彼女に対して否定的な事を言う日本人は誰もいないし、もしも悪口の一つでも言おうものなら森善朗のように大炎上してしまうのって、極めて異質で特別なポジションだと思うのです。安藤美姫が出産騒動のときにあれだけ叩かれたのも、浅田真央という「特別な存在」に対するカウンターという側面もあるんじゃないかと思ったりするのです。
この先どうなるかは分からないですが、少なくとも今現在の浅田真央の「この人の悪口は誰も言えない」という国民的コンセンサスは長嶋茂雄に匹敵するんじゃないかと僕は思うのです。実際のところ、直感的にこの二人から受ける印象はなんだかすごく近いものがあるのです。で、例によって僕が言いたいことは内田樹先生の受け売りなので、ここの真ん中の方にある「日本人の美意識と長嶋茂雄」というところを読んでみてください。もう僕が言いたいことはほとんどここで説明し尽くされています。内田先生のblogでも同様のことについて言及していますね。
かいつまんで言うと、長嶋茂雄という人はある種の「巫女」であり、我々日本人はこういう人達がどうしても大好きだと。長嶋茂雄のように、見てる人に野球というスポーツの楽しさだけがダイレクトに伝わってくるような「巫女」的な人はその中心に何かしらの非常に虚ろなものを抱え込んでいる人達で。この「巫女」性というのはすべてを受け入れる女性原理である「天皇」につながっている…というようなことを内田先生はおっしゃってます。これは、僕が浅田真央という人から受ける印象とほとんど同じなのです。
浅田真央という国民的ヒロインをメディアもあの手この手で持ち上げようとするのですが。もうこの国のメディアはナンシー関が健在だった時代から、アスリートを「努力」「家族や周囲の人との絆」(よく考えてみると「努力、友情、勝利」という週刊少年ジャンプの三大原則とかなりカブってます)などの「イイ話」「感動」の文脈に無理矢理乗せてしか取り上げなくなっているので、当然彼女についてもそういう文脈で煽ろうとするのですね。だから、彼女が更なる飛躍のために日々懸命に努力してきたことや、色々な苦悩や葛藤があることをメディアは事ある毎に刷り込もうとしてくるのですが。
彼女の演技をテレビで見ている僕(や、おそらく多くの国民)にはそんな「イイ話」と彼女がどこかで結びついていないのです。彼女からはフィギュアスケートというスポーツそのもの(美しさとか、華やかさとか、楽しさ)だけが直接的に伝わってきて、彼女自身のパーソナリティがどこかに消えているように感じるのです。この巫女性というのは、繰り返しになりますが長嶋茂雄から日本人が受けた感覚と全く同じなんじゃないかと思うのです。
ちなみに、上記の長嶋茂雄論の中で内田先生も言及していましたが、ロラン・バルトも表徴の帝国という有名な日本文化論の中で「中心に空虚がある」という日本文化の特徴を指摘しています。たしか、ヨーロッパの都市の中心には中心にたどり着いたことを実感できるようなシンボリックな建造物や広場などがあるのに対して、東京の中心には広大な森に囲まれた皇居という「空虚」だけが存在するとか、そんな話だったはずです。これは内田先生の言う「天皇的 = 巫女的 = 中心に何か虚ろな物を抱えている」ということが東京という街の構造そのものにリンクしているということを示しており、たいへん鋭い指摘だと思います。
もしも今、皇室に適齢期の男性がいて、その人が浅田真央と結婚したとしたら。多分誰も全く違和感を感じないし、国民は諸手を挙げて喜ぶんじゃないかと思うのです。
逆に。ヤワラさん(byナンシー関)みたいに浅田真央が選挙に出たりすることはたぶん無いだろうし、もしもそんなことにでもなったら当の本人は誰も非難せずに、「真央ちゃんを担ぎ出して利用しようとしている奴は誰だ!」と怒り出す人が沢山出てくるんじゃないかと思います。これは、「具体的な政治に関わらない」ということこそが「天皇という政治的意味」を担保しているというパラドクスを破ることになるので、この国では重度のご法度とされています。彼女を選挙に担ぎ出すことはほぼ「天皇の政治利用」と同じ扱いを受け、担ぎ出そうとした人たちは少なくとも山本太郎ぐらいのバッシングを受けることは避けられないでしょう。
これを書いている現在、ソチオリンピックは終盤にさしかかっておりまして。ちょうど浅田真央の「ショートプログラムの失敗が響いてメダルには届かなかったけど、フリーでは納得の演技ができて、演技が終わった後感極まって涙ぐんでいた。」という結末に日本中が大騒ぎしたのがひと段落したところです。ご存知の通りこの結果に対する日本人および日本のマスコミの反応は「一緒にもらい泣きしてしまった」「メダルよりも大事な物を見せてもらった。」といった具合でして(あと、なんとなくの雰囲気として「金メダルがキム・ヨナじゃなくてよかった」というのはあります。)。誰も浅田真央を非難する人なんていなくて、ナンシー関が生前指摘していた「オリンピック=感動をありがとう」という、いつもの物語に回収することに国民的合意が成された感はあります。唯一浅田真央に対して「あの子は大事な時には必ず転ぶ」とネガティブなコメントを漏らした森喜朗は見事に炎上して方々から袋叩きに遭いました。
もうずっと前から思ってることなのですが、浅田真央という人に対する日本人の思い入れって常軌を逸して特別だと思うのですよ。彼女に対して否定的な事を言う日本人は誰もいないし、もしも悪口の一つでも言おうものなら森善朗のように大炎上してしまうのって、極めて異質で特別なポジションだと思うのです。安藤美姫が出産騒動のときにあれだけ叩かれたのも、浅田真央という「特別な存在」に対するカウンターという側面もあるんじゃないかと思ったりするのです。
この先どうなるかは分からないですが、少なくとも今現在の浅田真央の「この人の悪口は誰も言えない」という国民的コンセンサスは長嶋茂雄に匹敵するんじゃないかと僕は思うのです。実際のところ、直感的にこの二人から受ける印象はなんだかすごく近いものがあるのです。で、例によって僕が言いたいことは内田樹先生の受け売りなので、ここの真ん中の方にある「日本人の美意識と長嶋茂雄」というところを読んでみてください。もう僕が言いたいことはほとんどここで説明し尽くされています。内田先生のblogでも同様のことについて言及していますね。
かいつまんで言うと、長嶋茂雄という人はある種の「巫女」であり、我々日本人はこういう人達がどうしても大好きだと。長嶋茂雄のように、見てる人に野球というスポーツの楽しさだけがダイレクトに伝わってくるような「巫女」的な人はその中心に何かしらの非常に虚ろなものを抱え込んでいる人達で。この「巫女」性というのはすべてを受け入れる女性原理である「天皇」につながっている…というようなことを内田先生はおっしゃってます。これは、僕が浅田真央という人から受ける印象とほとんど同じなのです。
浅田真央という国民的ヒロインをメディアもあの手この手で持ち上げようとするのですが。もうこの国のメディアはナンシー関が健在だった時代から、アスリートを「努力」「家族や周囲の人との絆」(よく考えてみると「努力、友情、勝利」という週刊少年ジャンプの三大原則とかなりカブってます)などの「イイ話」「感動」の文脈に無理矢理乗せてしか取り上げなくなっているので、当然彼女についてもそういう文脈で煽ろうとするのですね。だから、彼女が更なる飛躍のために日々懸命に努力してきたことや、色々な苦悩や葛藤があることをメディアは事ある毎に刷り込もうとしてくるのですが。
彼女の演技をテレビで見ている僕(や、おそらく多くの国民)にはそんな「イイ話」と彼女がどこかで結びついていないのです。彼女からはフィギュアスケートというスポーツそのもの(美しさとか、華やかさとか、楽しさ)だけが直接的に伝わってきて、彼女自身のパーソナリティがどこかに消えているように感じるのです。この巫女性というのは、繰り返しになりますが長嶋茂雄から日本人が受けた感覚と全く同じなんじゃないかと思うのです。
ちなみに、上記の長嶋茂雄論の中で内田先生も言及していましたが、ロラン・バルトも表徴の帝国という有名な日本文化論の中で「中心に空虚がある」という日本文化の特徴を指摘しています。たしか、ヨーロッパの都市の中心には中心にたどり着いたことを実感できるようなシンボリックな建造物や広場などがあるのに対して、東京の中心には広大な森に囲まれた皇居という「空虚」だけが存在するとか、そんな話だったはずです。これは内田先生の言う「天皇的 = 巫女的 = 中心に何か虚ろな物を抱えている」ということが東京という街の構造そのものにリンクしているということを示しており、たいへん鋭い指摘だと思います。
もしも今、皇室に適齢期の男性がいて、その人が浅田真央と結婚したとしたら。多分誰も全く違和感を感じないし、国民は諸手を挙げて喜ぶんじゃないかと思うのです。
逆に。ヤワラさん(byナンシー関)みたいに浅田真央が選挙に出たりすることはたぶん無いだろうし、もしもそんなことにでもなったら当の本人は誰も非難せずに、「真央ちゃんを担ぎ出して利用しようとしている奴は誰だ!」と怒り出す人が沢山出てくるんじゃないかと思います。これは、「具体的な政治に関わらない」ということこそが「天皇という政治的意味」を担保しているというパラドクスを破ることになるので、この国では重度のご法度とされています。彼女を選挙に担ぎ出すことはほぼ「天皇の政治利用」と同じ扱いを受け、担ぎ出そうとした人たちは少なくとも山本太郎ぐらいのバッシングを受けることは避けられないでしょう。
2014年1月2日木曜日
「英語=グローバル」というのは周回遅れの発想ではないのか?
あけましておめでとうございます。年越し蕎麦を食べながら紅白を見て、おせち料理とお雑煮と初詣の新年を過ごしています。つまり、ものすごく普通のお正月なのですが。花見の時期とお正月は日本に住んでてよかったとつくづく思います(梅雨と真夏は本気でこの国が嫌になりますが)。その昔バルセロナに住んでた頃はバルセロナの昼の2時くらいの時間に紅白やってて、twitterとかでみんな楽しそうに盛り上がってるのがすごくうらやましかったのを覚えてます。で、なんだかさびしいのでネットに転がってたその前年のゆく年くる年の動画を見たりしてました。日本に住んでると毎年当たり前のようにやってくるお正月の風景ですが、一度それが全く無いところに住んでみると、日本のお正月は本当にいいものだとつくづく思ったのでした。
で、新年明けての今年第一回ですが。もうひとしきり話題にするのも飽きちゃった感のある楽天やユニクロなどのグローバル企業様の話をしようと思います。ただし、「企業が英語を公用化することの是非」ということよりは、彼らが英語を公用語化するに至った背景になんとなく伏流している「英語=グローバル」という物の考え方の方が僕には気になるので、そっちの話です。
英語が国際共通語として磐石のステータスを確立したことについては最早異論の余地はありません。例えば国際学会なんて全部英語ですしね。だけど、この先の世の中で英語だけでビジネスが成り立つかというと、それはさすがに無理なんじゃないかな?と思うのです。ご存知の通り、アメリカがだんだん落ち目になってきて以前ほどの勢いが無くなり、代わりにBRICsと呼ばれる国々が勢いを増しています。これらのBRICs国のうち、英語がまともに通用する国はインドくらい(って言ってもすごい訛ってるけど)で、後の国では英語はロクに通用しません。
我が社でも営業系の人のための語学研修は中国語、ロシア語、ポルトガル語、スペイン語などで、英語は「自分でやっといてください」という扱いになっています。市場として意識されているのはBRICsをはじめとする成長途上の国なのでまぁ必然的にそうなっちゃうんでしょうね。
「グローバル企業」を標榜している楽天やユニクロの人々がそんなこと知らないはずなんて無いし、彼らが今後展開していこうとしている先も同様に英語が通じる可能性は極めて低いことくらい彼らだって分かってると思うのですが。どうして彼らは「英語=グローバル」という旧世紀のパラダイムにこだわるんでしょうか?これが僕には不思議なのです。
たとえば、英語を公用語化することよりも中国語なりタイ語なりポルトガル語なりができる人を集めてきた方がいいんじゃないかと思うのですが。こういうこと言うと、英語偏重主義者は「いや、だったら英語が喋れる中国人なりタイ人なりブラジル人を雇って彼らと英語でコミュニケーションすればいいんだ。だから英語だけできればいいんだ。」とか言うんでしょうが。それこそ外資の「グローバル企業」が20世紀に走ってきた後を周回遅れで追いかけるだけになってしまうんじゃないかと思うんだけどな。。
ここからは僕の想像と偏見が多分に含まれるのですが。これって「信仰」の問題なんじゃないかなと思うのですよ。「英語=国際共通語によって世界中の人達を相手にビジネスすることができるようになった自分」という物語への信仰が背景にあって、これは英米人が英語という言語を布教するときに刷り込んだ物なんじゃないかと思うのです。やや脱線しますが、英米人はこうやって自分達の言語を文化や習慣とは切り離して単体で布教したことで、自らの言語を単なる「道具」に貶めてしまったように僕には見えるんですけどね。
さておき、僕の経験からも「英語=グローバル」という物語に拘泥する人や英語がすごく上手な人はたいてい英語以外の外国語ができないか、そもそも英語以外の言語に興味をあまり示さない印象がありまして。これはアメリカ人の大半が英語以外の言語を喋れないし、あまり外国語に関心を示さないこととそのまま繋がっているのではないかと思うのです(アメリカでもっともポピュラーな外国語といえばスペイン語なのですが、アメリカ人のスペイン語もこれまたすんごい無茶苦茶な人が多いのです。)。
これとは逆に、英語以外の言葉が上手な人はたいてい英語が苦手な人が多くて、また、そういう人はたいていアメリカ嫌いが多い印象があります。まぁ、これは僕の知ってる事例の大半が日本人なので若干日本特有のバイアスがかかってる可能性はあると思いますけどね。
これから先の「グローバル化」は、英語と欧米的(こういうまとめ方を便宜上使います)価値観による世界の支配ではなく、多様な民族・文化・言語が混在する世界へと向かうのは間違い無いでしょう。「英語だけでなく、英語以外の言語が何かできないと強みにならない」というのは僕が新入社員として会社に入った10年以上前から世の中的には言われてますし、慶応SFCなんかは第二外国語に力を入れる教育をかなり昔からやってたりします。「英語=グローバル」という旧世紀の物語に篤い信仰を寄せ続ける人達が本当に時代の最先端なんでしょうかね?
「英語公用語化」は、英語はできるけど英語以外の外国語に関心を示さない人達ばっかりを集めてしまうことになったりしないかと思うのですよ。で、ここから先は本当に100%僕の偏見ですが。それは単に口先の語学力の問題だけでなく、平田オリザなどが提唱しているような「異文化コミュニケーション能力」があまり高くない反面、「英語のできる自分は国際感覚が豊富である」という自意識だけ過剰な「アメリカ人の出来損ない」みたいな人ばっかりの会社を作ってしまうんじゃないかと思うのですね。
もしも柳井や三木谷という人達が英語よりも英語以外の外国語能力を重視するような会社を目指すのであれば、それはなかなかの器なんじゃないかと思います。それは単に、ここまでに何度も述べたような時代の趨勢の問題だけでなく。それって、自分ができないことができる部下や、自分と価値観の異なる部下を使いこなせる度量が無いとできないことだろうと思うからです。しかし、そういう度量や資質こそ”グローバル時代”に本当に必要なことなんじゃないかと僕は思うのですが。
-----アップした翌日の追記-----
三木谷は中国語をやってるそうです。まぁ、そりゃさすがにそうなりますよね。でも、英語が半分ネイティブとかいう彼が中国語を習得する労力と、普通の日本人が英語を習得する労力が等価だとは思わないけどな。。
で、新年明けての今年第一回ですが。もうひとしきり話題にするのも飽きちゃった感のある楽天やユニクロなどのグローバル企業様の話をしようと思います。ただし、「企業が英語を公用化することの是非」ということよりは、彼らが英語を公用語化するに至った背景になんとなく伏流している「英語=グローバル」という物の考え方の方が僕には気になるので、そっちの話です。
英語が国際共通語として磐石のステータスを確立したことについては最早異論の余地はありません。例えば国際学会なんて全部英語ですしね。だけど、この先の世の中で英語だけでビジネスが成り立つかというと、それはさすがに無理なんじゃないかな?と思うのです。ご存知の通り、アメリカがだんだん落ち目になってきて以前ほどの勢いが無くなり、代わりにBRICsと呼ばれる国々が勢いを増しています。これらのBRICs国のうち、英語がまともに通用する国はインドくらい(って言ってもすごい訛ってるけど)で、後の国では英語はロクに通用しません。
我が社でも営業系の人のための語学研修は中国語、ロシア語、ポルトガル語、スペイン語などで、英語は「自分でやっといてください」という扱いになっています。市場として意識されているのはBRICsをはじめとする成長途上の国なのでまぁ必然的にそうなっちゃうんでしょうね。
「グローバル企業」を標榜している楽天やユニクロの人々がそんなこと知らないはずなんて無いし、彼らが今後展開していこうとしている先も同様に英語が通じる可能性は極めて低いことくらい彼らだって分かってると思うのですが。どうして彼らは「英語=グローバル」という旧世紀のパラダイムにこだわるんでしょうか?これが僕には不思議なのです。
たとえば、英語を公用語化することよりも中国語なりタイ語なりポルトガル語なりができる人を集めてきた方がいいんじゃないかと思うのですが。こういうこと言うと、英語偏重主義者は「いや、だったら英語が喋れる中国人なりタイ人なりブラジル人を雇って彼らと英語でコミュニケーションすればいいんだ。だから英語だけできればいいんだ。」とか言うんでしょうが。それこそ外資の「グローバル企業」が20世紀に走ってきた後を周回遅れで追いかけるだけになってしまうんじゃないかと思うんだけどな。。
ここからは僕の想像と偏見が多分に含まれるのですが。これって「信仰」の問題なんじゃないかなと思うのですよ。「英語=国際共通語によって世界中の人達を相手にビジネスすることができるようになった自分」という物語への信仰が背景にあって、これは英米人が英語という言語を布教するときに刷り込んだ物なんじゃないかと思うのです。やや脱線しますが、英米人はこうやって自分達の言語を文化や習慣とは切り離して単体で布教したことで、自らの言語を単なる「道具」に貶めてしまったように僕には見えるんですけどね。
さておき、僕の経験からも「英語=グローバル」という物語に拘泥する人や英語がすごく上手な人はたいてい英語以外の外国語ができないか、そもそも英語以外の言語に興味をあまり示さない印象がありまして。これはアメリカ人の大半が英語以外の言語を喋れないし、あまり外国語に関心を示さないこととそのまま繋がっているのではないかと思うのです(アメリカでもっともポピュラーな外国語といえばスペイン語なのですが、アメリカ人のスペイン語もこれまたすんごい無茶苦茶な人が多いのです。)。
これとは逆に、英語以外の言葉が上手な人はたいてい英語が苦手な人が多くて、また、そういう人はたいていアメリカ嫌いが多い印象があります。まぁ、これは僕の知ってる事例の大半が日本人なので若干日本特有のバイアスがかかってる可能性はあると思いますけどね。
これから先の「グローバル化」は、英語と欧米的(こういうまとめ方を便宜上使います)価値観による世界の支配ではなく、多様な民族・文化・言語が混在する世界へと向かうのは間違い無いでしょう。「英語だけでなく、英語以外の言語が何かできないと強みにならない」というのは僕が新入社員として会社に入った10年以上前から世の中的には言われてますし、慶応SFCなんかは第二外国語に力を入れる教育をかなり昔からやってたりします。「英語=グローバル」という旧世紀の物語に篤い信仰を寄せ続ける人達が本当に時代の最先端なんでしょうかね?
「英語公用語化」は、英語はできるけど英語以外の外国語に関心を示さない人達ばっかりを集めてしまうことになったりしないかと思うのですよ。で、ここから先は本当に100%僕の偏見ですが。それは単に口先の語学力の問題だけでなく、平田オリザなどが提唱しているような「異文化コミュニケーション能力」があまり高くない反面、「英語のできる自分は国際感覚が豊富である」という自意識だけ過剰な「アメリカ人の出来損ない」みたいな人ばっかりの会社を作ってしまうんじゃないかと思うのですね。
もしも柳井や三木谷という人達が英語よりも英語以外の外国語能力を重視するような会社を目指すのであれば、それはなかなかの器なんじゃないかと思います。それは単に、ここまでに何度も述べたような時代の趨勢の問題だけでなく。それって、自分ができないことができる部下や、自分と価値観の異なる部下を使いこなせる度量が無いとできないことだろうと思うからです。しかし、そういう度量や資質こそ”グローバル時代”に本当に必要なことなんじゃないかと僕は思うのですが。
-----アップした翌日の追記-----
三木谷は中国語をやってるそうです。まぁ、そりゃさすがにそうなりますよね。でも、英語が半分ネイティブとかいう彼が中国語を習得する労力と、普通の日本人が英語を習得する労力が等価だとは思わないけどな。。
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