平田オリザの本はわかりあえないことからとニッポンには対話がないというたった二冊しか読んだことないのですが。この二冊に通底しているテーマは、日本人はコミュニケーションを「分かり合うこと」と位置づけてしまうけど、異文化間コミュニケーションは「分かり合えない同士が妥協点を探っていくような作業」である、ということなんじゃないかと思います。そのことをしみじみと実感するようなことに日本に帰ってきてから頻繁に直面します。
といっても僕が日本人に対して引き合いに出せるのはせいぜいスペイン人くらいなのですが。彼らのコミュニケーションは「人が分かり合えることには限界がある」という諦めが根底にあるように思います。それが暗黙の大前提として存在している上で、お互いに意見を言いあって妥協点を探るなり結論を出すなり、そういう作業をすることをコミュニケーションと考えているように思います。
みんな意見が違うのは当たり前なので、反対意見を言うときに特に気を使ったりすることはありません。また、最後にみんな同じ見解に達するなんて事は最初から期待していないのである程度話したら割とさっくり結論を出します。そして、彼らはこういう一連の作業を当たり前のことのように笑顔でやります。
日本人の会議が長い理由の一つに「分かり合えることには限界がある」ということを認めようとしない、別の言い方をすると「たくさん時間をかけて話し合えばわかってもらえるはずだ」という物の考え方が根底にあるように思うのです。そしてさらに言うと、彼らは「分かり合わなければ前に進めない」と思ってるようにも見えるのですが。結論に対して納得してなくてもとりあえず決定には従うということは実は全然可能な事なんですけどね。
とりわけ厄介なのは、「正義」を背にして「正論」を展開する「正義の人」タイプの日本人で。こういう人って、口で言ってることは当然ロジックとしては筋が通っているのですが。「筋が通っている=正義」だから自分の主張は歓迎とともに受け入れられるべきだと信じて疑っていない気配を感じるのでホント困ります。こういう人の言ってることは「正しい・正しくない」で言えば確かに「正しい」のです。しかし、「正しい」ことはたくさんあって、彼らの言ってることは「たかが正しいことのうちの一つ」でしかなかったりするのですが。「粘り強く説得して最後はわかってもらう」「最後まであきらめない」なんていう日本人の好きそうなストーリーを信じて自分の正義を振り回した結果、「自説に都合のいい要素を次から次へとエンドレスに並べ立ててとにかく譲る気が無い人」っていますよね。ねぇ安西先生?
「納得していないけど結論に従う」というのは民主主義で国を成立させるために重要な資質だと僕は思うのです。アメリカでもフランスでも、大統領選挙のときは投票する候補をめぐって国が割れます。当然です。割れなきゃ選挙する意味が無いですから。しかし、一度大統領が決まれば、散々ネガティブキャンペーンを行った反対派もある程度は大統領に対して敬意を表しているように思えます。日本にはこういう習慣は、少なくとも今のところ無いと思います。どっちかと言うと、政敵は「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」になりがちなんじゃないかなと思います。別の言い方をすると、日本にはケンカのしかたにルールが無いように思うのです。
2013年6月9日日曜日
2013年6月8日土曜日
イタリア(とフランス)だけカッコいいっていうのはいつまで続くんだろ?
私、このたび会社のイベントの実行委員というメンドクサイ仕事をおおせつかりまして。先日初回の会議があったのですが、「まずはイベントのテーマを決めましょう」という話になりました。で、過去の我が社のその手のイベントのテーマというのを見てると、半分くらいが英語なのです。それも、「make ***」(長嶋茂雄の「メークドラマ」みたいなの)とかそんなやつ。ほぼ日本人しか関係しないイベントのテーマをわざわざ英語にしたい積極的な理由がどこにあるのかよく分かりませんが。誰か「メークドラマ」みたいなことを提案した人がいて、さらにそれを支持した人がいたのでしょうね。
国民の大半がほとんど英語喋れないのに横文字・カタカナが大好きというのはつくづく我が国(だけでもないんだろうけど)の不思議な国民性だと思います。たとえば鈴木楽器の大正琴みたいに「弁慶」とか日本語で商品名がついてるのはほとんど稀で、たいていの商品ってカタカナかアルファベットで名前ついてますよね。
さらに「メークドラマ」とか、あと松坂大輔の「リベンジ」(「リターンマッチ」という文脈ですっかり日本語になってしまった)みたいに本来の英語を逸脱して「奇形化」させたオリジナルの英語を生み出してすっかり定着させているあたりは、器用なのか不器用なのかもう判断不能です。松坂はこれを書いている現在マイナーにいるみたいですが、メジャーに復帰したときにはとりあえず「リベンジを果たしました」とコメントして、自身の発明したジャパニーズ英語を逆輸入して欲しいと思います。
そして日本に帰ってきてから思うのが、イタリア(とフランス)ばっかりカッコいいことにされすぎなのはなんかおかしくないか?ということです。例えばマンションの名前に「カサ・デ・フェリーチェ」とか、美容院の名前がフランス語とか、あとオシャレなカフェもだいたいイタリア語かフランス語ですよね。
「英語じゃなんか普通だからもうちょっとオシャレな何か別の外国語」となったときにはだいたいこのどっちかが使われる傾向があるのですが、みんなそろそろこれに飽きないのかな?と思うのですよ。僕は当然スペイン語を押したいのですが、ドイツ語でもベトナム語でもなんでもいいからそろそろ流れを変えてほしいと思うのです。
それにしても、イタリア料理店はどう見ても日本に多すぎるように思うのです。パスタとかピザが日本人の口に合うのはわかるし、僕も好きなんですが。一軒でいいからスペイン(のパスタは本当にマズい。日本の缶詰のミートソースの方がはるかにマシ。)に移転するか、スペインバルに変えるかどっちかしてほしいと思います。
国民の大半がほとんど英語喋れないのに横文字・カタカナが大好きというのはつくづく我が国(だけでもないんだろうけど)の不思議な国民性だと思います。たとえば鈴木楽器の大正琴みたいに「弁慶」とか日本語で商品名がついてるのはほとんど稀で、たいていの商品ってカタカナかアルファベットで名前ついてますよね。
さらに「メークドラマ」とか、あと松坂大輔の「リベンジ」(「リターンマッチ」という文脈ですっかり日本語になってしまった)みたいに本来の英語を逸脱して「奇形化」させたオリジナルの英語を生み出してすっかり定着させているあたりは、器用なのか不器用なのかもう判断不能です。松坂はこれを書いている現在マイナーにいるみたいですが、メジャーに復帰したときにはとりあえず「リベンジを果たしました」とコメントして、自身の発明したジャパニーズ英語を逆輸入して欲しいと思います。
「英語じゃなんか普通だからもうちょっとオシャレな何か別の外国語」となったときにはだいたいこのどっちかが使われる傾向があるのですが、みんなそろそろこれに飽きないのかな?と思うのですよ。僕は当然スペイン語を押したいのですが、ドイツ語でもベトナム語でもなんでもいいからそろそろ流れを変えてほしいと思うのです。
それにしても、イタリア料理店はどう見ても日本に多すぎるように思うのです。パスタとかピザが日本人の口に合うのはわかるし、僕も好きなんですが。一軒でいいからスペイン(のパスタは本当にマズい。日本の缶詰のミートソースの方がはるかにマシ。)に移転するか、スペインバルに変えるかどっちかしてほしいと思います。
2013年6月4日火曜日
ビジネスとかイノベーションとか、カタカナばっかり振り回す彼らは『モテるためのマニュアル本』信者と一緒に見える
僕が働いているのは会社の研究開発セクションというところでして。茶畑に囲まれた職場で世の中の最先端を造り出せというのが我々のミッションなのです。この立地に加えて、そもそもが田舎の製造業という業態の我が社で”世の中の最先端”なんていうことを標榜している部署には、カウンターとして必ず一定の割合で「オレ、世の中のハヤりはちゃんと押さえてるから」「オレ、何でもわかってるから」とでも言わんばかりの、「言ってることだけ不自然に若作りな田舎のおじさん」みたいな人達がいるのです。
こういう彼らの特徴の一つに、ビジネスとかイノベーションとかアーリーアダプターとかコアコンピタンスとか、とにかく「やたらカタカナを使う」というのがあります。そして、彼らはだいたいソフトバンクがどうとかジョブズがどうとか、何かしら彼らが思う成功例を引き合いに出しながら、「うちの会社もあんな風になろうよ」みたいなことを言うわけです。さらにもうちょっと彼らの話を聞いてみると、どうやら彼らがこうなった背景には、彼らが感銘を受けたという(前回の言い方をすると「器用に血肉化した」)ビジネス書があるみたいなのです。
あんまりちゃんと読んだこと無いので、かなり思い込みも入ってますが。ビジネス書って例えばスティーブ・ジョブズがどうとか、松下幸之助がどうとか、googleがどうとか、勝ち組の成功例だけを羅列して後付でもっともらしい説明をつけて本が出来てるような印象があります。だけどそういう本に出てくるのって、人望だったり発想だったり、なにより”運”も含めて何かしらが人並み外れた人達であって。普通の人が真似できるような要素っていうのはほとんど無いんじゃないかと思います。そもそも、その本に登場する彼らはそんな本なんて読まなくてもその成功を成しえたという事実こそが、その手のビジネス書の無意味さを物語っているように思えるのです。
この関係は何から何まで「モテるためのマニュアル本」と相似形だと思うのです。モテるためのマニュアル本を読んでる人は、マニュアル本を手にしている時点で「モテる」ための重要な資質を明らかに欠いているというのは誰でもわかることです。もっと簡単な別の言い方をしましょう。週刊プレイボーイを毎号買ってる人にはたぶんプレイボーイはいません。それと同じです。
しかしながら、マニュアル本(これまたちゃんと読んだこと無いけど)はそんな本当のことを言っては商売にならないので、「君にもできる」「こうすれば君もモテる」とささやきかけてその気にさせるようにできてるんだろうと思います。実際にはその本を手にした瞬間に、読者に対して「モテる才能が無い」という烙印を押してるとしか思えないんですけどね。
「モテるためのマニュアル本」の話は結構誰にもでも納得してもらえると思うのですが。ところがこれが"ビジネス"の話になると、途端に理性的な判断を失う人がなぜか増えてしまうように僕には見えるのです。やっぱり「君にもできる」というメッセージにすがりたくなるからなんですかね?そして、ここから後は前回の「スタンダードを血肉化した挙句に信仰するに至ってしまう彼ら」と全く同じ話になります。凡庸な人ほどビジネス本の信者に陥りやすい上に、本から学んだであろうことを杓子定規に振り回してしまった結果、才能のある人のいいところまで潰していきます。かくして、ビジネス書が喧伝している何かデカい成功をつかむ可能性をどんどん潰していくわけです。
人にはそれぞれ天分っていうものがあって、それぞれが身の丈にあった役割を果たして社会が回ってればいいと思うんですけどね。世の中にインパクトを与えるようなことが出来る人っていうのは実際には世の中のほんの一握りだけです。むしろそんなに沢山いても困ります。いいじゃん、普通の人で。
こういう彼らの特徴の一つに、ビジネスとかイノベーションとかアーリーアダプターとかコアコンピタンスとか、とにかく「やたらカタカナを使う」というのがあります。そして、彼らはだいたいソフトバンクがどうとかジョブズがどうとか、何かしら彼らが思う成功例を引き合いに出しながら、「うちの会社もあんな風になろうよ」みたいなことを言うわけです。さらにもうちょっと彼らの話を聞いてみると、どうやら彼らがこうなった背景には、彼らが感銘を受けたという(前回の言い方をすると「器用に血肉化した」)ビジネス書があるみたいなのです。
あんまりちゃんと読んだこと無いので、かなり思い込みも入ってますが。ビジネス書って例えばスティーブ・ジョブズがどうとか、松下幸之助がどうとか、googleがどうとか、勝ち組の成功例だけを羅列して後付でもっともらしい説明をつけて本が出来てるような印象があります。だけどそういう本に出てくるのって、人望だったり発想だったり、なにより”運”も含めて何かしらが人並み外れた人達であって。普通の人が真似できるような要素っていうのはほとんど無いんじゃないかと思います。そもそも、その本に登場する彼らはそんな本なんて読まなくてもその成功を成しえたという事実こそが、その手のビジネス書の無意味さを物語っているように思えるのです。
この関係は何から何まで「モテるためのマニュアル本」と相似形だと思うのです。モテるためのマニュアル本を読んでる人は、マニュアル本を手にしている時点で「モテる」ための重要な資質を明らかに欠いているというのは誰でもわかることです。もっと簡単な別の言い方をしましょう。週刊プレイボーイを毎号買ってる人にはたぶんプレイボーイはいません。それと同じです。
しかしながら、マニュアル本(これまたちゃんと読んだこと無いけど)はそんな本当のことを言っては商売にならないので、「君にもできる」「こうすれば君もモテる」とささやきかけてその気にさせるようにできてるんだろうと思います。実際にはその本を手にした瞬間に、読者に対して「モテる才能が無い」という烙印を押してるとしか思えないんですけどね。
「モテるためのマニュアル本」の話は結構誰にもでも納得してもらえると思うのですが。ところがこれが"ビジネス"の話になると、途端に理性的な判断を失う人がなぜか増えてしまうように僕には見えるのです。やっぱり「君にもできる」というメッセージにすがりたくなるからなんですかね?そして、ここから後は前回の「スタンダードを血肉化した挙句に信仰するに至ってしまう彼ら」と全く同じ話になります。凡庸な人ほどビジネス本の信者に陥りやすい上に、本から学んだであろうことを杓子定規に振り回してしまった結果、才能のある人のいいところまで潰していきます。かくして、ビジネス書が喧伝している何かデカい成功をつかむ可能性をどんどん潰していくわけです。
人にはそれぞれ天分っていうものがあって、それぞれが身の丈にあった役割を果たして社会が回ってればいいと思うんですけどね。世の中にインパクトを与えるようなことが出来る人っていうのは実際には世の中のほんの一握りだけです。むしろそんなに沢山いても困ります。いいじゃん、普通の人で。
2013年6月3日月曜日
"スタンダード"を信仰できる彼らは器用なのか不器用なのかよく分からない
サラリーマンに向いてる人ってどういう人か?というと、そりゃまぁ人って色々なんで一概に決め付けることなんて無理なんですが。「"スタンダード"を血肉化できる器用さ」がある人って、サラリーマンに向いてるんじゃないかとよく思うのです。一番最初にこういう才能に自分が恵まれていないと感じたのは就職活動のときでした。同時期に就職活動に入った高校の同級生に会って就職活動の話をしていたときに彼が放った「それは自己分析がちゃんとできてないことが問題なんじゃないの?」という一言に、僕は衝撃を受けたのでした。
この同級生は、「就職活動のためには、まず"自己分析"が不可欠である」「自己分析によって自分がやりたいことが見える」という"スタンダード"をあたかも自分がずっと昔からそう考えていたかのように血肉化して当たり前のように僕に言ってのけたわけです。僕自身は就職活動が喧伝する「自分探しのゴールとしての就職」みたいなストーリーにはちっとも納得してなかったですが。かといって修士も卒業することだし、彼らが「自己分析」とかいう言葉で言いたそうなことはなんとなくは分からんでもないから、とりあえず合わせておこうかくらいに考えていたのですが。僕の同級生は僕とは違って後天的に押し付けられた”スタンダード”を器用に血肉化して見せたわけです。
改めて言いますが、こういう人はサラリーマンに向いてると思います。良い・悪いとかいう問題じゃなくて向き・不向きの問題として向いていると思います。だって日本の会社ってそういう人の方が幸せに生きていけるようにできてますから。僕は元々そういうことろがあんまり器用じゃない上に、スペインに行ったことでそれにさらに拍車がかかってしまった感があります。
こういう、ある日空から降ってきたスタンダードを当たり前のように血肉化して振り回せる人達への違和感は就職してからも続きました。ほら、5W1Hだとか、PDCAサイクルだとか、プロジェクトマネジメントとか。。たとえばPDCAって、そういう仕組みにすると「うまくいくことが多い」という先人の知恵ではあるんですけど、その通りにしさえすればいいとか、その通りじゃないとダメとかっていうわけではないと思うのですよ。
何度も言いますが、便宜上発明された"スタンダード"という道具を血肉化する器用さをもっていること自体は良いことでも悪いことでもないと思うのですが。あんまり行き過ぎると、「"スタンダード"に即していないものは悪」「"スタンダード"に則ってれば正しい」という安易な信仰にたどり着いてしまう人がいて、そういう人と話すときって本当に困るんです。ある日空から降ってきたものを血肉化できる器用さはあるのに、どうして彼らの信仰する"スタンダード"を信仰する気の無い僕との隔たりを理解して埋める器用さは無いんだろうと思ったりするのです。
そして、こういった"スタンダード"は人の才能とか資質を度外視して設計されている、別の言い方をすると「誰でも実行可能」「誰でもつかいこなせるよう」に出来ているということに彼らはあんまり気づかないようなのです。そういう物を杓子定規に振り回していると、"スタンダード"になじまない特異な才能を持った人のいい所を潰すことになってしまうが往々にしてあると思うのですが、彼らはそういう可能性について考えないんだろうと思います。逆に言うと、特異な才能を持たない普通の人だからこそ、彼らは"スタンダード"を信仰できるんじゃないかとも思います。
といったところで次回予告。次回は「ビジネスとかイノベーションとか、カタカナばっかり振り回す奴は『モテるためのマニュアル本』信者と一緒に見える」という話を書こうと思います。
この同級生は、「就職活動のためには、まず"自己分析"が不可欠である」「自己分析によって自分がやりたいことが見える」という"スタンダード"をあたかも自分がずっと昔からそう考えていたかのように血肉化して当たり前のように僕に言ってのけたわけです。僕自身は就職活動が喧伝する「自分探しのゴールとしての就職」みたいなストーリーにはちっとも納得してなかったですが。かといって修士も卒業することだし、彼らが「自己分析」とかいう言葉で言いたそうなことはなんとなくは分からんでもないから、とりあえず合わせておこうかくらいに考えていたのですが。僕の同級生は僕とは違って後天的に押し付けられた”スタンダード”を器用に血肉化して見せたわけです。
改めて言いますが、こういう人はサラリーマンに向いてると思います。良い・悪いとかいう問題じゃなくて向き・不向きの問題として向いていると思います。だって日本の会社ってそういう人の方が幸せに生きていけるようにできてますから。僕は元々そういうことろがあんまり器用じゃない上に、スペインに行ったことでそれにさらに拍車がかかってしまった感があります。
こういう、ある日空から降ってきたスタンダードを当たり前のように血肉化して振り回せる人達への違和感は就職してからも続きました。ほら、5W1Hだとか、PDCAサイクルだとか、プロジェクトマネジメントとか。。たとえばPDCAって、そういう仕組みにすると「うまくいくことが多い」という先人の知恵ではあるんですけど、その通りにしさえすればいいとか、その通りじゃないとダメとかっていうわけではないと思うのですよ。
何度も言いますが、便宜上発明された"スタンダード"という道具を血肉化する器用さをもっていること自体は良いことでも悪いことでもないと思うのですが。あんまり行き過ぎると、「"スタンダード"に即していないものは悪」「"スタンダード"に則ってれば正しい」という安易な信仰にたどり着いてしまう人がいて、そういう人と話すときって本当に困るんです。ある日空から降ってきたものを血肉化できる器用さはあるのに、どうして彼らの信仰する"スタンダード"を信仰する気の無い僕との隔たりを理解して埋める器用さは無いんだろうと思ったりするのです。
そして、こういった"スタンダード"は人の才能とか資質を度外視して設計されている、別の言い方をすると「誰でも実行可能」「誰でもつかいこなせるよう」に出来ているということに彼らはあんまり気づかないようなのです。そういう物を杓子定規に振り回していると、"スタンダード"になじまない特異な才能を持った人のいい所を潰すことになってしまうが往々にしてあると思うのですが、彼らはそういう可能性について考えないんだろうと思います。逆に言うと、特異な才能を持たない普通の人だからこそ、彼らは"スタンダード"を信仰できるんじゃないかとも思います。
といったところで次回予告。次回は「ビジネスとかイノベーションとか、カタカナばっかり振り回す奴は『モテるためのマニュアル本』信者と一緒に見える」という話を書こうと思います。
2013年6月2日日曜日
日本はあらゆるシステムが複雑すぎる
(今回も敬体で…たぶんこのままなし崩しに敬体で通すと思います。)
9ヶ月前。日本に帰るにあたって、帰国直後の数日宿泊するためのホテルを予約する必要がありました。で、相当久しぶりに楽天トラベルを使って宿を探そうとしたら、欧州でホテルを探すときには考えられないくらい複雑なプランが一杯ありすぎてびっくりしました。同じホテルに宿泊するにも「Quoカード付」、「グルメチケット付」、「岩盤浴割引券付」などプランが一杯あるわけです。僕としてはそんなのどうでもいいから、昼前にホテルに着くのでチェックインの時刻が何時か知りたかったのですが、そういう基本的な情報を得るためにすごい苦労を要しました。このときは結果として、「12時からチェックイン可能!ラブカップルプラン」というプランを予約したのでした。なんか違うんだけどなと思いつつも、着いてすぐに布団で眠れるようにするにはそれぐらいしか選択肢がなかったのです。
そして。日本に到着したら、日本での生活インフラを1から整備する必要に迫られまして。まずは携帯を手に入れるところから始めようと某家電量販店に行ったら、今度は携帯のシステムがあまりに複雑すぎてびっくりしました。本体価格はいくらで、ナントカ割に入るとそれがいくらになって、でもそのかわり解約できる時期が限られてしまって、結果として本体価格の一部は月々の通話料と一緒に何円ずつ支払って…もう複雑すぎてさっぱり意味が分かりませんでした。
(また、このときの家電店の店員の一方的に畳み掛けるような説明もひどかったのですが、これについて書いてたら長くなった上に本題とはやや違うので全部カットしました。)
日本の電車やバスのシステムも欧州に比べたらすごく複雑です。僕の知る限りヨーロッパのたいていの国では市内交通は一回一律何ユーロと決まっていて、制限時間内ならどれだけ乗っても良いシステムになっています。乗車距離の違いを料金に反映させる仕組みは、大まかな”ゾーン”で料金が変わるようになっている程度で、日本みたいに数駅毎に細かくバスや電車の運賃が変わるような複雑なシステムは見たことがないです。
ホテルも携帯も電車も、日本のあらゆるシステムが複雑すぎることを示す解り易い例だと思います。どれも、各論ではそれぞれなりの理由があるんでしょう。ホテルや携帯は他社との競争だったり、電車やバスは乗車区間に応じて運賃を変えないと不公平だとか。でも、こういった個別の事情を汲んだ上で「全体をデザインする人」が日本にはいなくて、どんどん社会全体が複雑になっていってるように思います。結果として日本という国全体が、豊富な機能を持っているけどボタンがびっしり並んでて複雑すぎて「今これをやりたい」を実現するにはどうやっていいのか分からない残念な機械みたいに僕には思えるのです。
もっと言うと、「社会をシンプルに保ちたい」とそもそも日本人はあんまり思って無いんじゃないかなと思います。日本人だってこんなシステムの複雑さが本気で嫌だったらさすがになんとかしろと怒り出すだろうと思うのですが。こういう話を日本人にすると、僕の話に一定の理解を示してはくれるものの、それが重大な問題だとはあんまり思ってなさそうなのです。むしろ日本人って、こういう複雑なシステムに対して「知識」や「裏技」を披露しあったり、「コンシェルジュ」とかいってこの複雑さから最適な選択肢をレコメンドするサービスを作り出したりして、どこか楽しんで付き合ってるようにさえ思えるのです。スペインだったらたぶん日本みたいな複雑なシステムにはならないでしょう。お客さんの目に触れる以前に、サービスを提供する側がそんなに複雑なシステムを作ろうと思わないんじゃないかと思います。これはスペインに限らず、たぶん欧州全体そうだと思うんですが。彼らは社会をシンプルに保つべきだという意識があるように思えるのです。
9ヶ月前。日本に帰るにあたって、帰国直後の数日宿泊するためのホテルを予約する必要がありました。で、相当久しぶりに楽天トラベルを使って宿を探そうとしたら、欧州でホテルを探すときには考えられないくらい複雑なプランが一杯ありすぎてびっくりしました。同じホテルに宿泊するにも「Quoカード付」、「グルメチケット付」、「岩盤浴割引券付」などプランが一杯あるわけです。僕としてはそんなのどうでもいいから、昼前にホテルに着くのでチェックインの時刻が何時か知りたかったのですが、そういう基本的な情報を得るためにすごい苦労を要しました。このときは結果として、「12時からチェックイン可能!ラブカップルプラン」というプランを予約したのでした。なんか違うんだけどなと思いつつも、着いてすぐに布団で眠れるようにするにはそれぐらいしか選択肢がなかったのです。
そして。日本に到着したら、日本での生活インフラを1から整備する必要に迫られまして。まずは携帯を手に入れるところから始めようと某家電量販店に行ったら、今度は携帯のシステムがあまりに複雑すぎてびっくりしました。本体価格はいくらで、ナントカ割に入るとそれがいくらになって、でもそのかわり解約できる時期が限られてしまって、結果として本体価格の一部は月々の通話料と一緒に何円ずつ支払って…もう複雑すぎてさっぱり意味が分かりませんでした。
(また、このときの家電店の店員の一方的に畳み掛けるような説明もひどかったのですが、これについて書いてたら長くなった上に本題とはやや違うので全部カットしました。)
日本の電車やバスのシステムも欧州に比べたらすごく複雑です。僕の知る限りヨーロッパのたいていの国では市内交通は一回一律何ユーロと決まっていて、制限時間内ならどれだけ乗っても良いシステムになっています。乗車距離の違いを料金に反映させる仕組みは、大まかな”ゾーン”で料金が変わるようになっている程度で、日本みたいに数駅毎に細かくバスや電車の運賃が変わるような複雑なシステムは見たことがないです。
ホテルも携帯も電車も、日本のあらゆるシステムが複雑すぎることを示す解り易い例だと思います。どれも、各論ではそれぞれなりの理由があるんでしょう。ホテルや携帯は他社との競争だったり、電車やバスは乗車区間に応じて運賃を変えないと不公平だとか。でも、こういった個別の事情を汲んだ上で「全体をデザインする人」が日本にはいなくて、どんどん社会全体が複雑になっていってるように思います。結果として日本という国全体が、豊富な機能を持っているけどボタンがびっしり並んでて複雑すぎて「今これをやりたい」を実現するにはどうやっていいのか分からない残念な機械みたいに僕には思えるのです。
もっと言うと、「社会をシンプルに保ちたい」とそもそも日本人はあんまり思って無いんじゃないかなと思います。日本人だってこんなシステムの複雑さが本気で嫌だったらさすがになんとかしろと怒り出すだろうと思うのですが。こういう話を日本人にすると、僕の話に一定の理解を示してはくれるものの、それが重大な問題だとはあんまり思ってなさそうなのです。むしろ日本人って、こういう複雑なシステムに対して「知識」や「裏技」を披露しあったり、「コンシェルジュ」とかいってこの複雑さから最適な選択肢をレコメンドするサービスを作り出したりして、どこか楽しんで付き合ってるようにさえ思えるのです。スペインだったらたぶん日本みたいな複雑なシステムにはならないでしょう。お客さんの目に触れる以前に、サービスを提供する側がそんなに複雑なシステムを作ろうと思わないんじゃないかと思います。これはスペインに限らず、たぶん欧州全体そうだと思うんですが。彼らは社会をシンプルに保つべきだという意識があるように思えるのです。
2013年6月1日土曜日
遅刻に厳しいけいど終わる時間には寛容な日本人 (2011年8月、在西当時の日記より)
以下は2011年8月、在西当時の日記。
twitterの言葉botで「「あら、日本人は終わる時間には寛容なのに、始める時間には厳しいのね」という言葉を見て、ちょこっと考えました。
https:/
http://
まぁたしかにその通りなのです。特にラテン国家は時間が守れないというか、あんまり時間にきっちりしてない人が多いので、日本人としては本当にイライラすることはよくあります。例えばスペインで誰かの家でパーティーを8時からやるといわれて、もし本当に8時に行ったらたぶん誰もいないはずです。パーティーのホストもたぶんちょっと迷惑そうな顔をするだろうと思います。だいたい集合時間の1-2時間後くらいにのそのそ人が集まってくるのが普通だそうな。だけどこれがレストランの予約だったら、さすがに1時間も遅れるとマズいとは彼らも思うらしいのです。どうもこのへんの力加減は一年近く経ってもよくわかりません。
しかし上記の言葉は、日本と欧米(という言い方を便宜上採用するけど、とりあえず僕の知る限りではスペイン)との間で「公」と「私」のバランスが完璧に逆転しているということを端的に示しているように思えるのです。日本の社会ではなんだかんだ言っても「公」が「私」よりも優先です。色々な「私」を犠牲にしてでも、「公」のために決められた時間に集合場所までたどり着くことがまず求められます。
そして決められた時間に集まった後は、もちろんさっさと終わった方がうれしいのは誰だってそうなんですが。日本は「公」が優先なので、時間以内に物事が終わらなかったらお互いの「私」を犠牲にして時間を延長してでも目標を達成しようとします。さらに言うと、そうやって互いに「私」を犠牲にしあうことでむしろ何かしらの連帯感みたいなのが生まれたり、で、その連帯感を深めるために「私」をさらに削って飲みに行っっちゃったりするわけですよね。。たぶんこの「飲みニケーション」の辺りからスペイン人には理解不可能な世界なんだろうと思います。まぁ、僕の考えてる「日本」も田舎にある自分の会社をイメージしてるところがあるので、東京辺りではもう随分違ってるんじゃないかとは思いますが。
スペイン人って、「できたところまででお互いに許しあう」とか、「とりあえず決められた時間になったらそこで強制終了」みたいな文化が割と徹底してるように思うのです。その昔、初めてバルセロナに出張してきたときに。出張で話し合うべき議題があまりまとまらないまま最終日(金曜日)を迎えたので、「明日(土曜日)のフライトは昼からだから、明日の午前中も話をしようか?」と提案したら、出張先の会社の社長に「えー、ダメに決まってんじゃん。俺は明日車借りて**にドライブに行くことになってるから。」と言われたときにはびっくりしましたが。彼らの世界では「私」が「公」より優先なのです。だから明日遊びに行く予定がすでにあることは、提案を覆す正当な理由なのです。日本人だったらさすがにそこでわざわざ本当のことは言わないでしょう。「明日は私事でどうしても外せない用事がありますので。。」くらいの説明にとどめるでしょうね。
例によって、どっちも一長一短あると思うので、どっちがいいかは何とも言えませんが。働く側としては確かに何時までに来なければいけないとか、そういう細かいルールが無い分だけスペインの方が働きやすいと思うときはあります。が、その分だけ自己管理が求められます。先日風邪気味なので仕事を休んだときには、有給が消化されたわけでもなく、上司に報告するわけでもなく、何も減らないまま自分が休んでいることに逆に不安を感じました。どうせだったら、日本にいたときみたいに消化しきれない有給が一日減るくらいの方が、休む上でむしろ精神衛生上いいんじゃないかとさえ思いました。やっぱり僕は日本人なんだなぁと思いました。文句言いつつも、ほどほどに管理されてた方がなんだか安心するのです。
ラテン系は本当にいい加減か?
(今回は文末を全て敬体で書きます。なんでかわからないけど、今日は敬体にしないと書きづらいのです。このブログはここまで全部常体で書いてきたんですけどね。)
一般的に「ラテン系はいい加減」と言われてまして。まぁ、これは実際にその通りだとは思います。特に日本人から見たらそりゃいい加減に見えると思います。だけど彼らだってお互いのいい加減さが許せないんだったら、もうちょっとお互いにキッチリしあう社会を作るでしょう。彼らがいい加減な国民性でいられるのは、他人を許す能力が高いからなんじゃないかと思うのです。具体的に例を挙げると、「ラテン国家の国民はいい加減だ、待ち合わせの時間に平気で二時間も遅れてきたりする。」というのは見方を変えれば「ラテン国家の国民は寛容だ、待ち合わせに二時間遅れても許してあげられる。」と言えるのではないかという事です。
「他人を許す能力」というのをもう一段踏み込んで考えると、「他人を愛する能力」であり、それはやっぱりカトリックという宗教と深く結びついているんだろうと思います。同じキリスト教でもプロテスタントの国はもう少しキッチリしてる印象がありますから。
「お互いに許し合う社会」では、自分がいい加減でも許されることがある反面、他人のいい加減さによって自分が不利益を被ることを許容することが求められます。最初は僕もスペイン人のいい加減さにイライラすることが多かったのですが、慣れてしまえばラテン式の方が生き易いと思いましたし、今も僕はそう思ってます。
スペインでの生活を終えて日本に帰ってくる頃には、「お互いに許し合う社会」の対極にある、日本の「他人を許さない社会」が怖かったし、今も正直なところ苦手です。「他人を許さない社会」である日本は、「他人」同士の関係が著しく非対称で、その事が社会全体をお互いに不機嫌にしあってるように僕には見えます。例えば会社の仕事では上司が部下に対して「完璧な仕事」を要求し、何か手落ちがあると当然の権利のように叱責するというのは珍しくありません。お店では”お客様”の立場が店員よりも絶対的に優位であり、少しでも店員の対応に落ち度があった場合は”お客様”は正当な権利としてクレームをつけてくることが普通にあります。結果として店員の態度は表面的には無駄にうやうやしい一方で、マニュアルに沿った機械的な態度になります。
こういう非対称な関係が連鎖すると…例えば、上司に叱責された部下が飲み屋で店員の対応にクレームをつけて…ということは社会をお互いにどんどん不機嫌にしあっていきます。そんな「風が吹けば桶屋が儲かる」式の連鎖は現実にはそう起こらないでしょうが、それが起こらないということは、上司やお客様の無理難題に振り回されるストレスに常にさらされることになってしまい、やっぱり社会全体が不機嫌になっていくんじゃないかなと思います。そりゃうつ病や自殺が増えるのも無理ないでしょう。
先日、スペイン時代の元同僚が書いてよこしてきたレポートを読む必要に迫られたのですが。一応締め切りまでに送ってきたものの、まぁこれが明らかに書きなぐりで、ところどころ説明不足だったりするので読むのにすごい苦労した。これは毎度のことなんですが、これに対して日本人は毎度のごとくぶつくさ不満を漏らしていました(そのくせスペイン人に面と向かっては言わないんだけど)。実際のところ僕も、「もうちょっとちゃんと書いてよ」とは思いました。が、一方では彼らの考え方から言うと「できたところまでで良いことにし合う」というのはわりと当たり前なのです。日本人の考え方のままで彼らと付き合うと、ただ相手のいい加減さに振り回されて損しているような気分にしかならないと思うのですが。そこを日本人に皮膚感覚として理解してもらうのはやっぱりなかなか難しいと思います。やっぱり結論としてはスペインに職場全体を移転させてしまうしかないのかな。。
一般的に「ラテン系はいい加減」と言われてまして。まぁ、これは実際にその通りだとは思います。特に日本人から見たらそりゃいい加減に見えると思います。だけど彼らだってお互いのいい加減さが許せないんだったら、もうちょっとお互いにキッチリしあう社会を作るでしょう。彼らがいい加減な国民性でいられるのは、他人を許す能力が高いからなんじゃないかと思うのです。具体的に例を挙げると、「ラテン国家の国民はいい加減だ、待ち合わせの時間に平気で二時間も遅れてきたりする。」というのは見方を変えれば「ラテン国家の国民は寛容だ、待ち合わせに二時間遅れても許してあげられる。」と言えるのではないかという事です。
「他人を許す能力」というのをもう一段踏み込んで考えると、「他人を愛する能力」であり、それはやっぱりカトリックという宗教と深く結びついているんだろうと思います。同じキリスト教でもプロテスタントの国はもう少しキッチリしてる印象がありますから。
スペインでの生活を終えて日本に帰ってくる頃には、「お互いに許し合う社会」の対極にある、日本の「他人を許さない社会」が怖かったし、今も正直なところ苦手です。「他人を許さない社会」である日本は、「他人」同士の関係が著しく非対称で、その事が社会全体をお互いに不機嫌にしあってるように僕には見えます。例えば会社の仕事では上司が部下に対して「完璧な仕事」を要求し、何か手落ちがあると当然の権利のように叱責するというのは珍しくありません。お店では”お客様”の立場が店員よりも絶対的に優位であり、少しでも店員の対応に落ち度があった場合は”お客様”は正当な権利としてクレームをつけてくることが普通にあります。結果として店員の態度は表面的には無駄にうやうやしい一方で、マニュアルに沿った機械的な態度になります。
こういう非対称な関係が連鎖すると…例えば、上司に叱責された部下が飲み屋で店員の対応にクレームをつけて…ということは社会をお互いにどんどん不機嫌にしあっていきます。そんな「風が吹けば桶屋が儲かる」式の連鎖は現実にはそう起こらないでしょうが、それが起こらないということは、上司やお客様の無理難題に振り回されるストレスに常にさらされることになってしまい、やっぱり社会全体が不機嫌になっていくんじゃないかなと思います。そりゃうつ病や自殺が増えるのも無理ないでしょう。
先日、スペイン時代の元同僚が書いてよこしてきたレポートを読む必要に迫られたのですが。一応締め切りまでに送ってきたものの、まぁこれが明らかに書きなぐりで、ところどころ説明不足だったりするので読むのにすごい苦労した。これは毎度のことなんですが、これに対して日本人は毎度のごとくぶつくさ不満を漏らしていました(そのくせスペイン人に面と向かっては言わないんだけど)。実際のところ僕も、「もうちょっとちゃんと書いてよ」とは思いました。が、一方では彼らの考え方から言うと「できたところまでで良いことにし合う」というのはわりと当たり前なのです。日本人の考え方のままで彼らと付き合うと、ただ相手のいい加減さに振り回されて損しているような気分にしかならないと思うのですが。そこを日本人に皮膚感覚として理解してもらうのはやっぱりなかなか難しいと思います。やっぱり結論としてはスペインに職場全体を移転させてしまうしかないのかな。。
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